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仮面の裏側

【仮面の裏側】

ーーーーS記念公園・林の中


「田岡さん、どこに行くんだ?」


 ホームレスの一人、田岡は林の中で声をかけられて立ち止まった。

 声に振り返るといつの間にか道雄が背後に立っていた。誰にも言わずに小広場を後にしたつもりだったが、道雄には田岡の足取りが気取られていたようである。


「ガキ共の乱闘騒ぎはシゲさんに頼まれた通りに止めただろ? あとは他の奴らに任せて俺はもう休むとするよ、ジジイには馬鹿騒ぎは堪える」


 くたびれたように肩を揉みほぐす動作をして見せて、田岡は住みかとしている小屋の方へ向かおうとした。

 だが、道雄のまっすぐに何かを訴えかけるような視線を受けて、足を動かすことができなかった。


「その前に田岡さんに聞きたいことがあってな。あの夜……チョコラビ男が出た日の夜のことだよ」

「あの日のことについてはもう話しただろ。悪いがこれ以上俺から話せることは何もないぞ」


 低くしわがれた声で田岡が答える。それに対して道雄は目を閉じて一度深く頷くと口を開いた。


「……そう言うと思った。だが待って欲しい、アンタに会わせたい人がいるんだ」

「会わせたい人?」


 田岡が尋ねると道雄は振り返って背後へと声をかける。

 林の暗がりの中から現れたのは、駅前の交番に勤める巡査部長の長谷川と、大学教授の亀谷夕子だった。

 灯りのない雑木林の中ではあったが、公園内に立つ街灯の光が木々の間からこの場所にも微かに届いている。そのため人となり、その表情はなんとか視認することができた。


「…………」


 夕子は長谷川に促されるように田岡の前へ歩み出ると、まじまじと田岡の顔を見つめた。

 彼があの日、自分にひったくりをした犯人なのか、記憶の中で照らし合わせるために。

 夕子の敵意を孕んだ懐疑的な瞳を見て、田岡はすべてを悟ったようだ。


「…………あぁ、そうかい。年貢の納め時ってことだな」


 そう言って何度も頷くと、卑屈な表情で道雄たちに向けて力のない言葉を投げかけた。


「……そうだよ、俺がチョコラビ男って奴だよ」


 田岡の突然の告白を聞いて、道雄たちの間に緊張が走る。

 長谷川はチョコラビ男を名乗り出た田岡がこの後どんな行動を起こしても対処できるよう、不測の事態に備えて身構えた。

 一方で、道雄は深く目を閉じて、悩むような、祈るような顔で先ほどの田岡の言葉を頭の中で繰り返すように確かめていた。その言葉は道雄にとって聞きたくはなかった言葉である。


「……あの日ウサギのお面を廃倉庫に戻しに行く途中、若い嬢ちゃんがトンチキ野郎に襲われそうになってるとこにでくわした。後々面倒ごとになるのは嫌だったんで、素性を隠すために咄嗟に手元にあったウサギのお面をかぶって嬢ちゃんを助けてな、その場からとんずらこくときに『このお面をかぶってりゃ何してもバレないんじゃないか』ってふと思ったんだよ。そんで同じお面をかぶってS記念公園でアンタからひったくったってぇわけだ」


 田岡は自嘲的に語りながら虚ろな瞳で道雄を見つめた。


「どうして俺だとわかった?」


 その問いに道雄が力ない声で答える。


「……何日か前に、田岡さんがチョコラビ男のことを知らないって言うんで、街で何が起きているのかを話して聞かせたことがあったよな。あの時、俺はひったくりが起きた場所をS記念公園としか言わなかった。だけど田岡さんは『蓮ヶ池には近づかなかった』って言ったんだ。おかしいよな、チョコラビ男の噂を知らない人間が犯行現場の詳細を知っているなんて。だからチョコラビ男事件について何かを知ってると思ったんだ」

