中村幸太郎と退屈な日々
【中村幸太郎と退屈な日々】
ーーーー某マンション・八○三号室
「ほんとに何もない街だよなぁ……いいことなんだろうけどさ」
中村 幸太郎は心底つまらなさそうな顔で、マンションの自室から夕暮れ時の街並みを眺めて呟いた。
この部屋に引っ越してきてから何度も見た代わり映えのしない住宅街は、彼にとっては何の変哲も面白みもない”土くれ色の街”でしかなかった。
その日の午後、仕事の打ち合わせで外出した幸太郎は会社には戻らずにそのまま自宅へと直帰していた。打ち合わせが終わってから就業時間まではだいぶ時間があったが、適当な理由を作って早上がりした。外出先からノーリターンなんてことはよくある話であり、それを咎めるような者はいなかった。
家に帰るなり、冷蔵庫から取り出した缶ビールを口内へと流し込む。
喉を通り過ぎ、胃にゆっくりと落ちていく冷たさを感じながら、ベッドの上でスマートホンを片手にゆっくりと足を伸ばした。
「端っこの方とは言え一応東京なんだし、もうちょっと噂話とか事件とかあってもいいと思うんだけどなぁ」
中村幸太郎という男は常に自分が『面白い』と思える何かを探し続けていた。それが彼の行動原理であり、少々大げさだが唯一の生きる目的であった。
子供の頃は好きなことを好きなように没頭し続けてきた。水泳や空手といったスポーツだけでなく、ピアノや英会話まで幅広い習い事に興味の赴くままに挑戦した。ただし、興味という炎が消え失せたら、それまでの熱意が嘘のようにすっぱりと辞めてしまったのだが。
高校、大学と演劇部に入っていたのも、日常とは切り離された、夢のような舞台の上で役を演じるのが魅力的で仕方がなかったからである。
自分が面白いと思える仕事に携わりたいと思い、大学卒業を機に上京しイベント関係の会社に就職した。日常とはかけ離れたエンターテイメント性に溢れた仕事ができるかと期待していた彼だったが、期待に反して待っていたのは裏方の雑用と資金繰りに奔走する日々。理想というステージから突き落とされ、現実という暗幕の裏側を直視することになった。
勤めていた会社の経営が怪しくなってきたので、さっさと辞めて適当に募集のあったT市内に支社を持つ会社に転がり込んだ。その会社でも当然面白いと思えることを探そうとしたが、直属の上司は堅物で、同僚は生真面目、仕事相手は無愛想だった。やがて仕事というものに面白さを見出すのはやめた。
そんな訳で、幸太郎は人並みの生活を送りながらも、人並み以上に自分の生活を退屈に感じながら生きているのだった。
もはや自分の身近なところで事件やドラマが起きることは諦めていたので、インターネット上の掲示板やSNSを眺めては、何か興味を惹かれる出来事はないかと探すのが彼の日課になっている。それが彼にとっては暇つぶしの手段の一つであり、ある種の現実逃避でもあった。
とはいえ、そんな出来事などそうそうあるはずもない。
幸太郎がぼやいたようにT市は東京ではあるが、西の外れのベッドタウンだ。そこに流れる空気は都心のめまぐるしくもきらびやかなそれとは違い、地方都市によくあるどこかのどかさを感じさせる穏やかな空気に似ていた。
観光地といえば関東でも有数の大きな公園があるくらいで、駅前の商業地域を除けばあとはほとんどが住宅街、残りが山林というこれといって特筆すべきところもない都市である。物価がそれほど高くはなく、都心へのアクセスがしやすいことから『住み良い街』として名前が挙げられることもあるが、治安はあまり良いとは言えない。
つい先日、市内の不良高校生たちが騒ぎを起こしたばかりだし、近頃は女性を狙う不審者の目撃情報もある。こういった話も事件といえば事件ではあるが、当然幸太郎の求めるドラマティックでセンセーショナルな出来事とはかけ離れた低俗なものなのであった。
「……ハハッ、くだらな」
幸太郎は掲示板の書き込みをぼーっと眺めては、時折小馬鹿にしたようにほくそ笑む。
インターネット上の掲示板は、その話題毎に様々なカテゴリーに分けられているが、彼がよく閲覧するのは地域掲示板の西東京板だった。言うまでもなく自分の住むT市周辺で何かゴシップが転がっていないかという淡い期待によるものである。
一通り記事を眺めて今日もたいして興味を惹かれる書き込みはなかったと、掲示板へのアクセスを切ろうとしたときだ。
(……あれ? 珍しいな)
突然『東京都T市』の掲示板に書き込みがあった。あまり頻繁に書き込みのある掲示板ではないので、興味本位でページを開いてみる。
するとそこには、何の脈絡もなく意味不明な文章が投下されていた。
ーー私は自分で自分が何者なのかわからない。
ーー自分の本質が善なのか、悪なのか。それともまた別の何かなのか。
ーー誰かを守り助けたいと願う高潔な心も、誰かを虐げ傷つけたいと目論む残虐な心も、等しく私の中に息づいている。
ーー肥大し続ける相反する感情は矮小な頭の中には到底収まりきらず、私というちっぽけな存在を押しつぶす。
ーーこうして残った私は一体何だ? この男は誰なのだ?
ーー鏡に映る醜い男の顔を隠そうとして仮面をかぶった。
ーー……そうだ、この薄っぺらい仮面こそが私の顔なのだ。
ーーそうして私は私でない別の何かとして生まれ変わる。
ーー行かなければ。夜が私を呼んでいる。
「…………」
幸太郎は神妙な顔で今しがた書き込まれた詩のような文章を繰り返し読み返す。
一見するといたずらのようにしか見えない文であり、ネットの掲示板ではそういった意味のない雑多な書き込みも少なくない。それを証拠に先ほどの書き込みに対しても掲示板の閲覧者たちから大きな反応はなく、「いきなり意味不明」「自分に酔ってるのが見え見えのクソポエム」などといった罵声に近い辛辣な書き込みが二、三あった程度だ。
一方で、前後のやりとりを無視していきなり書き込まれたその文章は明らかに異質で不可解なものでもあった。
幸太郎の胸中には様々な疑問や推測が浮かんでは消えを繰り返している。そして、この何の面白みもない街で、自分の身近なところで、『何かが起こりそうだ』という好奇心と期待が、身体の奥底でふつふつと膨らんでくるのを感じていた。
「これはひょっとすると……ちょっと面白いことになるかもしれないな」
幸太郎の頭の中に鐘が鳴る音が聞こえる。
久しく聞いていなかった、楽しさの予感を告げる高らかな鐘の音が。
改めて窓の外の景色を見ると、日の落ちた薄暗い街並みは先ほどまでとは違って色づいて見えた。