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新・私のエッセイ:2号館(No.101~200)

新・私のエッセイ~ 第135弾 ~ 『植村直己の世界』 ~ いまも尊敬される、日本人冒険家のあこがれ

 ・・・ぼくは、冒険家、


 『植村 直己(うえむら なおみ、1941年〈昭和16年〉2月12日- 1984年〈昭和59年〉2月13日)』が好きだ。


 いまでも、心から尊敬申し上げている。


 このエッセイも、いつかは書きたいと思っていた。


 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


 ・・・ぼくが植村さんのことを初めて知ったのは、1983年4月。


 中学校1年のときの、現代国語の教科書の中だった。


 三学期も半ばを過ぎたあたりで、授業では触れたが、


 教科書が配られた、入学式から遠くない日々に、ぼくは、この教科書を先取りして植村さんの手記の一部を読み込み・・・


 非常に興奮し、同時にまた、


 深い感銘を受けた。


 (・・・すげぇや。こんなガッツと生命力のある、サバイバル冒険家も、日本にはいるんだなぁ・・・。)


 それは、教科書では、


 『極点を目指して』と題され、掲載されていた。


 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


 植村さんは、ぼくがその教科書の話を読む以前から、すでに、さまざまな冒険を成し遂げ、


 日本の登山史・冒険史に、偉大な足跡そくせきを残しておられた。


 1970年に世界最高峰エベレストに日本人で初めて登頂したのをはじめ・・・


 南アメリカの最高峰、アコンカグアなども制覇し、


 世界初の五大陸最高峰登頂者となる。


 ぼくが、中1の教科書で読んだエピソードは、


 植村さんが、1978年に挑んだ、


 『犬ぞりによる単独でのグリーンランド縦断及び、北極点到達』に関する冒険の手記の一部であったのだ。


 その中で彼は、深夜のテントの周囲に大型の肉食獣・・・獰猛どうもうで危険なホッキョクグマが現われ、命からがら生還したことを明かしている。


 少年心に、とても胸踊るような、手に汗にぎって緊張感がみなぎり・・・なおかつ、ドキドキワクワクするような、魅力的な手記であった。


 同手記の中で、彼はこう述べている。


 「冒険とは・・・生きて帰ること。」とね。


 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


 ・・・そんな植村さんが、アラスカのマッキンリー山で消息を絶ったというニュースが、茶の間のTVに飛び込んできた。


 1984年、2月のことである。


 これはきっと、ご記憶の皆様も多いことだろう。


 (教科書で会ったばかりの偉大な登山家の彼が、いったいどうして・・・?)


 (植村さん・・・無事でいてください。どうか、生きて帰ってきてください・・・。)


 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


 1984年2月12日午後6時50分、世界初のマッキンリー冬期単独登頂を果たした彼は、


 翌2月13日午前11時に行われた軽飛行機との、登頂に成功したむねの情報を伝える無線を最後に消息を絶ち・・・


 それが、彼の生きた「肉声」となってしまった。


 ・・・ぼくや、日本中、いや、


 世界中の人々の願いの中、必死の捜索にもかかわらず、


 ついに植村直己さんを発見することはできなかった。


 1984年2月26日、デナリ国立公園管理事務所は、「植村の生存の可能性は100%ない」として捜索を打ち切り・・・


 その後、植村さんの母校である、明治大学山岳部OB「炉辺会ろばたかい」によって、引き続き捜索が行われたが、


 その捜索も、3月8日に打ち切られた。


 植村さんの装備品や日記、それに、トレードマークだった、


 「クレバス転落防止用の竹ざお」も見つかったのだが・・・


 植村さんの、生きた無事な姿はおろか、


 その遺体さえ、2024年現在になっても発見されていない。


 1984年12月、アラスカ州裁判所の公聴会において、植村直己さんの死亡が公式に認定され、1985年1月、板橋区役所で彼の死亡届が受理された。


 ぼくは、


 植村さんが死んだとは考えたくはないが・・・


 いまは冷静に、


 『クレバス落下説』を受け止め、そして支持している。


 彼はいまも、マッキンリー山のどこかの氷の割れ目の底深くで・・・人知れず、ひっそりと静かに眠っておられるのだろう。


 彼の生前の、雪焼けした、あの明るい笑顔を、どうしても忘れることができない。


 ・・・冒険家、植村直己。


 彼は、いまもぼくのあこがれの偉大な人である。


 m(_ _)m


 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


 追伸その1:


 たったひとつ、ぼくがさびしく感じたことがある。


 それは、


 自分を遺して旅立った、夫の直己さんに対する、奥さんのこんな言葉だ。


 ~  ~  ~  ~  ~


 1984年3月8日の捜索打ち切りの知らせを受けて、翌3月9日、妻・公子が明治大学で記者会見に応じた。


 記者:「もし生きていたら、どういうことを言いたいですか?」

 公子:「常に『冒険とは生きて帰ること』って偉そうに言ってましたので、ちょっとだらしがないじゃないの、って(言いたいです)」

 記者:「大切な人だと思えば、止める必要があったのではないですか?」

 公子:「どんな旅にも全部反対しました。でも『俺にはこれしかない』って言ってました。(そして、)反対しても出かけていく人でした。」


 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


 追伸その2:参考動画の紹介


 『【ゆっくり解説】植村直己さん消息不明事件のその後が…』

→ UP主様は、「ゆっくり凶悪事件簿」様。 

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