エピローグ
【エピローグ】
ーーーーT市内・駅前
チョコラビ男の騒動が終わりを迎えたあの日から一ヶ月以上が経った。
師走の月になり季節はすっかり冬である。東京の西に位置するT市に吹く山風は、日ごとに冷たさを増していくようだ。
「あー、寒い。打合せなんて今時ウェブでいいだろうに、わざわざ移動に時間を割いてまで対面でやるなんて、非効率的にもほどがあるよ」
中村幸太郎はそんな不満をこぼしながらチェック柄のマフラーに顔をうずめた。
彼の怪我していた足は既に完治しており、今や飛んでも跳ねても何の支障もない。軽い捻挫だったので本来とっくに全快していたのだが、出歩くのが億劫だった彼は何かと理由をつけては出社や外出を拒み続けてきた。だが、さすがに最近上司に足の具合を怪しまれるようになってきたので、こうして渋々足を使う仕事も始めているのだった。
幸太郎は寒さから身を守るようにのそのそと重い足取りで駅前の通りを歩いていたが、目の前を歩いてくる女子高生の二人組がふと目に留まった。一人は黒髪の真面目そうな少女、もう一人は茶髪のショートカットが良く似合う快活そうな少女。至って普通の少女たちだ。
幸太郎と彼女たちは全くの初対面であったが、年若の女性という点でチョコラビ事件で出会った初田夢乃のことを思い出したのである。
チョコラビ男の一件は幸太郎にとって退屈な生活を鮮やかに彩った貴重な時間であった。何より彼自身が、その事件に深く関わっているのだからその体験が彼に与えた感動と熱は殊更に大きかった。
またあんな胸躍る体験をなぞってみたいという気持ちを今でも強く持ち続けている。
だから彼は自分が楽しむために、いつものように人の悪いいたずらを思いつく。
「君たちちょっといいかな?」
すれ違いざまに幸太郎は不意に二人の女子高生たちに声をかけた。
当然ながら見知らぬ男にいきなり呼び止められて二人は幸太郎のことを警戒している。
「あぁ、僕は怪しい者じゃないよ、週刊誌の記者をしていてね、今取材中なんだ」
彼女たちの顔色を察してか、幸太郎は極めて柔和な笑みを浮かべてポケットの名刺入れから自分の名刺を取り出し二人へ渡した。
手渡された名刺には彼女たちも知るT市内に支社を持つ出版社の社名が記されていたので、幸太郎の人の良さそうな笑顔もあって二人はすぐにその言葉を信じた。
幸太郎がそこで記者をしているというのは全くの嘘っぱちなのだが。
「少し前にT市でチョコラビ男っていうのが話題になったでしょ、あの事件について調べているんだ」
いかにも取材中ですと言うように、鞄から手帳とボールペンを取り出してメモをとる素振りを見せる。
「事件の全容は大まかに把握しているつもりなんだけど、最後にどんな結末を迎えたかっていうところがどうにも曖昧でね。君たちは何か知ってる?」
幸太郎は手にしていたボールペンをマイク代わりに女子高生たちへと向けて尋ねる。その姿は記者というよりテレビの街頭インタビューに近い。
「そういえばあったね、チョコラビ男」
「ね。一時期はみんなすっごい騒いでたのにね」
彼女たちは顔を見合わせて頷き合った。幸太郎にチョコラビ男の話題を振られるまですっかり存在を忘れていた二人だが、あれこれ話しているうちに次第に当時の記憶が呼び起されていく。
黒髪の少女がチョコラビ男騒動のことを思い出しながら先に幸太郎に答えた。
「全部ヤク中の不審者の仕業だったんでしょ。ウサギのお面をかぶって女子大生を襲って、ひったくりもして、結局最後は逮捕されたって」
黒髪の少女がそう語ると、もう茶髪の方が少し驚いたようにそれを否定した。
「え、そうなの? ウチはホームレス集団の仕業だったって聞いたよ。女子大生助けたのもひったくりしたのもホームレスだったって。夜中にS記念公園で大勢のホームレスがチョコラビのお面かぶってるのを見たって人もいるみたいだし。ホームレスの考えることよくわかんないけど、ウサギのお面は仲間の証的な?」
「あー、ホームレス説派なんだ?」
食い違う二人の証言だったが、黒髪の少女はその状況にも何故か納得しているようである。茶髪の少女は不思議そうな顔をして友人に尋ねる。
「ホームレス説? どういうこと?」
「この話って最後のオチがなんだか色々あるみたいなんだよね。チョコラビ男の正体が結局ハッキリしてないっていうか。不審者だったり、ホームレスだったり、拳法の達人の女の人だったり……ガイコツみたいな顔した死神だって言う人もいるくらい。そんなだから人によって結末がバラバラなの」
「ふーん。じゃあよくわかんないままなんだね」
「そう。それで私はヤク中説が一番しっくりくると思ってるからさっきはそう答えたの。実際、捕まった不審者はチョコラビのお面を持ってたみたいだし、何よりクスリで変になってるような人ならウサギのお面かぶって何やってもおかしくはないかなって」
二人のやりとりを聞いていた幸太郎は手帳に適当な走り書きをする。自分で自分を記者ということにしたので、元演劇部である彼は設定と役作りには忠実である。
「なるほど、やっぱり意見が分かれるところだね。僕もあれこれ調査してみたけど、君の言うように薬でおかしくなった不審者の犯行って言う人も多いよ。お友達の言うようにチョコラビ男の正体はホームレスたちだったと言う話も少なくないね」
彼のその言葉は決して架空の調査に基づいた発言ではなく、インターネット掲示板やSNSのチョコラビ男に関する書き込みからの意見であった。
「まぁウチはもうどうでもいいかな。あれからチョコラビ男の噂なんて全然聞かなくなっちゃったし」