「なるほど、とんだ下手を打ったもんだ」


 道雄の話を聞いて田岡はばつが悪そうに頭を掻いた。自分の言動に綻びがあったことを反省しているようだ。


「田岡さん、私にはあなたが犯罪に手を染めるような人間には思えない。どうしてそんな……」


 長谷川が悲しみを浮かべた表情で尋ねた。ホームレスの中でも古株の田岡は長谷川とも面識があった。道雄がホームレスコミュニティに加わる前にまとめ役をしていたのが彼だったので、道雄よりもよほど付き合いは長い。無愛想で気難しい男の印象を受けるが、その実、不器用ながらも義理を大切にする男だということを長谷川はよく知っている。


「買いかぶりすぎだ。飢えと貧しさは人を狂わせる……例外なんてもんはない。俺にしろ、アンタにしろな」

「目的は金……か」

「それ以外に理由なんかねぇよ。……さて、大人しくお縄につくとするよ。他のみんなには迷惑かけてすまねぇって言っといてくれ」


 そう言って田岡は抵抗することもなく、両の手を長谷川へと差し出す。


「…………」


 長谷川は彼をこのまま逮捕することにためらいがあるようで沈黙している。道雄も目を閉じて押し黙ったままだ。


「ちょっといいかしら」


 その重たい空気を破ったのは意外にも夕子だった。

 訝しむような眼差しで田岡をじっと見つめていた彼女だが、やがて自らの疑問をぶつけるように尋ねた。


「さっきからお金がどうこうって言ってるけど、それならあなたなんで私の財布に手もつけずに鞄を返したりしたの?」

「……は?」


 夕子の言葉を受けて、田岡の口からは思わず呆けた声が溢れた。

 続いて一瞬の間を置いて彼の顔に後悔と動揺の色が浮かぶ。


「どういう……」


 盗まれた夕子の鞄がそのままの状態で彼女の元に帰ってきた事実を、直接の捜査担当ではない長谷川は聞かされていなかった。話の飲み込めない彼が夕子に事情を尋ねようとしたとき、その場に新たな声が割って入った。


「待ってください!」


 長谷川たちが声のした方を振り返ると、そこには一組の男女が立っていた。

 一人はいかにも真面目そうな見た目の男。もう一人は痩せ細った女だった。女性の方は顔色は青ざめており、額にはじっとりと汗が浮かんでいる。体調を崩しているのが誰の目にも明らかだった。男に肩を借りてようやく立っているような状態である。


「あなたはたしか……佐藤さん?」


 彼らが道雄たちのホームレス仲間の一人の佐藤だと気がついた長谷川が声をかける。

 夕子は佐藤と呼ばれたその夫婦にどこか見覚えがある気がした。どこで会ったのかも思い出せないが初対面ではない気がする。記憶の糸を手繰り寄せようとしていたとき、突然の怒号で彼女の思考は中断された。


「馬鹿野郎共が! ひっこんでろ!」


 田岡が凄まじい剣幕で怒鳴り声を上げた。腹の底に響く重い声にその場に居た誰もが居竦んでしまいそうだったが、佐藤夫妻だけはその細い身体に似つかわしくない毅然とした態度で、少しも怯まずに田岡の声を受け止めていた。

 佐藤は決意を込めた目で妻を見つめた。妻もそんな夫に頷き返す。

 妻の眼差しに後押しされるように佐藤はゆっくりと語り始めた。


「全部僕がやったんです。田岡さんは僕を庇ってくれているだけなんです。あの日亀谷さんにひったくりをしたのは……僕なんです」


 普段気弱に見える佐藤だが、その声は震えることなく芯が通っていた。毅然としたその姿こそが彼の覚悟の表れであり、語られた内容が真実であるという裏付けである様でもあった。

 佐藤の告白を聞いて夕子はあの日のひったくりと彼を重ねてみたが、たしかに背格好は同じように見える。謎の既視感の正体はこれなのだろうかと考えるが、それでもまだ何かが彼女の脳裏にひっかかっていた。


