千森華奈と鈴村沙奈恵と迫る影
【千森華奈と鈴村沙奈恵と迫る影】
ーーーー某マンション・四○一号室
「で、どうしたの急に? 話があるなんて」
とあるマンションの一室。千森 華奈は目の前に座る鈴村 沙奈恵にやや冷たい声色で話しかけた。
今日は休日なのでお気に入りの喫茶店に行く予定だったのだが、沙奈恵から「相談したいことがある」と連絡があり、こうして彼女の部屋に呼び出された。楽しみにしていたパフェを断念して話を聞きに来たのだ、華奈にしてみれば文句の一つも言ってやりたいところだった。
「鈴村さんがわざわざ私に用があるっていうくらいだから、それなりに理由があるんでしょ?」
二人は都内の同じ会社に勤める同期の社員である。同じオフィスで仕事をしているものの、特に親しく交流している間柄でもなかった。
というのも、沙奈恵と華奈は社内では両極端な立ち位置に居るからだ。
沙奈恵は社内でも噂になるほどの美人で、知的な雰囲気と相まって常に人気の存在だった。自分から輪を作るタイプではなかったが、その容姿や立ち振る舞いから自然と彼女を中心に人が集まってくるようだった。
しかし、そんな自分の立場に酔うことはなく、仕事には誰よりも真摯に取り組むので業務成績も非常に良い。上司から気に入られ、部下から憧れられているのも当然と言えた。
一方で、華奈は社内ではかなり地味なポジションの人間だった。人付き合いが悪いわけではないが、支障がない範囲で人間関係を最小限に留めている。沙奈恵が人の輪の中心にいる存在だとしたら、その外輪から一歩引いたところにいるのが華奈だ。仕事においても与えられた分はそつなくこなすが、逆に言えばそれ以上を率先してやることもしない。良くも悪くも目立たない存在だった。
そんな二人なので、業務中に必要があって話すことはあっても、プライベートの話をすることなどほとんどなかった。二ヶ月ほど前に華奈はこのマンションに引っ越してきたのだが、沙奈恵も同じマンションに住んでいると知ったのもつい先日の話だ。
「それがね……」
華奈に促されて沙奈恵はようやく重い口を開いた。
「……私、ストーカーに狙われてるみたいなの」
「ストーカー?」
思わず聞き返す華奈に、真剣な顔で頷くと沙奈恵は事のあらましを話し始めた。
数週間前、路上で野球帽をかぶった不審者に襲われそうになったこと。そのときは無事に逃げることができたが、先日物陰からマンションの自分の部屋を覗く人影を見てしまったこと。
「警察には相談したの?」
話を黙って聞いていた華奈はまず考えられる至極真っ当な対処法を尋ねた。
「もちろんすぐ相談した。不審者のこともあるし最近物騒だからパトロールは強化してくれるって。ただ……実際に何か被害が出ているわけじゃないから本格的に捜査したりはできないって」
「無能な警察にありがちな返事ね。そのぶんじゃパトロール強化っていうのもどこまで信じていいんだか……」
そう言ってから華奈ははっとして口をつぐんだ。沙奈恵の不安を煽るようなことを言ってしまったことを後悔する。
失言をごまかすように気になっていたことを聞いてみる。
「……で、事情はわかったけど私への話って? 警察に相談したなら、悪いけど私にできることなんてないと思うけど」
「それなんだけど、ストーカーが捕まるまでしばらくの間ボディーガードをして欲しいの」
「ボディーガード……って私が!?」
沙奈恵からの予想外の提案に思わず華奈の声が上ずる。
「実際はボディガードなんて大層なものじゃなくて、会社から一緒に帰ってくれるだけでいいの。もちろんできる限りのお礼はするよ。千森さん私と同じマンションに住んでるから、あんまり負担にはならないと思うし、格闘技やってたって聞いたから、もし何かあっても頼りになりそうだし……」
「待って待って、話が急すぎる」
「そうだね、ごめんなさい。……でも二人なら危ない目にはそうそう遭わないと思し、私だけじゃなく千森さんも安心して夜道を歩けると思うの」