「そうだね、過ぎたことってわけ」
女子高生たちはたいして興味がなさそうに答えた。彼女たちもほんの一月ほど前はチョコラビ男の噂話で友人たちと盛り上がっていたのだが、今となってはどうしてあんなに面白おかしくその話題を取り上げていたのか不思議なくらいだ。今の彼女たちにとっては週明けの古典の小テストの方がよほど関心がある。
「そうかそうか、ご協力ありがとう」
そんな彼女たちの反応を少し寂しく思いつつ、幸太郎は手にしていた鞄に手帳とペンをそっとしまう。
「でも気を付けてね。君たちもどこかでチョコラビ男に会うことがあるかもしれないからね」
彼女たちが幸太郎の言葉の意図がわからず不審に思っていると、彼は鞄の中からあるモノを取り出して自身の顔の前へと持っていき不敵に言い放った。
「こんな風にね」
あろうことか、彼が手にしていたのはチョコラビのお面であった。
真っ白な歯を見せてにやりと笑う茶色のウサギの顔が女子高生たちを不気味に見つめている。
彼女たちの胸中は一呼吸する暇もなく驚きと恐怖で埋め尽くされた。現実が信じられないと大きく目を見開き、口をわなわなと振るわせていると、幸太郎がすっとお面を顔からどけて心底可笑しそうに笑い出した。
「あっははは、冗談だよ、冗談。驚かせてごめんね、これはただの取材道具さ。それじゃ」
事件の後にネット通販で取り寄せたチョコラビのお面を無造作に鞄に突っ込むと、気持ちよさそうに高笑いしながら幸太郎はその場を後にしたのであった。
ーーーーT市内・路上
「お待たせ、鈴村さん」
マンションの入り口で待つ沙奈恵に華奈が声をかける。
今日は休日ということもあり、二人は出かける予定を立てていた。
「うぅん、全然待ってないよ。それにどうせマンションの前だから、待ち合わせるのも楽だしね」
「それもそうだね」
と言って二人は軽く笑い合う。
日常を取り戻した彼女たちだが、相変わらず会社での二人の立場は変わらない。人や仕事の中心に沙奈恵、それを遠巻きに眺める華奈という構図。
だが、チョコラビ男事件以来、たしかに二人の距離は縮まったように感じる。仕事でもプライベートでも交流の場が増えたし、今ではこうして休日に共に外出する仲だ。
少し前まではお互いに同じマンションに住んでいることすら知らなかったというのに、今こうやって華奈と一人の友人として隣を歩けることが沙奈恵は嬉しかった。
とはいえ、チョコラビ男からストーカーに遭っていると嘘を吐いたことについては黙ったままだ。墓場まで持っていくつもりの秘事なだけに、時折沙奈恵の豊満な胸を罪悪感がつつくこともあるのであった。
「そういえば中村さんの具合は?」
歩きながら沙奈恵が尋ねる。華奈は沙奈恵の言う「中村さん」が誰なのか少し考えていたが、自身の幼なじみである従兄弟の中村幸太郎のことだと思い当たると、少し残念そうに顔を歪ませて答えた。
「あー、アイツね、足はもうとっくに良いみたいよ。しばらく在宅で仕事してたらしいんだけど、少し前から出社してるって連絡があった」
「そう、良かった。勘違いとはいえ怪我させちゃったから気になって……」
「いいのよあんな奴。ていうか、なんで鈴村さんが気にするのよ、怪我させたのは私なのに」
「それは……そうかもだけど」
幸太郎がストーカーに間違えられたせいで怪我をしたことを、沙奈恵は少なからず申し訳ないと思っていた。
もっとも幸太郎が怪我をしたのは、彼が人騒がせにもチョコラビ男のお面をかぶって沙奈恵たちの住むマンションの様子を伺っていたことが原因であり、ほとんど自業自得のようなものなのだが。
「あー! 華奈さんと沙奈恵さんだ!」
と、そこで明るくも喧しい声が聞こえた。
華奈と沙奈恵が声のした方を見ると、夢乃が手を大きく振って軽い足取りでこちらに駆けてくる。
「げっ」
声の主が誰なのかわかった途端、思わず華奈は顔を強張らせる。
あの日以来、夢乃は華奈のことを自分を窮地から二度も助けてくれたヒーローだと思っているようで、とても慕われるようになっていた。はじめに不審者から夢乃を助けたのは華奈ではないと何度も説明したのだが、彼女の思い込みは相当に強いようで、全くといっていいほど聞く耳を持たなかった。
結果、最近は華奈も諦めたようで、ぐいぐいと距離を詰めようとしてくる夢乃に辟易しつつ手を焼いているといった状態だった。
「どうして初田さんがここにいるの?」
「私の家この辺りなので……ってもしかしてこれから二人でお出かけですか? じゃあじゃあ、私も行きます!」
「勝手に決めない、こっちの都合も考えなさい」
「え〜、ダメなんですか? 沙奈恵さぁん、華奈さんが意地悪します〜」
泣きつくように沙奈恵にしがみつくと上目遣いで瞳を潤ませる夢乃。明らかに嘘泣きだとわかるのに、見ていると気の毒になってきてしまうのだから相当な演技力だ。卒業後は女優を目指した方がいいかもしれない。
「ち、千森さん、ちょっとかわいそうじゃない……?」
困ったように華奈を見遣る沙奈恵。
沙奈恵にそう言われると、さすがの華奈も自分が夢乃を邪険に扱った大人気なさを咎められている気がしてくる。
「う……わ、わかったわよ、今日だけよ」
「わぁい! ありがとうございます!」
夢乃は何事もなかったかのようにけろっとして顔を綻ばせると、甘えるように華奈の腕にしっかりと抱きつく。
「こら、くっつかない!……ったく、なんで私の周りってこんなのばっかりなの……」
