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月夜のウサギ

【月夜のウサギ】

ーーーーT市内・路上


 動揺した沙奈恵からの連絡を受けて、付近で待機していた華奈はすぐさま駆け出していた。


「そう、わかった。ありがとう。危ないから出てきちゃだめよ。あと、警察に連絡もお願い」


 それだけ言って通話を切るとチョコラビ男がいるという電柱の後ろ側へと回り込む。


「……あいつか」


 路地の角からそっと頭だけ出して様子を伺うと、たしかに沙奈恵の言った電柱の下に男が一人立っていた。

 背丈は華奈と同じくらいの男のようで、全身黒いジャージに身を包んでいる。

 背後からなのでチョコラビのお面は華奈からは見えないが、それでも男が顔にお面らしき物をかぶっているのはわかった。こんな夜道でお面をかぶった人間など他にいるわけもないし、人違いということはないだろうと思う。


「さて……逃げられる前にとっ捕まえて洗いざらい吐いてもらうわよ、チョコラビ男」


 大きく息を吸って、長く細く吐く。現役の頃、試合前にはこうして精神統一をしていたものだと思い出す。ブランクが数年あるとは言え、こうして当時と同じルーティーンをすると不思議と心が静まっていくようだった。

 気配を殺して路地に出ると、一歩また一歩と音もなくチョコラビ男に近づいていく。幸いチョコラビ男はこちらには気づかず、マンションを見上げたままだ。

 極限の緊張感の中、華奈は自身の間合いまでチョコラビ男との距離をゆっくりと確実に詰めていく。

 と、背後まで迫る華奈の気配に気づいたのか、チョコラビ男が不意にこちらを振り返った。


「!?」

「やああ!」


 それを合図にするかのように華奈は気迫こもったの叫びを上げると、鋭い右の正拳を繰り出した。

 チョコラビ男は咄嗟に身体の前で腕を組んでそれを防御するが、華奈は流れるような体重移動で蹴りへとつなげる。

 さすがに体重の乗った蹴りの威力を殺すことはできず、チョコラビ男は後方に吹っ飛ばされた。アスファルトの上をごろごろと転がると、呻き声を上げながらどうにか立ち上がろうともがいている。