「ひったくりして逃げるところを田岡さんに見られていて、そしたら田岡さんが僕を庇うために口裏を合わせてくれて、それで……!」

「もういい!……ったく、黙ってりゃよかったものを!」


 吐き捨てるように言うと田岡はどかりと音を立ててその場に腰を下ろした。

 やりきれない思いから田岡が頭を掻き毟ると宙空に白いフケが舞った。しばしの間、うなだれるように頭を抱えていた彼はやがて悲壮な面持ちで佐藤夫妻を見上げた。


「……なんで出てきた、俺に任せとけって言ったじゃねぇか」


 その問いに答えたのは佐藤の妻だった。額に脂汗を浮かべ息も絶え絶えといった様子だが、その声と表情には不思議と温かさが感じられる。


「二人で話して決めたことです。行く宛もなかった私たちを拾ってくれて、今日までよくしてくれた皆さんにこれ以上迷惑はかけられないって。見ず知らずの私たちを迎えてくれた皆さんの優しさが、生きる気力を失っていた私たちには何よりも嬉しかった。だから……田岡さんのそのお気持ちだけで十分です、本当にありがとうございました」


 そう言って佐藤夫妻は深々と田岡に頭を下げた。


「お前ら……」


 道雄がそっと田岡の力ない肩に手を置いて尋ねる。


「田岡さん、今の話は本当か?」

「……あぁ、そうだよ。全部この馬鹿がゲロった通りだ」


 大きく息を吐くと田岡は観念したように話し始めた。


「カミさんを医者に診せてやりたくて、ウサギのお面で正体を隠して盗みをすることにしたらしい。だけどバレたらムショ行きだ。カミさんのこともあるし、何よりコイツは俺に比べりゃまだ若い。どうせホームレスが一人豚箱にぶち込まれるんなら、先の短い俺の方がいいだろう? だからもしものときは俺が罪をおっかぶるつもりだったんだ」


 田岡が力なく語った言葉に偽りがないことを、佐藤が小さく頷いて答えた。


「……それより、お前盗んだ金に手を付けなかったのか? どうりでカミさんの具合が良くならねぇわけだ。それじゃあただの盗み損じゃねぇか」


 田岡は気になっていたことを尋ねた。先ほどの夕子の発言に彼が上手く返せなかったことからも明らかなように、その事は田岡も知らなかったことだ。


「それは……僕たちは亀谷さんにとても返しきれない大きな恩がありますから」


 そう言うと佐藤夫妻は夕子の方に向き直り頭を深く下げた。


「私……?」


 夫妻に恩など売った覚えなどない夕子は相変わらず怪訝な顔をしている。だが、佐藤夫妻とこうして相対してみて、脳の奥の引っ掛かりがより強くなるのを感じる。

 以前この夫婦にどこかで会ったことがある。そしてこうして頭を下げられた様な気がする。その疑念はもはや確信に近いものとなっていた。

 夕子の欲していた答えを示すように、佐藤が言う。


「覚えていませんか? 無理もないですね、僕も妻も見る影もないほど変わってしまっていますから……。僕たちは二年ほど前にあなたのご主人に、息子を事故から助けて貰った夫婦です」

「あ……!」


 驚きのあまり自分の意思とは無関係に、彼女らしくもない頓狂な声が飛び出した。佐藤のその言葉で全てを思い出したからだ。

 夕子の旦那は子供を助けようと飛び出して交通事故に巻き込まれて亡くなった。たしかにそのときの子供が佐藤という苗字だった。病院や夫の葬儀の場でこの夫婦には何度か会っていたが、当時心身ともに憔悴しきっていた夕子は彼らのことなどたいして覚えてはいなかった。


「思い出したわ、あなたたちがあのときの子の……」


 既視感の正体を明かされた夕子は当時の記憶をゆっくりと思い出していく。

 それにしても彼らがそのときの夫婦だとわからないはずだ、と夕子は思う。おぼろげな記憶の中の佐藤夫妻の姿と比べても、もはや別人と思えるほどに彼らはやつれ切っており、格好も当時とはほど遠く薄汚いものだ。