自分本意な振る舞いという点で、夢乃と幸太郎を重ね合わせる華奈。何故か彼女はこういうタイプに好かれるようで、自分のこの先の人間関係を想像してうんざりとしているようだ。
一方で、沙奈恵も沙奈恵で何やら神妙な顔をしている。
華奈との仲を深めようと嘘まで吐いたにもかかわらず、夢乃は自分が苦労して縮めた華奈との距離をあっという間に飛び越えてしまっているように思う。それは彼女自身の性格によるものも大きいのだろうが、到底自分には真似のできないやり方だ。
チョコラビ男の事件によって華奈との交流が深まったのは確かな事実だが、おかげで夢乃という強力なライバルが出現してしまったのであった。しかし、チョコラビ男の一件がなければ華奈と仲良くなる機会もなかったかもしれないとも思う。
「うーん、なんだか複雑……」
華奈にじゃれつく夢乃を小難しい顔で眺めていた沙奈恵だったが、不意に彼女に夢乃が手を伸ばしてきた。
「ほら、沙奈恵さんも!」
「え、えっと……」
華奈と沙奈恵の間に挟まれるかたちで、夢乃は二人の腕に自分の腕を絡ませる。
側から見れば仲の良い姉妹のようにも見える。
「強くてかっこいい華奈さんと、綺麗でしっかり者の沙奈恵さん……ふふっ、白馬の王子様にはまだ会えないけど、素敵なお姉さんが二人もできちゃった」
満足そうに笑顔でそうこぼす夢乃を見ていると、今の華奈との関係も、そして夢乃との関係も、なんだか悪くない気がしてくる。
「…………ま、いっか」
不機嫌そうな顔の華奈とは対照的に、まんざらでもない顔で沙奈恵はそう思うのだった。
ーーーーS記念公園・蓮ヶ池
昼過ぎのS記念公園。蓮ヶ池の道沿いで道雄はゴミ拾いに精を出していた。
ゴミ拾いと言っても普段からボランティアが定期的に清掃を行なっている場所なので、ホームレスの日銭稼ぎになるようなものはほとんど落ちていない。
チョコラビ男の騒ぎを終息させた後、道雄たちホームレスの一団は長年住処としていたS記念公園からひっそりと立ち去っていた。この日のS記念公園でのゴミ拾いは、公園の一画を住処とさせてもらっていたことへの道雄なりの感謝のようなものだった。
「こんにちは。そろそろ時間ですよ」
しわがれた声が飛んできて道雄は手を止める。顔を上げると、いつの間にかすぐそばに夕子が立っていた。
「こりゃ亀谷さん、わざわざ俺に声をかけに?」
「ただの散歩よ。ここ、昔よく夫と歩いた道だからちゃんと綺麗にして頂戴ね」
「そいつは掃除のしがいがありますな」
夕子にとって夫との散歩道の一つだったこの場所は、彼女がチョコラビ男の事件に巻き込まれた場所でもある。
最近ではそちらの印象の方が強く、夫とのささやかな思い出が上塗りされてしまったようで、少し寂しく、腹立たしい気持ちもある。だが、チョコラビ男の一件を思い出すと、佐藤夫妻と彼らに連なる夫とのつながりも思い出すことになる。夫のことをいつまでも忘れないという意味では、こんな思い出のかたちも悪くない気がした。
季節外れの蓮ヶ池には当然ながら花どころか葉の一つもなく、濁った水面に浮かぶのは数羽の渡り鳥だけだ。
それらを穏やかな眼差しで眺めながら夕子が口を開く。
「それと、あなたに一つ報告。佐藤さんの件、初犯だったことと盗んだものはそのまま返していたから実質的な被害がなかったこと、何より本人が十分反省していることもあって罪は軽くなりそうね」
「……ありがとうございます」
「お礼なんて言われる筋合いはありません」
「それでも、あなたに感謝しているから礼を言いたいのです」
「そ、なら勝手にすればいいわ」
夕子はあくまで素っ気なく返したが、佐藤の量刑には被害者である彼女の証言も大きく関わっていることは事実だった。
道雄もそれがわかるからこそ、こうして彼女に頭を下げずにはいられなかった。
「奥さんの方は?」
話の流れで道雄は佐藤の妻についても尋ねた。
ハロウィンの日以降、出頭した佐藤に代わって夕子が彼女の面倒を見てくれていた。体調を崩していたため、夕子が病院に連れて行ったと聞いていた。
「元々ちゃんと医者に診せれば治る病気だったのですから、すっかり良くなったわ。今はもう退院して住み込みでウチの家事手伝いとして働いてくれてるわ」
「そうですかそうですか! そりゃあよかった」
「元々一人で住むには広い家ですからね。それに健康になったのなら遊ばせておくつもりはありません」
「ははっ、そりゃ厳しいですな」
夕子の話を聞き道雄の顔がぱっと明るくなる。笑ったときにできる彼の目尻の皺の深さが、そのまま喜びの深さを表しているかのようだった。夫と離れ離れになっている今、体調が良くなった後のことが気がかりだったが、この分だと心配いらないようだ。
自分のことのように喜んでいる道雄を見て、夕子はしばし何かを考えているようだったがやがて口を開くと静かに言った。
「……で、佐藤さんたちはいいとして、あなたはいつまでこんな生活を?」
そう尋ねられて道雄はすぐに真面目な顔になる。
夕子を見ると、彼女もまた真剣な眼差しで彼を見つめていた。その眼からはどこか諭すような意思が伝わってくるようだ。
「長谷川さんやお仲間さんから少しあなたのことを聞いたわ、今でもたまにホームレスになる前の知り合いがあなたを尋ねてくるって。あなたには今の生活から抜け出す力も機会もある。なのに何故この生活を続けているの?」
それは夕子にとって純粋な疑問であった。
夕子は重内道雄という人間をよく知らない。チョコラビ男の一件で少し関わった程度の間柄だ。だが、そんな彼女にも彼がただのホームレスに身をやつしたままで良い人物だとは到底思えなかった。