「チッ、防がれたか。でも逃さない……!!」


 華奈が更なる追撃をかけようと素早いフットワークでチョコラビ男に近づいていったときである。


「ちょっと、タイムタイム!」


 チョコラビ男が華奈に訴えかけるように悲痛な声を上げた。タイムを意味するTの字を、素早く手でかたち作った。

 その声に何故か聞き覚えがあったので、すんでのところで華奈は拳を止める。

 両手を広げて敵意がないことをアピールすると、チョコラビ男はそのお面を外して華奈に言った。


「僕だよ、華奈ちゃん。まったく、いきなりひどいなぁ……いてて」


 チョコラビのお面をかぶった男ーー中村幸太郎が苦痛に顔を歪めながらもどこか嬉しそうに華奈に笑いかけた。


「はぁ!? 幸太郎!?」


 華奈は謎に包まれていたチョコラビ男の正体が自分のよく知る人物だったことに驚きと動揺を隠せない。

 なにせ全く予想外の出来事だ、脳が状況を理解も処理もできずにフリーズしかけている。

 華奈は混乱しながら幸太郎の胸ぐらに掴みかかると、激しく揺さぶり尋問する。


「なんでアンタがここにいるのよ!?」

「なんでって、僕は前からT市に住んでるよ? あれ、おばさんから聞いてなかった?」

「それも初耳だけど、どうしてアンタが鈴村さんのストーカーなんかしてるのかって聞いてるのよ!!」


 華奈に詰問されて幸太郎は不思議そうな顔で返す。


「スズムラさん? 誰それ? 僕が用があったのは華奈ちゃんだよ。華奈ちゃんちそこのマンションの五○一号室だよね?」


 そう言って幸太郎は沙奈恵の部屋の一つ上の階にある部屋を指差す。


「なんで私の部屋知ってるのよ。……いや、それはもうこの際どうでもいいわ、どうせうちのお母さんから聞いたんでしょ」

「ぴんぽーん、正解!」


 悪びれた様子もなく楽しそうに答える幸太郎に苛立ちを覚えつつも、華奈は質問を続ける。幸太郎と問答を繰り返す度に感情の温度がぐつぐつと上昇していくのを感じた。


「アンタが鈴村さんのストーカーじゃないのはわかった。で、一体私に何の用だったの?」

「そりゃもちろん華奈ちゃんのこと驚かそうと思ってサプライズだよ、サプラ〜イズ!」


 その一言で華奈の頭の中で何かがぷつんと音を立てて切れた。


「この阿呆!! 本ッ当人騒がせな奴ね!!」


 湧き上がる怒りに身を任せぐっと両手に力を込めると、幸太郎の首を締め落とす。


「か、華奈ちゃん、き、極まってる……!」


 幸太郎は顔を真っ赤にしてばたばたと抵抗するが、慈悲はないとばかりに華奈は少しも手を緩めない。

 二人がそんなやりとりを続けていたところに沙奈恵が恐る恐るといった様子でやってきた。部屋でじっとしているように言われていたが、華奈のことが心配で物陰から様子を伺っていたのだ。

 しかし、途中から華奈とチョコラビ男のやりとりがあまりに不自然だったので、気になってこうして出てきたのだった。


「えっと……千森さん、大丈夫? その人、もしかして知り合いなの?」


 華奈から解放されて涙目で咳き込む幸太郎を見ながら沙奈恵が訪ねる。

 沙奈恵のことを見ると、華奈は苦々しく顔を歪めてうんざりとした声で答えた。


「こいつは中村幸太郎。知り合いっていうか……私の従兄弟よ」


 頭を抱える華奈に紹介されながら、幸太郎がにこりと軽薄な笑顔を浮かべて手を振った。


「どーも、従兄弟の中村幸太郎です。華奈ちゃんのお友達?」

「は、はぁ……私は、鈴村沙奈恵っていいます」


 状況を全く理解できない沙奈恵は幸太郎に流されるがままに自己紹介をする。


「えっと……どういうこと? この人がチョコラビ男……?」

「そうだ、アンタこの騒ぎどういうことなのか説明しなさいよ! 女の子助けたのはともかく、アンタがひったくり犯なら警察に突き出さなきゃならないじゃない!」


 鬼気迫る形相で幸太郎を睨みつける華奈。親戚だからといってそこに情状酌量の余地はない。


「チョコラビ男のことでしょ? 残念だけどあれは僕じゃないよ」


 肩をすくめてみせると、少し大袈裟に両手を振って幸太郎が答えた。

 真偽はともかく、その言葉に華奈は少なからず安堵したのだが、幸太郎に対する疑いは依然として払拭できない。


「じゃあどうしてアンタがチョコラビのお面持ってるのよ」

「これは前に道端で遭ったホームレスのおじさんが落としていったのを拾ったんだよ。僕が前に勤めてた会社のイベントで何回か使ったのと同じ奴でさ、懐かしいなぁなんて思って拾っておいたんだよね。でもこのお面が、まさかこんな騒動に繋がってるとは思いもしなかったよ」


 あくまでへらへらとした態度のまま、幸太郎はどこか楽しそうにそう語る。

 チョコラビのお面を見つめて瞳を輝かせる様子は、お気に入りの玩具を手にした子どものようである。


「せっかく楽しめそうな玩具を拾ったんだから、とびきり面白いことをしたいじゃない?……で、前々から華奈ちゃんにいきなり会って驚かせようと思ってたから、これだ!って思ってさ。今日はネットの掲示板の書き込みに合わせてここで待ってたってんだけど、どう? 驚いてくれた?」


 幸太郎はとっておきのジョークを披露するかのように可笑しそうにこれまでの出来事を華奈たちに語って聞かせた。


「知るか。死ね」


 それを聞いていた華奈は、人騒がせではた迷惑な幸太郎に心底うんざりしている。思えば昔から幸太郎が自分の好奇心のままに動いては、華奈はそれに振り回されるということが多かった。しばらく彼に会っておらず平穏な日々を過ごしていたので、久々の再会でこんなとんでもない騒動を起こしてくれるとは夢にも思っていなかった。