「息子を亡くしてから僕は精神的病んでしまって自暴自棄になり、職も家も失いました。妻と二人で宛もなくさまよっていたところをシゲさんたちに拾われたんです。人の温かさに触れ、生きる気力が芽生えてきたところで妻が体調を崩して……そこからはさっき田岡さんが話した通りです」


 淡々と話す姿は佐藤の姿は自らの行いを懺悔しているようにも見えた。彼自身、今日という日まで罪悪感に押しつぶされそうになりながら過ごしてきたのだろう。彼の疲弊しきった顔は、隣にいる病を患っている妻とそう大差ない。


「ひったくりをした後、盗んだ財布の中にあったあなたとご主人の写真を見て、自分がとんでもない人から盗みをしてしまったのだとわかりました。それでせめて盗んだものをそのままお返ししようと、亀谷さんの家に鞄を返しに行ったんです。本当はそのまま出頭すればよかったんでしょうけど……やっぱり妻を一人残してはいけなくて踏ん切りがつかず……」


 情けなさと申し訳なさがないまぜになった表情で佐藤が唇を震わせる。そんな彼の言葉を妻が引き継いだ。


「でも、それからこの人とよく話したんです。もしかしたらこの人がひったくりをした相手が亀谷さんだったのは、運命だったんじゃないかって。天国の息子と亀谷さんの旦那さんが、これ以上私たちが誤った道に進まないように亀谷さんに引き合わせたんじゃないか……そんなふうに思えてならなかったんです」


 そこまで語ると夫妻はお互いに目配せし、その場に膝をつき両の手を地につけて夕子に向かって深く頭を下げた。


「この度は多大なご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。この罰はきちんと償わせて頂くつもりです」


 道雄たちの間を冷たい沈黙が夜風に乗って流れた。

 小広場の騒ぎがかすかに聞こえるだけで、しばらくの間は誰も口をきこうとはしなかった。

 そんな中、ぽつりと田岡が口を開いた。その声は普段の彼とは別人のように、風に吹かれて消えてしまいそうなほどに弱々しかった。


「……俺の女房も身体が弱くてよ、俺を残して先に逝っちまった。だから、病気のカミさんをどうにか助けてやりたい、そのためなら盗みだってやるっていうこいつの気持ちが、俺には痛いほどわかる」


 佐藤の境遇を自らに重ねてなのか、田岡の瞳はすでに潤んでた。


「虫がいい話だってのはわかってる。だがコイツを見逃しちゃくれないか、頼む!」

「田岡さん……」


 冷たく固い地面に頭を擦り付けるようにして頭を下げる田岡の姿を横目に、佐藤は泣きそうな声で彼の名を呼んだ。


「……」


 後悔と謝罪の念から土下座する佐藤夫妻、彼らのために必死の懇願をする田岡。彼らの姿を見て長谷川は思わず自身の涙腺が緩むのを感じた。警察官という自分の立場を考えれば、彼らの行いは言うまでもなく許されない行為であり、どんな理由があれ逮捕されて当然だとわかっている。それがわかっていても、彼らの想いを目の当たりにして何も感じずにはいられなかったのだ。


「…………」


 夕子は黙ってちらりと道雄を見た。口を硬く結んだ彼もまた、懇願するようにまっすぐな眼差しで夕子を見つめていた。

 その目を見て夕子は、公園に来る前に自宅の玄関先で彼に会った時のことを思い出していた。


 長谷川に紹介されるように夕子の元を訪ねた道雄は、彼女に向かってある話をした。


「俺はチョコラビ男……つまりあなたにひったくりをした犯人と思われる人物に心当たりがあります。今から長谷川さんと一緒にあなたをその人物のところに連れていくつもりです。……ですが、もし犯人が自ら名乗り出て罪を懺悔するようなことがあったら……そのときは罪を償うチャンスを与えてやってはくれないでしょうか」