実際のところ、沙奈恵の言うように一緒に帰る程度なら華奈にとってさほど負担ではなかった。お礼という言葉に反応したわけではないが、期間と謝礼の内容次第では引き受けても良い気さえした。
だが、華奈にとっては余計な人付き合いが増えるということは面倒でしかなかった。さらに言ってしまえば、華奈は沙奈恵のことが少し苦手だった。彼女の性格を嫌っているわけではないのだが、その完璧とも思える人柄が、恵まれた環境が、全てにおいて自分と違う存在に見えてしまっていた。沙奈恵という眩い存在に対して途方もない距離を感じていたのだ。
「……一人で夜道を歩くのが怖いなら、彼氏にでも送り迎え頼めばいいんじゃない?」
「そんな便利な彼氏がいたらこんな相談はしてないよ。残念ながらここ数年は独り身です」
「じゃあこれを機に適当な男でもひっかけたら? 鈴村さんが相手なら喜んでボディーガードを引き受けるって男がいくらでもいると思うけど」
「そんな下心のある男の人に毎日家まで送ってもらう方がストーカーより危ないよ」
「それは……たしかにそうね」
うーんと唸りながら代替案を考える華奈だったが、ふと沙奈恵と目があった。
「……そんなに嫌?」
「あ、嫌って言うか、その……」
まっすぐに綺麗な瞳で見つめられて思わずたじろぐ。自分が男だったらこんな美人に上目遣いで見つめられたら、とても正気ではいられないだろうなんて考えてしまう。
「……逆に聞くけどなんで私に相談したの? 同じマンションとはいかなくても家が近くて、私よりもっと仲が良い人だっていると思うんだけど」
沙奈恵の真剣な眼差しに答えるように、華奈も率直に疑問に思っていたことを聞いてみた。
「条件が一番良かったっていうのはもちろんあるけど……それ以上に千森さんと仲良くなりたかったから」
「私と?」
「うん。なんだか私たち、似てる気がして」
「…………何それ、もしかして嫌味?」
普段は当たり障りのないことを言って相手の意見に合わせる華奈だったが、その沙奈恵の言葉には反論せずにはいられなかった。恵まれた人間がそうではない者へ抱く親近感なんて、そんなものは好意ではなくて憐みや情けだ。人間関係に波風を立てるのは華奈の望むところではないが、もし喧嘩を売られているのなら喜んで買う。
しかし、敵意を向ける華奈とは反対に、沙奈恵は柔和で穏やかに語る。
「嫌味なんかじゃないよ。……私は仕事でもプライベートでも本当に仲の良い人がいない。上辺だけならそれなりの関係を築くことはできるけど、そこから一歩を踏み込むのも、踏み込まれるのも面倒臭いから常に自分から距離をとってる。あんまり誰かと距離が近すぎると、今度は別の誰かが妬み嫉みを私に向けてくるしね。そんなつまんないことで今まで何度も苦労してきたから、もうこりごりって感じ」
「…………」
「千森さんが私のことどう思ってるかわからないけど、私はずっと前から千森さんのことを私と似てるって思ってたよ。愛想笑い浮かべて、適当に流して、周りの流れに逆らわないようにしてる。なんだか自分の別の姿みたいだなって」
沙奈恵の語りを聞いて贅沢な悩みだなと思った華奈であったが、たしかに彼女の言い分を聞くと自分と似ているところがある気がした。二人の違いは人という流れの中心にいるか、外側にいるかで、本質的なところは同じなのだろう。沙奈恵のことを誰からも愛される恵まれた存在だと思っていたが、今の話を聞いてみると彼女の今までの姿がだいぶ違って感じられるから不思議なものだ。見た目も性格も異なるところばかりだが、他人と一定の距離をとろうとするところは同じであるように思えた。
だからこそ華奈は沙奈恵が自分と同じように、心の奥深いところでは孤独から逃れようとしているのだろうと思えた。SNSで馴れ合う大学の同輩や会社の同期を内心で蔑んでいる華奈だったが、そんな繋がりを持とうともしない自分自身のことはそれ以上に蔑んでいる。結局は他人と関係性を持ち、それが歪み、壊れることが怖いのだ。関わり合いにならなければ煩わしい思いをすることもない。だから一人でいる。それが千森華奈という人間だった。
「……でもやっぱり似てないよ。私はあなたみたいに美人じゃないし」
