踊る収穫祭
【踊る収穫祭】
ーーーー亀谷家
暗く静かな闇夜の中、夕子の耳に賑やかな音楽が微かに届いた。
窓の外を見ると、向かいの家の庭が鮮やかなハロウィンの飾り付けで彩られていた。たしかクリスマスにもイルミネーションも飾っていたことを思い出す。小さい子供のいる若い夫婦の家だ、こういったイベント事を大事にする家庭なのだろう。
「ハロウィンね……」
忌々しそうにぽつりと呟いた。というのも夕子はこのイベントがあまり好きではなかった。
ほんの数十年くらい前までは特に見向きしなかったくせに、ここ十年くらいの間に急に日本中で一大イベントになったのがどうにも理解できなかった。そもそもなぜ西欧の祭りを日本人が祝うのか。都会で騒ぎを起こしては問題になる若者たちの姿をニュースで見ると、自分たちが馬鹿騒ぎをするための大義名分に他宗教の行事を使っているように思えて腹立たしくて仕方ない。クリスチャンでもない日本人がクリスマスを祝うことにすら懐疑的な夕子にとって、日本人の節操のなさにはほとほと呆れるばかりであった。そのうち旧正月や独立記念日も乱痴気騒ぎするようになるに違いない思うと、心底嫌気が差す。
ハロウィンへのささやかな反逆も兼ねて、今夜の夕飯はあえて和食にでもしようかと思っていた矢先、不意に玄関のチャイムが鳴った。
「誰かしら?」
特に来客の予定はなかったはずなので不審に思いながら玄関へと向かう。近所の子供たちがハロウィンのお菓子をねだりに来たのだとしたら、ここが日本であると説いて世間の厳しさを教えてやろうなどと考えながら扉を開いた。
しかし、そこには仮装した子供たちなどはおらず、壮年の警察官と見知らぬ男が立っていた。
「こんばんは、突然のご訪問失礼します。駅前交番の長谷川です」
そこに立っていたのは駅前の交番に勤める巡査部長、長谷川であった。長谷川は警察官であった夕子の夫と面識があり、葬儀の後にも何度か線香を上げに夕子の家を訪れていた。
「あら、長谷川さん。何か用ですか? あのひったくりが捕まったのかしら?」
「いえ、残念ながらそれはまだでして……」
「ならこんなところで油を売っている暇はなんじゃないかしら」
「はは、これはまた手厳しい」
夕子の皮肉には長谷川も辟易しているようで、苦笑いをしながら罰が悪そうに頭を掻いた。
「……で、そちらの方は? それが本題なんでしょう?」
長谷川がこうして夕子の元を尋ねてきたのには何か理由があり、それが奥に立つ男に関係しているだろうことは明白だった。改めてその男を見るとみすぼらしい格好をしており、お世辞にも清潔感があるとは言い難い。だが、不思議と嫌悪感が沸かないのは、その快活で人の良さそうな人相のおかげだろう。それなりに歳を重ねているようだが、よく日に焼けたたくましい顔をした中年の男だった。
「こちらは……」
「俺はしがないホームレスの重内道雄ってモンです」
長谷川に紹介されるようにホームレスーー重内道雄は一歩前へ進み出るとゆっくりと頭を下げた。
見ず知らずのホームレスが自分に一体何の用だというのだろうかと夕子が思いを巡らせていると、それに答えるように道雄が真剣な眼差しで彼女に話しかけた。
「亀谷さん。ちょいとお時間いいでしょうか? 先日のチョコラビ男の一件で少しお話ししたいことがあります」
ーーーー北緑台・路上
「チョコラビ様どこにいるんだろう? 早く会えないかなぁ」
どこかもの寂しい住宅街の一画を、夢乃は一人ふらふらと歩いていた。
目的は言わずもがな、恋い焦がれるチョコラビ男と愛の再会を果たすためである。
先日のチョコラビ男からと思われる掲示板への投稿の内容から、ハロウィンの十月三十一日に彼が再び現れる可能性が高いとインターネット上では噂されていた。夢乃もSNSでその情報を掴んでいたので、こうしてあの日チョコラビ男に出会った住宅街を当てもなくさまよい歩いていたのだ。
もちろん友人たちには強く止められた。先日夢乃が襲われたという野球帽の不審者はまだ捕まっていないし、何よりその日にはある不穏な出来事の情報も飛び交っていたからだ。
それは、T市内にある犬猿の仲の高校、東W高校と西M高校の不良たちがハロウィンの日に大きな喧嘩をするというものだ。二校の不良学生たちはここ数日の間、SNSなどで激しい罵り合いを繰り広げており、いつ爆発してもおかしくない状況だった。そんな彼らが十月三十一日に決着を着けるという話になったらしく、噂を聞いたT市の住民たちはせっかくのハロウィンだというのにお祭りを心から楽しむこともできず、不良たちの乱闘騒ぎに巻き込まれるのを警戒せずにはいられないのだった。友人たちはそういった事情から彼女が何かのトラブルに巻き込まれるのではないかと心配していた。
しかし当の夢乃はというと
「大丈夫、何かあってもチョコラビ様が守ってくれるから! っていうかむしろピンチになった方が駆けつけてくれるかも!?」
と都合の良い妄想を広げるだけなのであった。
一人では危ないからせめて一緒に行こうかと提案したが、「一人じゃないとチョコラビ様が助けにきてくれる場面にならない」という理由で夢乃に却下された。