 そう言って道雄は頭を下げてきた。今にして思えば、道雄はこのとき既に田岡がひったくり犯ではなく佐藤が真犯人だと気づいていたのかもしれない。


「何を言っているの、犯人に目星がついているならさっさと逮捕すればいいだけじゃない。第一、そんなことをしても私には何の利もないじゃない」


 当然のように夕子は道雄の申し出を突っぱねた。彼女からしてみれば自分は被害者であり、見ず知らずの他人、しかも加害者に情けをかける意味も理由もまるでない。

 だが、道雄は必死に彼女に食い下がり訴えかけた。


「お願いします。もし犯人が名乗り出なかったときは……犯人を匿っていた共犯として俺も一緒にしょっ引いてもらっても構わない。だからどうか……!」

「……そうまで必死になるのは何か事情があるんでしょうけど、どうしてそこまで他人のために尽くせるのかまるでわからないわ」


 夕子は呆れたように頭を振って、否定の意を示した。実際、道雄の提案は自らの立場を危うくするだけの理解し難いものであったからだ。

 だが、道雄は頭を上げて夕子を見ると、顔を眉をひそめて少し困ったような、それでいてどこか嬉しそうな顔をして答えた。


「他人を疑うことの方が当たり前になっちまってるこんな世の中だからこそ、俺は人の持つ悪意じゃなく善意を……人が人を想う気持ちって奴を信じていたいんです」


 そう言った道雄の声と顔が夕子には亡き夫の言葉と重なった。


 ーー人間には心があるだろう。他人を想うという”優しさ”こそが、人間にとって一番大切で尊いものだと思うんだ。


 夫の優しく温かい声がそっと耳元で聞こえた気がした。

 かつて何度も聞いた夫の愛した言葉。今の自分には受け入れがたい綺麗事だが、心のずっと奥の方で夫の一部としてその言葉を愛している自分がいたのも事実だった。


「……約束はしません。まずはきちんと犯人を見つけ出す、話はそれからです」


 気づいたときには夕子はそう答えていた。

 顔を綻ばせかけた道雄に「変な期待はしないように」といつものきつい口調で釘を刺した。

 そうしてS記念公園までやって来て今に至る。


 地に伏し、頭を下げる佐藤夫妻と田岡。夕子と彼らの間には長く重い沈黙が流れていた。

 この静寂を破ることができるのは夕子だけだと誰もがわかっている。そして彼女が彼らの命運を握っていることも。

 長谷川は微かに潤んだ瞳で「どうするんですか」と投げかけるように夕子をちらりと見る。

 彼と目が合うと夕子は一つ重いため息をついた。


「……はぁ。これじゃまるで私が悪者みたいじゃない」


 自嘲気味でいて、不平と不満を含んだ皮肉をこぼすと、夕子は大学で講義をするときのように背筋をぴんと伸ばして、はっきりとした口調で語りかけた。


「佐藤さん。どんな理由があれ、あなたが罪を犯した事実は消えることはありません。そして日本は法治国家です。罪を犯した人間は法で裁かれ、その罪を償なわなければなりません。そこには何の例外もありません、わかりますね」

「……はい」


 目を硬く閉じ、絞り出すような声で佐藤が答えた。わかり切っていた結果ではあったが、いざ判決を言い渡されるとぐっと胸が押しつぶされるような気がした。

 だが、夕子は少しだけ優しい口調でそっと一言付け足した。


「ですが、あなたが自分の罪を認めそれをしっかりと償うと誓うのなら、贖罪を終える日まで私が奥さんの面倒を見ましょう」

「え……」


 予想外の夕子の提案に佐藤は呆気に取られる。思わず顔を上げて妻と顔を見合わせたが、二人とも驚きのあまり目を丸くしてだらしなく口をぽかんと開けている。その反応を見て、お互いに今聞いた言葉がどうやら幻聴ではないようだとわかった。


