朝野ひばりと極秘文書
【朝野ひばりと極秘文書】
ーーーー朝野家
「やばいやばいやばい、どうしてこんなことになった……!?」
朝野 ひばりは高校から帰宅すると、すぐさま自室のベッドにもぐりこんで肩を震わせていた。
今日はアルバイトの日だったが体調が悪いと言って休みをもらった。もちろん仮病などではなかった。
自身の置かれている状況を考えると、悪寒と吐き気と冷や汗が次から次へと吹き出してくる。
スマートホンで地元の掲示板をチェックすると、どこもチョコラビ男の話題で持ちきりだった。高校の友人たちもSNS上でチョコラビ男の話題を終わりなく続けている。
「チョコラビ男って結局何者なの?」
「善人? それとも悪人?」
「ただの愉快犯のバカだろ」
「女の人を助けたんだからいい人でしょ?」
「でもおばあちゃんからひったくりしたっていうし、結局ただの犯罪者だよ」
「若くて綺麗な女子大生は助けたけど、歳食ったしわくちゃのババアからはひったくり。男なら気持ちはわかるよな」
「あほくさ」
「そもそも同一人物の行動とは言えないだろ」
「ウサギのお面をかぶった男がそう何人もいてたまるかよ」
「そいつらグルなのかもしれない」
「裏で繋がってるとしたらやってることが正反対で何がしたいのか意味不明」
「だからやっぱり愉快犯のバカだって」
そんな会話がひっきりなしに飛び交っている。学校どころか街中がチョコラビ男の噂に盛り上がっているが、ひばりはとてもそんな気分にはなれなかった。
「…………」
青ざめた顔でもぞもぞとベッドから這い出ると、鍵のかかった机の引き出しを開ける。
中に入っていたのは大きな茶封筒だった。震える手で恐る恐る中に入っているものを取り出す。
何十枚もの原稿用紙が束になったそれは、最初の一枚に汚い字で『(仮題)善悪の仮面』と書き殴られていた。
「俺がこの話を掲示板に投稿したせいなのか……?」
その原稿がひばりには呪いの書物のように感じられた。
ひばりは何不自由ない人生を送る至って普通の男子高校生だ。
都内でも偏差値が上の方の高校に通っている彼は、必死に勉強をしなくても成績はいつもそれなりに良いし、帰宅部ではあったがスポーツも得意だった。家族との関係も良好で交友関係にもなんら問題はない。強いて不満をあげるとすれば、まだ彼女がいないことくらいか。
彼のように何事にも恵まれた生活を送ることができる者は少ないのだが、ひばりは自分自身が恵まれているとは思っていない。そのどれもが彼にとって当たり前の環境だからである。
そして、彼はそんな恵まれた自分の人生を退屈に感じていた。人生がひっくり返るような強烈な体験もなく、平穏で平坦な毎日が続くだけの日常が、彼にとっては愛しくもつまらない生活だったのである。
将来のことについて考えても、何か強烈な熱を持ってやりたいことなどないので、わざわざ先のことを考えるのが億劫になるくらいだ。どうせどんな道へ進んでも、それなりになんとかなるとだろうと考えている。年頃の男子らしくひばりもゲームやアニメが好きなので、将来はそのあたりの仕事に関わるのがいいかな、などとぼんやり無計画に思う程度だった。
そんなひばりの日常に転機が訪れたのはほんの数日前のことだ。
その日休校だったひばりは、昼過ぎにS記念公園にある喫茶店に居た。そこで男が大声で怒鳴っているところを見かけたのである。
若い男と骸骨みたいな中年の男の二人組。骸骨のような男が鬼気迫る形相で大声でわめいていた姿が強く印象に残った。仕事の話をしているのかと思ったが「お前の頭の中はからっぽなのか」だの「そんなことだから独身なんだ」だの、明らかに仕事とは関係のない非難の言葉が飛び交っていた。さすがに見かねた店長が二人に注意しに行って口論は収まったが、若い男が帰った後も骸骨のような男は一人でぶつぶつ言いながらしばらく席に居座っていた。しばらくして席からバン、という大きな音が聞こえたかと思うと、男は不機嫌そうな顔のまま、ずかずかと会計へと歩いていった。途中でひばりとぶつかったが、男は謝ることもせず、むしろ舌打ちをされたくらいだ。男が帰った後にその席へ行ってみると、そこに残されていたのが例の茶封筒だったというわけだ。
後を追いかけて届けてやろうかと思ったが、それまでの男の態度を考えると関わるのも面倒くさそうだったのでやっぱりやめた。ただ、封筒の中身は気になったのでこっそりと家に持ち帰ってきたのだった。
代わり映えしない退屈な日常に現れたその特異な存在に興味が湧いたのだ。
「なんだこれ、小説……?」
自室で茶封筒を広げたひばりは中に入っていた原稿と対面してそう呟いた。百枚を超える原稿用紙には、お世辞にも上手いとは言えない字で物語が綴られていた。興味本位で読み始めたひばりだったが、頻出する難解な語彙や、哲学や心理学の用語を引用した回りくどい描写が受け入られず、三分の一も読み進められずに途中で読むのを止めてしまった。
「……全然面白くねー。その辺のラノベの方がよっぽど面白いじゃん」