人を惹きつける人柄やどことなく感じ取れる知性は、夕子の目から見ても浮浪者のものではないように思えた。何より、多くの落伍者たちが抱え、滲み出る影が、彼のたくましい背中からは微塵も感じられない。
「そうですなぁ……」
静かに揺れる蓮ヶ池の水面を眺めながら、道雄は少しずつ丁寧に言葉を並べて答える。
「……俺は、自慢じゃないが昔はデカい企業に勤めていましてね、それなりの役職にもついていました。仕事は忙しかったが、家族もいて、家もあって、金も十二分にある、そんな生活を送っていた。だけど、あるとき友人の借金を肩代わりしたのがきっかけで全てを失った。家族も、家も、職も、金も……友人も。今まで自分が積み上げてきたものが本当に一切合切全部なくなっちまった。ここまで人生がひっくり返ることがあるのかと思いましたよ」
「…………」
「全てを失って、俺は絶望に押し潰されてこのまま死ぬもんだと思ってた。朦朧とする意識で行く宛もなくさまよって、その内に力尽きて、拾った段ボールに包まって河川敷の高架下で夜を過ごした」
そこで道雄は大きく一度深呼吸し、そっと眼を閉じた。
彼の瞼の裏には当時の情景が鮮明に浮かんでいるようだ。
「夜が明けて俺の目に飛び込んできたのは、とびきり綺麗な朝焼けだった。ただのなんてことない一日の始まりの景色だったんだろうけど、俺にはとても美しいものに見えたんですよ。ゆっくりと昇る太陽が街にその日の始まりを告げて、どこまでも澄んだ青空がみるみる明るくなっていく。聞こえてくるのは鳥の鳴き声と川のせせらぎだけ。俺の冷えた身体からは白い息が吐き出されて、手足もかじかんでじんじんと痛かった……垂れた鼻水が口に入ってしょっぱかったなぁ」
当時の情景と五感を一つ一つ思い返すようにゆっくりと道雄は話を続ける。夕子も黙って彼の言葉に耳を傾けている。
「朝焼けに見惚れていたら、近くにいたホームレスのおっさん連中が俺に気づいたようで『お仲間かい? 冷えるだろ』と言って一杯の味噌汁を分けてくれたんです。具も入ってないし、味も薄くてほとんどお湯みたいなもんだったけど、俺が人生で飲んだ味噌汁の中で一番美味かった」
満足そうに頷くと、道雄はいつもの人の良さそうな優しい顔で夕子に笑いかけた。
「その時にね、俺は思ったんです、『世の中は結構捨てたもんじゃないのかもしれない』と。全てを失っただなんて大層なことを考えていたけど、自分のちっぽけな手のひらにあるもんが少しばかりなくなったからって、それを悲嘆して死んじまうには、人生ってやつは少しばかりもったいないんじゃないかなってね」
「……素敵な考えかもしれないけど、皆が皆、あなたのように強くはないわ」
そう言った夕子であったが、彼女の声は普段学生を叱責するような鋭い声色ではなかった。
言葉通りの否定ではなく、彼女自身の憂いによるものだと道雄もわかっている。
「俺は自分が強い人間だとは思っちゃいないが、たしかに亀谷さんの言うように誰もがそう思えるとは思ってはいません。だから、俺はそういう奴らを同じ立場から手を差し伸べて、励まして、支えていこうと思うんです。……それが俺がこの生活を続ける理由ですかね」
そこまで言って道雄は大きく伸びをすると、いつものような豪快な笑顔で言った。
「失ってからようやく見えるようになるものが、この世にはごまんとありますから」
「……そうかもしれないわね」
失ってから見えるもの、という言葉が夕子の胸の奥に響く。
今まで居て当たり前のように感じていた夫の存在、目には見えない人と人の縁、くだらないとさえ思っていた人を思いやるという心……どれも今の夕子だからこそ見えるようになったものだ。チョコラビ男騒動に巻き込まれたせいで散々な目にあったと思っていたが、もしかしたら夕子がそれらに気付くきっかけとして亡き夫が与えてくれた機会なのかもしれない。
夕子にしては珍しく感傷的にそんなことを考えてしまったものだから、くだらない考えを否定するように微かな笑みとともに首を小さく横に振った。どうかしたのだろうかと道雄が不思議そうに彼女を眺めている。
やがて老齢の女教授は、大学で学生相手に話すときのような毅然とした態度で言った。
「重内さん、そう思うのならやはりあなたは真っ当に生きるべきです。絶望から這い出ることを願っても叶わない者がほとんどの中、そのチャンスが目の前にあるのに掴み取ろうともしないのは、あなたの怠慢です。力あるものはそれを正しく使う責任がある。言い訳を作って今の生活に甘んじることで、ていよく責任逃れをしているにすぎません。仲間を別の立場から助けることもできるはずです。そして、それができるのはあなただけなんじゃないかしら」
整然とした口調で真っ向から説かれて、さしもの道雄も思わず面食らう。その力強い態度はとても還暦を過ぎた老人のものとは思えない。
しゃんと背筋を伸ばして射るような眼でこちらを見る老婆の姿に、これは勝てないなと観念したようで、困ったように頭を掻きながら苦笑いする。
「……やれやれ、亀谷先生は厳しいですなぁ」
勝ち誇ったような、それでいて意地の悪い笑みを浮かべて夕子が返す。
「あら、ご存知ないかしら、私はとっても厳しいけどたまに優しい素敵な先生なのよ」
ーーーーS記念公園・喫茶店『ラパン』
S記念公園内にある喫茶店ラパンには、今日も片手で数えられるほどの客がいるだけだ。
公園で催し物があるときなどは満席になることもあるが、労働内容と賃金を考えるとこれくらいの客がちょうど良いとひばりはいつも思う。
店内に優雅に流れているクラシックを聴きながら目的の席へと向かう。