「なんですか、何か不満ですか?」


 すぐにいつもの横柄な態度に戻った夕子は佐藤夫妻に向かって問いかける。


「い、いえ、そうではなくて……とんでもない迷惑をかけたっていうのに、どうして僕たちのためにそこまでしてくれるんですか? あなたにはなんの得もないはずなのに……」


 夕子の真意が飲み込めずに、震える声で佐藤が尋ねた。

 夕子の申し出は佐藤にとってはこの上ない話ではあるが、実際に夕子自身に利がないのは明白だ。まして夕子と佐藤は被害者と加害者の関係だ。被害者から加害者へ向けられる厚意に何か意図があるのかと疑うのも無理はない。

 だが、そんな佐藤の疑念を振り払うように、有無を言わさぬ口調で夕子がぴしゃりと言った。


「自惚れないでちょうだい、あなたたちの為だなんて思ってはいないわ。ただの私の気まぐれです。それともこんな老人に情けをかけられるのは嫌かしら?」


 いつもの憎まれ口ではあるが、夕子のその言葉は佐藤夫妻にとっては救いの言葉に他ならなかった。

 二人は顔を見合わせると安堵に顔を歪め、涙を流しながら頭を下げては何度も夕子に礼を言った。


「あ、ありがとうございます、ありがとうございます……!」

「礼など要りません、礼なら墓前で夫に言いなさい。『罪を憎んで人を憎まず』と言うでしょう? 夫ならこうすると思ったから、私もそうしただけです」


 咽び泣きながら感謝する佐藤夫妻に、夕子はあくまで素っ気ない返事を返す。

 だが、何かを考えてから、優しくそれでいて少しだけ悔しそうな顔をして小さく言った。


「それと、私の生意気な教え子にも礼を言っておくのですね」

「……?」


 夕子の言葉の意味がわからず、佐藤たちはその意味を尋ねようとしたが、彼女が黙って首を横に振ったので何も聞かなかった。田岡は何度も「よかったな」と言っては皺だらけの顔をさらに歪め、ひたすらに謝罪と感謝を続ける佐藤の背を叩いている。

 そんな彼らの姿を道雄と長谷川は少し離れたところからしばらく見守っていた。


「シゲさんも人が悪い、田岡さんが犯人じゃないって気づいてたな?」


 人の良さそうな顔を緩ませて長谷川が尋ねると、道雄は彼に目配せして答えた。


「田岡さんが奥さんを亡くしていたのは知っていたから、自分の嫁さんと同じくらいの年の女性に乱暴はしないと思ったんだよ。あとは佐藤さんたちの話を聞いて、田岡さんが佐藤さんたちをかばっているんじゃないかと考えた。……確証はなかったけどな」


 そう語る道雄であったが、さすがに夕子と佐藤たちの関係については予想もしていなかった。もしかしたら佐藤夫妻がいうように、亡き夕子の夫と彼らの息子とが人の道を踏み外さないように導いてくれたのかもしれないと思うのであった。


「そっちも終わったようだな。あとで詳しく事情は聞かせろよ」


 いつの間にかその場にやってきた尊作が道雄に声をかけた。

 経緯を深くは聞かなかったが、この場の様子を見れば何があったのかなんとなくは想像がついた。


「……あぁ、待たせちまって悪かった」


 尊作に気が付くと、道雄は満足げながら少しだけ寂しそうな表情で頷いて返した。

 尊作は携帯電話を取り出してひばりに電話をかけ、道雄たちの方も一件落着したことを告げる。


「おい、ガキ。そろそろ幕引きだ」

『オッケー! それじゃホームレスの皆さん、最後によろしく!』


 電話口の向こうではひばりの活き活きとした声が聞こえてきた。騒ぎの終息しつつある小広場では、ひばりがホームレスたちに最後の指示を出す。

 やがてまばらな爆発音が聞こえたかと思うと、S記念公園の秋空にはいくつかの花火が打ち上がった。


 夏祭りなどで見られる大玉の鮮やかな花火には遠く及ばない、小さく儚い打ち上げ花火たち。それでも漆黒の夜空には確かに光の花々が浮かび上がり、爆音が遠くまでこだました。