原稿の束を机の上に放り投げると誰にでもなく不満を垂れた。自身の退屈を紛らわせるほどの代物ではなかったのだと落胆する。宝の地図とまではいかずとも、何か公にはできないような極秘文書なのではないかと空想に胸を躍らせていたのだ。しかし、現実は何の変哲もない小説。しかも面白くもなんともない。
とりあえずこれからこの小説をどうするべきかと考えを巡らせた。真っ当に考えれば持ち主に返してあげるべきなのだろうが、封筒にも原稿にも個人を特定できるような情報はない。それに自分で椅子に叩きつけていたようなものだ、忘れていったのではなく捨てる目的でわざと置いていったのかもしれない。となれば喫茶店に忘れ物として預けておいても、骸骨男が取りに来るかは怪しい。
(っていうか、そもそもなんで俺があんな奴の忘れ物を届けてやらないとならないんだよ)
静かな喫茶店の雰囲気をぶち壊しにする怒号や、自分からぶつかってきたクセにこちらが悪いかのように舌打ちしてきた男の態度が今更になって腹立たしく思えてきた。迷惑をかけられたのはこっちなのに、なぜ自分が見ず知らずの男に親切にしてやる必要があるのかと思えてくる。
その苛立ちはやがて、男が書いたと思われる小説へと向かう。封筒の中に何が入っているのかとわくわくしていたひばりは、中身がただの小説だったことに落胆と失意を抱かずにはいられなかった。「俺に迷惑をかけた男と、余計な期待をさせたこの小説には罰が当たるべきなんじゃないか」なんて自分本意な思いがふつふつと湧いてくるようだった。ひばりが封筒の中身に勝手な希望を抱いていただけなのだが、男への不満でいっぱいになっていたひばりはそんなことは気にもしなかった。
「……これネットに晒しちゃおうか」
あれこれ思いあぐねた末に、そんな稚拙な結論に至った。
小説のつまらなさに対して他人から同意を得ることでができれば、小説だけでなくそれを書いた男も同時に貶めることができるという考えだった。他人の作品を第三者が勝手にインターネットに投稿するなど著作権の侵害で訴えられそうではあったが、捨ててあったものなのでいくらでも言い訳できるだろう、と都合の良い解釈を自分に言い聞かせた。
早速パソコンを起動すると原稿の汚い字と格闘しながら、冒頭の文章を地方掲示板に投稿した。投稿を利用者数の少ない地方掲示板にしたのは、大勢の目について万一にも大事になることを避けるためであった。
もっとも、様々な偶然が重なった末に、この投稿は注目を集めて大きな騒動になってしまうことになるのだが、その時のひばりはそんなことを知る由もない。
『東京都T市』の掲示板に投稿を終えると早速いくつかの書き込みがあった。
「いきなり意味不明」
「自分に酔ってるのが見え見えのクソポエム」
など辛辣な言葉が並んでいるのを見て、ひばりは満足そうに頷いた。
自分が嫌っているものが他人に批判されると、何故か自分が肯定されるような錯覚を覚える。その時のひばりもそんな優越感を味わっていた。
(しっかし……これ全部投稿するってなるとだいぶめんどくさいよなぁ……)
分厚い原稿の束をまじまじと見つめると、心の中でため息を吐いた。
タイピングは苦手ではなかったが、冒頭を文字起こしするだけでも思ったより時間がかかってしまった。この分厚い原稿全部を入力するとなると一体どれだけの時間がかかるのだろうかと先が思いやられる。原稿を写真に撮ってアップロードしてしまえばそれが一番楽だが、明らかに不自然な方法である。掲示板への投稿というのは腹いせとしては悪い方法ではなかったが、今度はこんな小説を文字起こしすることに時間を取られることに不満が湧いて来た。
「……ま、続きは暇なときでいいか」
冒頭の一文が酷評されているだけでもそれなりに満足したので、深く考えずにひばりは原稿を机の引き出しへとしまった。その後、ひばりは夜中まで友人とオンラインゲームに熱中していたので、小説のことなどすっかり忘れてしまったのであった。
そして今日、ひばりは学校でチョコラビ男の噂話を聞くことになる。
放課後に友人たちがチョコラビ男について熱く議論を交わしているところに居合わせたのだ。
退屈な日常に現れたその謎の人物の噂話は、当然ひばりにとって心ときめくものだった。詳しく話を聞いていると友人の一人がスマートホンを見せてきた。
「でな、これがネットに投稿されてたチョコラビ男の予告文らしいんだよ」
「ふーん……ん!?」
友人から見せてもらった画面の中には、自分が先日投稿した小説の一文が並んでいた。
あまりの驚きにひばりは飲んでいたコーラを吹き出し、盛大に咳き込んだ。
「どうした朝野、大丈夫かよ」
「ゲホッ、ゴホッ……わ、悪い、炭酸でちょっと咳込んじゃっただけで……」
「ったく汚ねぇなぁ」
友人たちが苦笑いする中、ひばりはこの状況を全く理解できず、気が動転していた。
(え? どういうこと? これって俺が投稿したあの小説だよな? え? ええ?)