 沙奈恵のストーカーだと思っていたチョコラビ男が自分の親戚だったなんて……一体どんな顔で尊作たちに説明すればいいのかと頭を抱える。

 と、そこで華奈の思考を遮るように、女性の悲鳴と甲高い警報音が住宅街に鳴り響いた。


「今度は何!?」


 音のする方を見て何事かと華奈が叫ぶ。


「これ防犯ブザーの音だよね?……もしかして不審者でも出たのかな?」


 沙奈恵が自身も襲われたことのある野球帽の不審者を想像する。


「そういえばさっき野球帽かぶった男がふらふら歩いてるのを見かけたよ」


 幸太郎がまるで関心がなさそうに呑気に言う。

 言うまでもなくこの辺りで目撃情報のある不審者のことだと華奈も沙奈恵も察する。


「はぁ!? なんでそれ放っておいたのよ!?」

「え? だって僕は華奈ちゃんの家に行かなくちゃならなかったし」

「あぁもう、アンタって奴はほんと話が噛み合わなくていらいらする……! ほら、さっさと助けに行くわよ!!」

「それがさっき華奈ちゃんに蹴り飛ばされた時に足捻っちゃったみたいでさ」


 自身の足首を指差して怪我していることをアピールする幸太郎。


「余計なことはするくせに肝心なときに使えないわね! もういい、私一人で行くわよ!」


 幸太郎の軽薄な態度に苛立ちつつも、華奈は警報音のする方へと勢いよく駆け出していった。

 その場には沙奈恵と幸太郎がぽつんと取り残されている。


「あの……」

「あ、どうもどうも、華奈ちゃんがいつもお世話になってます」

「いえ、最近は私の方がだいぶ助けてもらってるというか……」


 まるで緊張感のない挨拶をする幸太郎。だが、沙奈恵は華奈のことを思うと胸中穏やかではない。


「千森さん、大丈夫かな……危ないんじゃ……」


 どうしたらいいのかもわからずにおろおろと心配そうに漏らす。


「なぁに、それなら心配いらないよ」


 そんな沙奈恵を励ますように幸太郎は自信たっぷりに言い放った。


「華奈ちゃん僕よりずっと強いもん」


ーーーー北緑台・路上


「誰か助けてええええ!!」


 夢乃は声を上ずらせて助けを求めていた。脳内は恐怖で埋め尽くされ、もはやチョコラビ男のことなど考える余裕もない。友人たちから渡された防犯ブザーを鳴らしてみたが、野球帽の男は少しも怯む様子はなく、薄気味悪い笑顔を浮かべて一心不乱にこちらへ向かってくる。

 必死の思いで逃げ続けていた夢乃だったが、さすがにもう体力の限界が近づいてきた。


「あっ!」


 足がもつれた拍子にバランスを崩し、その場に勢いよく倒れ込んでしまった。すぐにまた逃げ出そうとしたが、足元にうまく力が入らずに立ち上がれない。見ると転んだ拍子にヒールのかかとが折れてしまったようだ。遠くに投げ出された防犯ブザーも衝撃で壊れてしまったようで、もう警報音は聞こえない。


「ひひっ、もう逃げられないね」

「いや……」


 薄気味悪い笑みを浮かべて、野球帽の男がじりじりと近づいてくる。そのにたりと笑う口元が、夢乃には生理的な嫌悪感を抱かずにはいられなかった。男の顔など見たくもなかったが、恐怖によって狭まった視界が、彼女の意思とは無関係にその不揃いで汚らしい口元へと吸い寄せられてしまう。

 一歩、また一歩とゆらゆらと近づいてきた野球帽の男が、ついに夢乃のすぐ目の前へとやってきた。

 鼓動が早くなって彼女の鼓膜をしきりに叩く。頭が真っ白になって何も考えれなくなる。

 追い詰められた夢乃の頭によぎったのはあの日の記憶だった。

 数週間前、同じように危機的な状況に陥った時に自分を颯爽と助けてくれたチョコラビ男の姿が走馬灯のように思い起こされる。


「チョコラビ様……!」


 祈るように震える声を絞りだした。

 その時、夢乃の声に答えるように、若い女の声が響いた。


「やあああああ!!」

「おごっ!?」


 颯爽と現れた女が野球帽の不審者に華麗な飛び蹴りを放ったのだ。

 夢乃に夢中だった不審者は完全に無防備な脇腹に蹴りを喰らって悶絶しながら路上に転がる。苦悶の表情を浮かべて腹を押さえてうずくまっているので、あばら骨が折れているのかもしれない。息をするのも苦しそうだ。男のかぶっていた野球帽は蹴り飛ばされた拍子に無残に路上に転がっている。