「そう? 目立たないだけで千森さんすごく綺麗だよ。髪は長くてさらさらだし、顔立ちだって整ってるし。軽いメイクしかしてないのにそれだけ綺麗に見えるんだから、素材が良いってわかるもの」
自分が美人だと言われたことはそのまま受け取るのか、と内心小憎たらしく思った華奈だったが、久しく容姿を褒められたことなどなかったので、その一言はぐっと胸にしまっておいた。
「……わかった、引き受ける。とりあえず今週分の謝礼は『ラパン』のパフェで手を打つわ」
「本当? ありがとう!」
沙奈恵の顔がぱっと明るくなる。その愛らしい笑顔を見て「やっぱり似てないな」と華奈は卑屈に思う。
「それにしてもストーカーね……心当たりはないの? さっきの話を聞く限りだとその野球帽の不審者っていうのがストーカーっぽいけど」
「私もそう思うんだけど……ちょっと気になってることがあって」
「気になること?」
「私の部屋を覗いてる人影を見たって話したでしょ? 一瞬でよく見えなかったんだけど、その人がチョコラビのお面をかぶってたみたいなの……」
「それって最近話題になってる『チョコラビ男』ってやつ……?」
沙奈恵が口にしたチョコラビのお面という言葉に華奈は敏感に反応した。
数日前、チョコラビというウサギのキャラクターのお面をかぶった謎の人物がこの辺りに出没したとT市の人々の間でちょっとした話題になっているからだ。
インターネット上の掲示板に予告文ともとれる謎の文章が投下され、その後チョコラビのお面をかぶった男の目撃情報が寄せられ。だが、女子大生を助けたという話もあれば老婆にひったくりをしたという話もあり、行動の一貫性の無さからその正体について様々な憶測が飛び交っているのだった。
「私はそういうゴシップには詳しくないし真相とかどうでもいいんだけど、鈴村さんを狙ってるストーカーがチョコラビ男ってことならやっぱり悪い奴なんじゃないの」
「それが、女子大生を襲った不審者っていうのが野球帽をかぶってたらしいの。多分私が襲われそうになった不審者と同じ人」
「ん? チョコラビ男はその不審者から女子大生を助けたのよね?」
「そう。だから野球帽の不審者とチョコラビ男は別人なんだと思う」
「じゃあその不審者に襲われそうになってた女の子は助けるけど、自分はストーカーしてるってこと? 噂の通りホントに行動がちぐはぐな奴ね……」
あれこれ考えても憶測の域を出ないので華奈はこの話をさっさと切り上げることにした。
「ま、そのストーカーが捕まればわかる話でしょ、もし次見かけたらすぐ警察に通報するのよ」
「う、うん、そうする。落ち着くまでしばらくの間よろしくね」
それから軽く防犯や自衛の話をして華奈は沙奈恵の部屋を後にした。
沙奈恵の部屋のすぐ上の階にある自室へ戻ると、慣れない人付き合いを終えた疲れがどっと押し寄せてきた。休日だというのに余計な疲労を増やさないで欲しいと思う。飲まずにはやっていられないと、明日は仕事だというのに冷蔵庫から缶チューハイを取り出した。
ぐっと一気にあおると、ふと窓の外を眺めた。マンションの前の路地、街灯が切れかけてチカチカと不規則に照らされているあの電柱のあたりに、珍妙なウサギのお面の男がいたのかと想像してみる。
「ウサギのお面か……そういえば文化祭の出し物にそんなのが出てきたっけ」
ふと高校の文化祭でクラスの催し物が寸劇だったことを思い出す。
ウサギの王子とカメの王子に求婚される人間のお姫様の話で、華奈の役はお姫様の侍女の一人だった。台本の中でウサギの王子を軽く叩くシーンがあったのだが、華奈はこの王子役の男子のすかした態度が日頃から気に食わなかったので、劇の当日には少しばかり力を込めて正拳を入れてやった。彼が痛みに悶えながら震える声で姫に愛の告白をするシーンは、その情けない姿とミスマッチなキザな台詞から場内の観客たちを笑いの渦に包んだのであった。
「そんな格好のアホが本当にいたら今度こそ本気でぶん殴ってやろっかな」
昔を懐かしみながらぽつりとそう呟いて、空になったチューハイの缶をゴミ箱へと投げ捨てた。