注文のホットコーヒーとチョコレートアイスをトレイからテーブルへとそっと下ろし、テラス席に一人座る尊作にトゲのある口調で話しかけた。
「おっさんまた来たのかよ。小説家って暇な仕事なのか?」
ひばりがそう言うようにチョコラビ男の事件の後、尊作は週に二、三回はラパンへ訪れるようになっていた。
最初の内は、尊作の小説を無断アップロードした罰ということで減給になったひばりを嘲笑いに来るのが目的だったが、いつしかコーヒーの味や店の雰囲気などがなんとなく気に入ってしまい、小説のネタを考えて思惟する時などつい足を運ぶようになっていたのだった。
「生憎ガキと違って大人は忙しいんだ。これから仕事の打ち合わせだよ」
もはやひばりとはすっかり顔なじみとなった尊作ではあるが、無愛想なところは出会った頃と少しも変わらない。
「あっそ。それじゃごゆっくり、オキャクサマ」
彼のそんな態度にも慣れたひばりは、呆れるように手をひらひらと振って席を離れようとした。
すると、意外なことに尊作がひばりに声をかけてきた。
「まぁ待て、少し話に付き合えよ」
「なんだよ、急に。大人は忙しいんじゃねーのかよ」
普段店に来ても世間話の一つもしようとはしない尊作に呼び止められ、ひばりも思わず足を止めた。
嫌味ったらしいクレームでも入れられるのかと思っていたが、尊作の口からは予想外の話題が飛び出してきた。
「話というのは他でもない、チョコラビ男の事件の真相だ。お前も興味があるだろ」
「真相!?」
チョコラビ男事件は当然ひばりもよく知っている。なにせ彼はチョコラビ男事件を終幕へと導いた影の立役者の一人である。
一ヶ月以上前、ひばりは尊作や華奈に沙奈恵、道雄とその仲間のホームレスたちと協力し、架空のチョコラビ男を創り上げることで噂話を終わらせようと試みた。
野球帽の不審者、ストーカー、不良高校生たちの喧嘩など様々な要因が複雑に絡みついていたチョコラビ男事件だが、ひばりたちの奔走の甲斐あってなんとか解決に向かっていった。最終的にはホームレスの佐藤という男がチョコラビ男の正体だったとわかり、彼の逮捕によってこの奇怪な騒動は幕を閉じた。
ひばりたちの作戦では、チョコラビ男の正体はホームレスたちだったという意図的に工作された情報を流して事態の収束を計るのつもりだったが、夢乃を襲おうとしていた不審者が逮捕されたときにチョコラビのお面を持っていたので、偶発的に世間には彼こそがチョコラビ男だったという噂が広まった。彼がチョコラビのお面を持っていたのは、幸太郎の気まぐれとも言える謀略によるものだが、結果的に彼のおかげでホームレスたちが非難されることはなくなったのであった。
事の顛末を知っているつもりのひばりにとっては、チョコラビ男騒動にまだ自分の知らない真実があるという尊作の言葉は驚かずにはいられないものだった。
「俺はどうにもチョコラビ男の一連の騒動にひっかかりを感じていてな、あれからずっと事件について考えていたんだ」
ひばりは自分が喫茶店の店員であることも忘れて尊作の話を食い入るように聞いている。店のドアに付けられた来客を告げる鐘が鳴ってもそっちのけである。
「お前が俺の小説をネットの掲示板に投稿した後、お面をかぶった男が初田を暴漢から助け、一方で公園では亀谷さんからひったくり。しかもその容姿と行動は投稿された小説冒頭の内容を彷彿とさせる……ハッキリ言って偶然にしてはうまくできすぎている」
「何が言いたいんだよ」
「この事件の筋書きを書いていた奴がいたんじゃないか、ってことだ」
「はぁ!? そんなことできんのかよ」
あまりに突拍子もないことを尊作が言うのでひばりは思わず声を上げる。
あの複雑怪奇な事件が何者かの意思によって引き起こされたものだとすれば、一体誰が何のためにどうやってあれほどまでの騒ぎを起こしたと言うのだろうか。
動揺するひばりとは対照的に尊作はあくまで冷静に自身の推測を語っていく。
「もちろん、全てを思い通りに操作するということは不可能だ。何せあの事件は偶然から成り立っていることの方が圧倒的に多い。というよりも事件の始まりから終わりまでが偶然の連なりによって出来ている。それを完全にコントロールするなんてのはどだい無理な話だろう」
「わけわかんねぇな、結局どっちなんだよ」
「全てを緻密に計画することはできなくても、ちょっと手を加えれば大筋をコントロールすることは可能だったんじゃないか、ということだ。そもそも、佐藤がお前の投稿を見て一連の行動を思いついたのならわかるが、彼はネットには無縁のホームレスだ。そんな彼が起こした事件が書き込みの内容をなぞっているなんて不自然だと思わないか?」
「まぁそうだけどさ、それこそただの偶然だったんじゃねーのかよ。……じゃあなにか、俺の書き込みを見てからチョコラビ男事件の筋書きってのを考えた奴がいるってことか? それはさすがに無理だろ、だって書き込みから初田さんが襲われるまでほんの数十分しかなかったじゃん。初見の奴があの文章を見たからって何のことかわかるわけ……」
「そこだ」
ひばりが否定的な疑念を口にしたところで、尊作が落ち窪んだ眼を光らせて鋭く言い放つ。
「見る目のないバカ共は意味のわからないポエムか何かだと思ったらしいが、あの文章を読んだだけであれが『善悪の仮面』という小説の冒頭であることを理解できる人間が確かにいるんだ」
「だ、誰だよ、それって」
「あの小説を読んだ人間だ」
どんな推理が飛び出してくるのかと身構えていたひばりだったが、尊作の答えを聞いて呆れたようにため息を吐く。