「花火?」

「こんな時期に……?」


 S記念公園の近くにいた者たちは、皆がその破裂音が聞こえた方角の空を見上げた。

 断続的に打ち上げられる季節外れの花火たちは、欠片の風情も持ち合わせてはおらず、美しさや感動とは程遠いあまりにも安っぽいものだった。


「あ……」


 S記念公園からほど近い駅前の大通り、ハロウィンの仮装をしていた女子高生たちの一人が、その打ち上げ花火を見て何かを思いスマートホンに指を走らせる。


「どうしたの?」

「これ……そういうこと?」


 見せられた画面を友人たちが覗き込む。

 そこには先日ひばりの手によって投稿されたチョコラビ男の犯行予告文が表示されていた。


 ーー収穫祭の賑わいを聴きながら私は街をさまよい歩く。

 ーー宴はもう終わりの時が近づいている。

 ーー私が私でいられる時間もあとわずかだ。

 ーーその時が来てしまったら私は消えていなくなる。

 ーー街に残るのはたったひとつの仮面だけ。

 ーー風に吹かれ、朽ちて果てる仮面だけ。

 ーー……そうだ。最後にこの街に花を飾ろう。

 ーー血のように、鮮やかで美しい。大きな花を。


「これ! チョコラビ男の書き込みの最後の大きな花ってこの花火のことじゃない!?」


 興奮したようにスマートホンを見せる女子高生が言う。


「え〜、さすがにそれはないでしょ。そうだとしたらいくらなんでもしょぼすぎるって」


 彼女とは対照的に友人は冷めた態度のままだ。


「でも鮮やかで美しい花って言ってるしさ!」

「言うほど鮮やかで美しいか〜?」

「きっとそうだって!」

「はいはい、すごいすごい。……てか今はチョコラビ男なんかよりハロウィンっしょ!」

「うーん……ま、それもそうだね、じゃ押すよ!」


 先ほどまでの興奮はどこへやら、女子高生はスマートホンをしまうと目の前の家のインターホンを押して友人と二人で声を揃えて元気よく叫んだ。


「「トリック・オア・トリート〜!」」


 駅前にはハロウィンの賑わいが溢れ、住宅地には秋夜の静けさが広がっている。

 それぞれの場所でそれぞれの人々がその日を過ごす中で、不思議なことにS記念公園で打ち上げられた花火を多くの者がその目で見たと言う。

 そしてその花火に何か意味があることだけは、皆がなんとなく感じていた。

 それが何かのピリオドなのだと。


 その日からチョコラビ男に関する話題は急速に風化していった。


「女子大生を不審者から助けたのは、チョコラビ男ではなく通りすがりの会社員だったらしい」

「女子大生を助けた男がチョコラビのお面をかぶっていたのではなく、不審者の方がチョコラビのお面をかぶっていたようだ」

「老婆からひったくりをしたチョコラビ男はホームレスで、既に逮捕されたらしい」

「チョコラビのお面をかぶった不審者を見て、ホームレスは犯行を思いついたようだ」

「ホームレスの集団がチョコラビのお面をかぶって夜中に不良たちの喧嘩を止めたという」

「その後、警察がチョコラビのお面を回収したそうだ」


 あるときからチョコラビ男の噂話には、そんな”答え”が出回っていた。

 それが本当のことなのかは誰もわからなかったが、人々の多くはチョコラビ男という謎の持つ魅力が消え失せてしまったことで、それ以上チョコラビ男を話題にしようとは思わなくなっていた。

 疑問が残ることもいくつかあったが、もはや過去の話題となってしまったチョコラビ男の噂話は、日を追うごとに人々から忘れられていった。


 こうしてチョコラビ男にまつわる一連の騒動は幕を下ろした。

 その舞台裏の真実を知る者は、ほんの一握りである。

 彼らがその裏話を人々に語り聞かせることはこの先もないだろう。

 なぜなら、チョコラビ男という奇怪な騒動は”物語”ではなく”噂話”として終わりを迎えたのだから。

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