 しかし、夢乃にとってはもはや野球帽の男など眼中にない存在であった。

 目の前に現れた救世主の姿が、夢乃の中であの日見たチョコラビ男の姿と完全に重なったからだ。

 女性は長い髪を掻き上げると大きく肩を上下させて言う。


「はぁ、はぁ……な、なんとか間に合ったみたいね」


 夢乃を助けた女ーー華奈は夢乃の方を向き直って彼女の無事を確認するとほっと息をつく。

 ゆっくり歩み寄ると努めて優しい顔をしてそっと手を差し出す。


「……危なかったわね。あなた、大丈夫だった?」


 その言葉を聞くやいなや、先ほどまで夢乃の心を覆っていた恐怖は一瞬で吹き飛んだ。

 差し出された華奈の手を両手で力強く握り返すと、目を輝かせて弾む声で答える。


「チョコラビ様……! きっと助けに来てくれるって、私信じてました……!」

「…………はい?」


 夢乃の言葉を聞くなり何かがおかしいと察する華奈。だがそんな華奈のことなどお構いなしに、夢乃が溢れる気持ちを言葉に乗せて機関銃のように浴びせる。


「あれから私ずっとお会いしたかったんです! 私、初田夢乃って言います! ほら、覚えてますよね!? 助けてもらった日からチョコラビ様ってどんな人なんだろうってずーっと考えてたんですけど、まさか綺麗なお姉様だったなんて〜! あ、だけど私はそれも全然アリっていうか! まずはお名前と連絡先を……!」

「えぇ!? ちょ、ちょっと待って、落ち着いて! っていうかそれ人違いだから!」


 夢乃の物言いから自分がチョコラビ男だと勘違いされていることに気づき、華奈は慌てて否定する。だが夢乃はそんなことは耳も貸さずに情熱的な瞳とともに華奈の手を強く握りしめる。


「いいえ、隠したってあの日助けてもらった私にはわかります! あなたこそがチョコラビ様だって!」

「もー、なんなのこれぇ!?」


 訳がわからないと悲痛な声を上げる華奈。

 ちょうどそこに沙奈恵と幸太郎がやってきた。


「え、これは……どういう状況なの……?」

「あはははっ、これはさすがに僕も予想外だ」


 足を挫いた幸太郎は沙奈恵に肩を借りてこの場にやってきたのだが、状況を見るなり声を上げて笑い始めた。

 困り果てて狼狽る華奈と、その手を固く握って離さない興奮状態の夢乃、そして路上に呻き声を上げて転がる不審な男。

 沙奈恵にはこの状況が全く飲み込めなかったが、幸太郎はなんとなく一部始終の出来事を察したようで腹を抱えて笑っている。


「幸太郎! アンタちょっとこれどうにかしなさいよ!」


 幸太郎に気づくと夢乃を指差して華奈が叫ぶ。


「大変そうだね〜、華奈ちゃん。いや、チョコラビ男さんって呼んだ方がいいかな?」


 だが幸太郎はそんな華奈を面白がってひらひらと手を振るだけだ。


「カナさん!? カナさんって言うんですね!? 素敵なお名前ですね! どんな字書くんですか!? 苗字は何て言うんですか!?」

「ほんとになんなの〜〜!?」

「と、とりあえず落ち着こうか、二人とも。ね?」


 華奈と夢乃をなだめるように沙奈恵が二人の間に入る。華奈はともかく夢乃が落ち着くまでには今しばらく時間がかかりそうだ。

 華奈たちの様子をしばらく可笑しそうに眺めていた幸太郎だったが、遠くから警官が駆け寄ってくるのを見ると、片足で跳ねるように地面に這いつくばる男へと近づいていった。


「や、君にもずいぶん楽しませてもらったね。君にもお礼をあげたいと思ってたんだ、遠慮しないで受け取ってよ」


 そう言って幸太郎は苦悶の表情を浮かべて倒れる男の頭に、そっとチョコラビのお面をかぶせるのだった。

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