「はぁ……そりゃ事前に読んだことがある人間なら、あの書き込みを見ただけで何か思いつくかもしれないな。でもそんなの俺とおっさんしかいないじゃねーか。あの原稿まだどこにも公開されてないんだろ?」
「ところがあと一人いたんだよ、俺の小説を読んだことのある人間が」
「……?」
「まだわからないか? そもそも俺は何故あの日、小説をこの席に忘れていった?」
「それはここで打ち合わせをしてて…………あ!」
そこまで言われてひばりは当時のことを思い返し、ようやくある人物の存在に辿り着いた。
口をあんぐりと開けるひばりの姿を見て、彼の思考を肯定するように尊作が頷いて返す。
「……そう、俺の担当編集だ」
あの日、尊作は今日と同じテラス席に座って編集と打ち合わせをしていた。打ち合わせと呼ぶにはあまりに激しい喧嘩まがいのやりとりだったのでひばりもその時のことはよく覚えている。
「奴ならネットに投稿された文章を見ただけで、それが俺の小説の一節だとわかる。俺はネットには疎いからな、その書き込みが俺自身によるものじゃないことぐらい奴ならすぐわかるだろう。とすれば、何かの手違いで俺の手から原稿が離れ、第三者がそれを悪戯に掲示板に投稿したのだと察しがつくはずだ。それだけでも奴にとっては面白い出来事だっただろうが、その状況を利用して小説の出来事を現実に再現したら……と考えたのではないだろうか」
そう言って尊作は自らの後ろの席に座る男に低い声で話しかけた。
「……という推理なんだが、お前はどう思う。編集の中村幸太郎」
いつの間にか尊作の背後の席には、彼と背中合わせになるかたちで幸太郎が座っていた。
尊作の推理に夢中になっていたせいか、幸太郎の存在に全く気づいていなかったひばりは驚き目を見開いている。彼がいつからそこにいて、どこから話を聞いていたのかわからない。音もなくその椅子に座っていたものだから、突然どこからか湧き上がってきた妖怪のように思える。
中村という男が沙奈恵のストーカーに勘違いされていたこと、華奈の親戚であることは、事件の後に華奈たちから報告を受けてひばりも知っていた。だが実際に幸太郎に会うのは初めてだったので、彼があの日尊作と口論していた担当編集だとは思ってもみなかった。
「あははっ、面白い推理ですね。予定より早めに呼び出されたから何かと思えば、先生の推理ショーを聞かせてもらえるとは思いませんでした」
幸太郎はいつものように悪びれた様子もなくあっけらかんとそう答える。その声が、表情が、仕草が、どこか無性に神経を逆撫するようだ。
ハロウィンの日に別行動をとっていた華奈たちから、後に彼女たちの周りでは何が起きたのかを聞いた尊作は、話の中に彼もよく知る中村幸太郎という名が出てきたので驚愕した。何故自身の担当編集である男がこの件に絡んでいるのだ思う一方で、彼がこの事件に深く関わっているのではないかと強く疑い始めたのである。
それからチョコラビ男に関する出来事を整理し、検証し、仮説を重ね、こうしてようやく事件の全体像を掴むに至ったのであった。
尊作は感情を露わにせず、仏頂面を崩さないようにして言葉を続けた。
「まだ推理の途中なんでな、反論があれば最後に聞こう。構わないな?」
「どうぞどうぞ」
コーヒーで喉を潤し、長く息を吐き出してから、尊作は努めて事務的な口調で話し始めた。
「……あの日、ネットの掲示板に俺の小説がアップされていることを知ったお前は、小説の内容を利用して一騒ぎ起こせないかと街に出た。前々から『この街には何も面白いことがない』と不満を言っていたからな、俺の小説はちょうど良いきっかけだったんだろう。具体的な計画までは決まっていなかったかもしれんが、騒動には小説の要素を何かしら取り入れる必要があったはずだ」
尊作は幸太郎と打ち合わせした日のことを思い出しながら話す。彼は口論の中で尊作の小説に対し『リアリティがない』というダメ出しをしていた。もしかしたら自分がリアリティがないと否定した話を、彼自身の手によって現実にすることでリアリティを与えるという、尊作への皮肉とあてつけも意図されていたのかもしれないと考える。
「そこで奇しくもお前はチョコラビのお面を廃倉庫に戻しに行く途中だった佐藤に遭遇する。チョコラビのお面を見たお前は即座にそれを利用することを思いつき、彼からチョコラビのお面を一万円で買った。だがお前は佐藤に一つの条件を出した、『このお面をかぶってなんでもいいから悪いことをしてくれないか』と。当然、佐藤は犯罪に手を染めるわけにはいかないと断ったが、お前は『自分も別のところでお面をかぶって騒ぎを起こすから、同じお面をかぶっていれば正体がそうそうばれることはない』『金に困っているのだろうから、何も思い浮かばなければひったくりでも万引きでもすればいい』と言って巧みに佐藤を懐柔していった。体調のすぐれない奥さんのためにも、金が喉から手が出るほど欲しかった佐藤は、最後には悩みながらもその取引を承諾したというわけだ」
「……やけにやりとりの内容が具体的ですね」
黙って尊作の話を聞いていた幸太郎が口を挟んだ。相変わらず薄っぺらい笑みを顔に貼り付けているものの、その声色は若干不服そうである。
「そりゃ佐藤が自白したからな」
そんな幸太郎の指摘に尊作は事もなげに返す。
「亀谷さんが取り調べに協力してくれたこともあって、彼女に嘘はつけないと言って佐藤は全てを話してくれたよ。どんな理由があれ、佐藤は犯罪に手を染めてしまったことは己の弱さが原因だと最後まで自分を責めていたがな」