予想外の不意打ちを脳天に叩き込まれ、考えがまとまらずに思考が乱れたままだ。
どうにかして落ち着こうと努めていたひばりに、友人の一人が追い討ちをかける。
「でもさ、この投稿はまずかったよなぁ」
「え? ……まずいの?」
「だってそうだろ、警察が本格的に捜査に乗り出したらこの投稿から自宅割れるじゃん。仮にネカフェとか別の場所から投稿してたって、場所と日時がわかるから防犯カメラに本人写ってるだろうしさ」
友人の指摘を聞いて、ひばりの顔は次第に青ざめていく。
当然ながら自分はチョコラビ男の一連の行動とは無関係だ。だが、この投稿が自分のパソコンからアップロードされたものだとわかったら、一体どうなってしまうのだろう。自分がチョコラビ男本人だと思われてしまうのだろうか。事情を正直に説明したとして、信じてもらえるのだろうか。そもそも自分は本当に無関係と言えるのだろうか。逮捕とまではいかずとも、事情聴取は免れないのではないか。そんなことになったら家族にも学校にも連絡が行って大騒ぎになってしまう。そして、この平穏で平坦な日常は一瞬で崩れ去ってしまう。退屈な日常を変える特別なドラマが欲しいとずっと思っていたが、こんなかたちで日常が脅かされるのはこれっぽっちも望んでいない。
そんな考えがひばりの脳内に溢れ続け、視界が歪んでいった。
その後友人たちに別れを告げ、おぼつかない足取りで家に帰り、現在に至るというわけだ。
「くそ! 全部あの骸骨男のせいだ!」
悪態をついて忌々しい小説を床に叩きつけると、留め具がはずれて部屋の中に原稿用紙が舞い散った。掲示板への投稿は明らかに彼の過失だが、自分は悪くないという思いに駆られているひばりにとってはそんなことはおかまいなしだ。
(この小説もあいつが書いたもので、俺には関係がない。この文章が本当にチョコラビ男の予告文なら、これを書いたのはあの男であって俺じゃない!)
そんなことを考えていたところで、ひばりの脳内にある考えがよぎった。
(まてよ……もしかしてあいつがチョコラビ男なんじゃないのか……?)
その閃きは追い詰められていたひばりにとって、もはや天啓だった。
骸骨男が自分の書いた小説の内容をなぞって現実にするために、チョコラビ男として騒動を起こしたのではないか。それならば小説の内容とチョコラビ男の行動が一致しているのも当然だ。なにせ自分で書いた小説なのだ、その通りに行動できるに決まっている。よくよく考えれば他人に迷惑をかけてもなんとも思わない男だ、ひったくりなんか平気でやってのけそうだ。骸骨みたいな悪人面を隠すためにチョコラビのお面をかぶったんじゃないのか。
と、次から次へと自分の推理を後押しする根拠が浮かんでくる。
自分の推論に確信を持つにつれて、ひばりの顔にはみるみる生気が戻っていった。死人のように顔面蒼白だった先ほどの彼とは別人のようである。
チョコラビ男の容疑者として疑われてしまうかもしれないという恐怖は依然としてあったが、それよりもチョコラビ男の正体に近づく唯一の証拠をこの世で自分だけが握っているのだという興奮の方が遥かに大きかった。
まるでたった一つの決定的な証拠を手に、難事件に挑む名探偵にでもなったような気分だった。そう思うと呪いの書物が黄金に輝く聖書にすら見えてきた。
もはやひばりはあのとき封筒を拾ってきたのは運命だったのだと思うようになっていた。やはりこの小説との出会いが自分の日常を変えるピースだったのだ、と。ひばりの胸中では容疑者として追われるスリルと、真実へと至る道筋を自分だけが辿っていくことができるのだという全能感とが無限に膨らんでいった。
床に散らばった原稿の中から『(仮題)善悪の仮面』と書かれた表紙を拾い上げると、少年は高らかに宣言した。
「俺がチョコラビ男を捕まえてやる!」