つまらないとでも言うように小さく舌打ちをする幸太郎。亀谷という名が佐藤がひったくりをした相手の老教授だということは幸太郎も知っていたが、彼女と佐藤につながりがあることまではさすがに知らなかった。
「佐藤と別れたお前はチョコラビのお面を手に入れると、北緑台のあたりを散策し始めた。ちょうど不審者の目撃情報があった地域だ、ゴシップに敏感なお前は不審者の出没地域や時間帯を把握していたのだろう。そう時間も経たないうちに幸か不幸か初田が野球帽の男に襲われる現場に出くわした」
尊作は推理を語りながら、幸太郎は野球帽の不審者を見つけても事が起きるまで彼に手を出さなかった可能性もあると考えていた。というのも、幸太郎は徘徊する不審者を見つけても放置していたと華奈が愚痴をこぼしていたので、十分にあり得る事だと思ったのだ。
「それから先は初田が目にした通り、チョコラビのお面をかぶったお前が野球帽の男を見事撃退、正体を明かさずにその場から去っていった。気が弱くお世辞にも運動神経が良いと言えない佐藤が、悪漢相手に堂々と飛び蹴りなんてできるのかと疑問だったんだが、空手経験者のお前の仕業だったというのなら納得いく。初田が二度目に野球帽の男に襲われたとき、助けに入った千森さんの姿をチョコラビ男と重ねたそうだが……最初に初田を助けたのがお前で、そのお前と千森さんが同門だというなら同じ動きに見えても不思議じゃない」
事件の後、幸太郎との関係について華奈から詳しく聞いた中で、幸太郎が華奈の実家の道場で空手を習っていたという話も聞いていた。長く続けていたわけではないが、筋は良く腕前はそれなりに良かったようである。
「あとはネット掲示板やらSNSやらで面白可笑しく情報を操作して、チョコラビ男の一連の事件に人々を注目させてやれば噂話と憶測が勝手に膨らんでいく……というわけだ。ついでに言うと、東高と西高の喧嘩の引き金になった小競り合いの場に現れた謎のお面の男というのもお前じゃないかと俺は睨んでいるが……さすがにこれは根拠もないしただの憶測だ」
そこまで話して尊作は残っていたコーヒーを一口に飲み干しソーサーの上に置いた。カチャリという食器のぶつかる音が、話の終わりを示す合図であることを、側で聞いていたひばりも理解した。
ややあって軽い拍手をしながら幸太郎が口を開く。
「いやーお見事お見事、とても興味深い話でしたよ。次に書く話は推理小説にジャンルを変えた方がいいんじゃないですか?」
「ミステリーの知識はガキの頃にシャーロック・ホームズを読んだくらいだ。もう少し勉強しておくよ」
「くくっ、そうですか」
可笑しそうに笑いを噛み殺すと、口端を歪ませて幸太郎が尊作に尋ねた。
「……で、先生の言うように僕がチョコラビ男事件の黒幕だったとして、何か証拠はあるんですか?」
その声は自信に満ち溢れている。まるで自分に火の粉が降りかかることはないと確信しているかのようだ。
そんな幸太郎とは対照的に尊作は少し口惜しそうに言う。
「残念ながら決定的な証拠はない。佐藤がお面を売って手に入れたと言う金はすぐに使ってしまったらしいし、何よりその売買だけではお前が裏で手を引いていた証拠とするにはあまりに弱いだろう」
「ダメじゃないですか、名探偵は必ず最後には犯人に証拠を突きつけるものなんですよ。ホームズも、ポアロも、金田一も、みーんなそうしてます。証拠がなければどんな名推理も壮大な妄想と大差ないですよ」
そう言って幸太郎はくつくつと笑った。尊作の言うように幸太郎がチョコラビ男事件に裏で介入していたと立証するには物的証拠が足りなかった。幸太郎もそれがわかっているからこそ、安全圏であぐらをかいていられると理解しているのだ。
「それにもし仮に、先生の推理が事実だったとして、僕は一体何の罪にあたるんでしょうね。教唆罪だとしても立証は難しいでしょ、佐藤って人が話を捏造してる可能性だってあるわけだし。お面の売り買いにしたってただの売買取引でしかないですし、その後の佐藤さんのひったくりは彼の独断じゃないと誰が言い切れますか?」
幸太郎の癇に触るもの言いを聞き、彼のことをよく知らないひばりでさえも、だんだんその態度に腹が立ってきた。当然尊作もこめかみに青筋を浮かべて怒りを我慢しているのだろうと思ったが、意外なことに尊作はいつもの無表情のままであった。
「証拠はないが……おそらくこれからお前が自白することになる」
「え?」
尊作がぽつりとこぼした言葉の意味がわからず幸太郎が頭に疑問符を浮かべる。
「俺たちも色々考えたんだが、司法がお前を裁けないなら別の方法で罰を与えるしかないと思ってな」
「どういう……」
幸太郎が尊作に真意を尋ねようとしたとき、唐突に彼の胸ぐらが男の手によって捕まれ、すさまじい力で身体が引っ張り上げられた。男はそのまま幸太郎を無理矢理に立ち上がらせると、今度はぐるりと身体を回転させて羽交い締めにする。突然の出来事にさしもの幸太郎も混乱して為す術もない。
「おっと、このまま大人しくしてくれよ」
「あ、シゲさん!」
「え!? だ、誰!?」
その場に現れ幸太郎を押さえつけたのはホームレスの道雄であった。幸太郎は決して華奢なわけではないが、屈強な体躯を持つ道雄に羽交い締めにされては身動きがとれない。必死に抵抗するものの、動きを封じる二本の逞しい腕は万力のように固定されてびくともしない。
「俺はしがないホームレスだよ。仲間がアンタの甘言に唆されたとあっちゃ黙っていられなくてなぁ、アンタにゃ少し気の毒だがこいつはちょっとした憂さ晴らしだ」
「くっ、離せ、この……!」
身の危険を感じた幸太郎は焦りから死に物狂いで手足をじたばたと動かした。
だが、それがいけなかった。
がむしゃらに動かしていた足が、床に置いてあった幸太郎の鞄を蹴飛ばしたのだ。
倒れた鞄からは勢いよく中身が飛び出す。手帳、筆記用具、書類の束、そして……。
「あっ……」
「え!?」
「ん?」
「……ほう」
床に散乱した幸太郎の私物の数々。その中には先ほど駅前の通りで女子高生たちをからかったチョコラビのお面があった。
まぬけな笑顔で天を仰ぐチョコラビの顔とは対照的に、幸太郎の顔が一瞬で強張る。
「違っ、これはネットで買ったやつで……!」
「なるほど、これを使ってまた一騒ぎ起こそうと考えたわけだ。本当に呆れた奴だな」
席から立ち上がった尊作はチョコラビのお面を拾い上げると、手に取って値踏みするように見つめている。幸太郎が言うように、佐藤が廃倉庫から拾ってきたチョコラビのお面と、彼が持っているこのお面とは別物である。本物と違ってこちらは片目を瞑ってウィンクしているので、実物を知っている尊作にもその違いはすぐにわかった。
だが、この状況ではそんなことはもはやどうでもいいことであった。
幸太郎が裏で糸を引いていたという尊作の仮説を裏付けるように、彼がチョコラビのお面を持っていたという事実にこそ意味があるのだ。
「幸太郎……アンタ覚悟はできてるんでしょうね?」
「か、華奈ちゃん!?」
道雄に続きその場に現れたのは華奈であった。その怒りに歪んだ顔は修羅のようであり、声は誰が聞いてもわかるように殺気に満ちている。
彼女が指の骨を暴力的に鳴らす様子を見て、幸太郎はこれから自分の身に何が起きるのかを否応なしに察した。身体中から汗が吹き出しているのに、背骨の芯が氷のように冷たくなっていく。
高校の文化祭の寸劇で華奈から正拳を喰らって悶絶したトラウマが鮮明に呼び起こされ、先ほどまでの余裕が嘘のよう急速に顔が青ざめていく。
「さ、さっきの話聞いてたんでしょ!? 僕がチョコラビ男だっていう証拠はないって言ってたじゃん!」
「関係ないわよ。私はあくまでごくごく個人的に、アンタがストーカーまがいの行為で鈴村さんと私たちに迷惑かけたのが許せないだけだから」
そう語る華奈の表情は激怒の色に染まりつつも、どこか嬉々としているようだ。
彼女は一歩、また一歩と悠然とした足取りで幸太郎へと近づいていく。幸太郎にしてみれば彼女の踏み出す一歩が死刑執行のカウントダウンである。
「あ、あの、そこのおばあさん、助けてください!」
すがるような思いで幸太郎が助けを求めたのは、すぐ近くの席に座る夕子である。
彼女はそれまで我関せずといった様子で静かにアイスティーを飲んでいたが、幸太郎に声をかけられてゆっくりと彼の方へと視線を移した。
「暴力はいけませんよ、暴力は」
「ほ、ほら!」
「ですが私も、自分が見てないことをとやかく言うことはできません」
そう冷たく言って夕子はぷいと幸太郎から顔を背けた。
「ちょっと!?」
あまりに非情な対応に幸太郎は呆然としている。何度声を呼びかけても夕子がこちらを振り向かないので尊作たちとグルなのだと理解した。
慌てて他の客を探すとすぐ近くに見知った女性が二人いることに気づいた。夢乃と沙奈恵である。
「あ! 君は初田さんだよね!? ほら、君ならわかるでしょ、あの日僕が君を助けたんだよ!?」
早口でまくし立てる幸太郎。その発言はもはや自白に等しいものであったが、危機に瀕している今はそれどころではない。少なくとも冷静な判断ができない程度には幸太郎は必死である。
そんな彼を突き放すように夢乃と沙奈恵が答える。
「知りませ〜ん、私を助けてくれたのは華奈さんです〜。ね、沙奈恵さん」
「そうね、千森さんよね」
夢乃はべっと舌を出して幸太郎に言い放つ。チョコラビ男の正体とも言える幸太郎を前にしても、彼女にとってはもはや自分を助けてくれた王子様は華奈なのである。
沙奈恵は沙奈恵でストーカーの一件で幸太郎に迷惑をかけてしまったことを少し悪いと思いながらも、夢乃に相槌を返している。
そうこうしている内にいよいよ華奈が幸太郎のすぐ目の前へとやってきた。
幸太郎の胃がきゅっと縮まり、恐怖と緊張で胃酸が逆流しそうになる。
「わ、わかった、わかったよ! 僕が悪かったよ、洗いざらい話すから! だから……!」
幸太郎の懇願に無慈悲な笑顔で答えると、華奈は力いっぱいに彼の鳩尾目掛けて拳を繰り出した。
その様子を見ていたひばりは幸太郎に襲いかかるであろう最大級の苦痛を想像して、思わず「うわぁ」と顔を歪める。
その日、喫茶店ラパンの店内に流れる緩やかで淑やかなクラシック楽曲には、二つの音が加わった。
華奈が幸太郎という打楽器で打ち鳴らす重低音と、彼の声にならない悲鳴という名の歌唱が。
テラス席に戻った尊作は幸太郎が持っていたチョコラビのお面をテーブルの上にそっと置く。
このへんてこなウサギのお面に随分振り回されたものだと思うと、その顔が憎らしくもあり少しだけ愛らしくもある。そんなことを考えている自分をらしくないと思い、尊作は自嘲的に鼻で笑った。
テーブルの上には表面の溶けかけたチョコレート味のアイスクリームがある。優しい手つきで一口だけスプーンですくって口へと運ぶ。
口の中にじんわりと広がる甘美な幸せの味に尊作は満足そうに頬を緩めた。
彼の微笑みを見たのは、茶色の顔をして愉快に笑うウサギのお面だけであった。
ーーーー終幕