そんな調子なのでもはや満足するまで好きにしたらいいと友人たちも半ば呆れ、諦めざるを得なかった。不良学生たちの喧嘩の噂もあって警官たちが市内をパトロールしているという話も聞いていたので、万一何かあったときにはすぐに助けを呼べるようにと大音量の防犯ブザーを持たせ、夢乃を送り出した。
「はぁ……ぜんっぜん見つからない。ホントに今日会えるのかな……」
しかし、待てど暮らせど夢乃はチョコラビ男の影すら拝めずにいた。
日が傾き始めた頃から歩き始めたものだから、もうこのあたりを何往復もしてしまっている。あえておしゃれをしてヒールを履いてきたことを後悔しはじめていた。薄暗い住宅街を一人、行く宛ても終わりもなくただ歩き続けるというのはなかなかに精神的苦痛を伴うもので、さすがの夢乃も一歩歩く度に気分が滅入ってくる。
「ダメダメ、弱気になったら運気も逃げていくって言うしね。何事もポジティブじゃないと!」
そう言ってぴしゃりと自分の頬を叩くと、努めて明るく楽しい話題を考えるようにした。どうせ誰も聞いていないのであえて言葉に出して自分を奮い立たせようとする。
「本当に会えちゃったらどうしようかな〜、やっぱりお顔を見たいってのはあるよね〜、それからフリーかどうか確認して……って、その前にあのときのお礼を……」
と、そこで思考と言葉が途切れた。夢乃の歩く先、細い道の真ん中に人影が立っていることに気づいたからだ。
「あ……!」
すぐにチョコラビ男を想って人影に駆け寄った夢乃だったが、近づくに連れてその人物が自分の想い人ではないとわかり、歩幅がどんどん小さくなっていく。そして一歩一歩が重くなり最後にはぴたりと立ち止まってしまった。
目の前に立つその人物が、会いたくもあり会いたくない男ーーあの日夢乃が襲われた野球帽をかぶった不審者だとわかってしまったからだ。
「お姉さん、また会ったね。俺に会いにきてくれたの?」
ぶつぶつと低い気味の悪い声とともに野球帽の男が卑しい笑みを投げかける。
「ひ……」
先日の恐怖が鮮明に思い出されて反射的に後ずさる夢乃。
だが、今日はあの日とは違い少しは平静を保っていた。今の彼女にはチョコラビ男という精神的な支柱があったからだ。
(だ、大丈夫、大丈夫。チョコラビ様が助けてくれるんだから)
そう心の中で呪文のように何度も唱えると、大きく息を吸って震える声で叫んだ。
「チョコラビ様〜! 助けてください〜! 私はここですーー!」
しんと静まった住宅街に夢乃の高い声が響き……夜の闇に吸い込まれて消える。
肌寒い風が無神経に夢乃の頬を撫でた。
遠くで犬の遠吠えがかすかに聞こえる。
「……もう、いい? じゃあ今度こそ俺と遊ぼっか」
野球帽の男は身じろぎもせずにこちらを見つめていた。
「え……っと、チョコラビ様? チョコラビ様ー!?」
慌てて何度も声を上げるが、助けが現れる気配は一向にない。
じりじりとにじり寄ってくる野球帽の男を見て、さすがの夢乃も全身から恐怖の汗が吹き出した。
男に背を向けて、転びそうになりながら一心不乱に駆け出すと、泣きそうな声で叫んだ。
「きゃあああ! 誰か助けてええええ!」
ーーーー某マンション・四○一号室
夢乃が野球帽の男と不本意な邂逅を果たしている頃、沙奈恵は自室のマンションに居た。
努めて普段通りに過ごそうとしているが、不安と心労が胸中を埋め尽くしており全く落ち着かない。少しでもリラックスできるようにとお気に入りのハーブティーを淹れたが、一口飲んだきりですっかり冷めてしまっている。
「……はぁ、どうしてこんなことになっちゃったんだろ」
沙奈恵の役割は彼女のストーカーであると思われるチョコラビ男を誘き寄せるための囮だった。
行動原理が読めないチョコラビ男だが、ストーカー行為には鈴村沙奈恵という明確な目的があったからだ。チョコラビ男と沙奈恵との関係は不明だったが、チョコラビ男が彼女を狙っているのならばいつかその姿を現すだろうと尊作たちは推測した。
チョコラビ男のフリをしたひばりのネット掲示板への投稿により、十月三十一日のハロウィンにチョコラビ男の出現を誘導する。そして沙奈恵がSNSで自身の行動を発信することで、チョコラビ男を誘き寄せ、彼を引っ捕らえるというのがチョコラビ男捕縛作戦の概要だった。
しかし、この計画にはある致命的な問題があることを沙奈恵以外は知らない。
「結局、ストーカーの話は嘘だって言い出せなかったなぁ……」
吐き出すようにそう呟くと、沙奈恵は重く沈んだ気持ちがそのまま自身にのしかかってくるようにがくりとうな垂れた。
「うぅ、まさかこんなことになっちゃうなんて……軽はずみで変な嘘なんて吐くんじゃなかった……」
チョコラビ男捕縛作戦の最大の問題。
それは沙奈恵がチョコラビ男からストーカー被害に遭っているというのが彼女の創作だということだった。
前々から華奈と親しくなりたいと考えていた沙奈恵だったが、距離を縮めるきっかけを探していた。
華奈が同じマンションに住んでいると知った沙奈恵は、自分がストーカーに狙われているかもしれないので守ってほしいと依頼をすることにしたのだった。華奈にとっても大きな負担となるわけでもないから嫌とは言わないだろうし、何より本当にストーカーがいるわけでもないので安全な計画だった。加えて言えば、夜道で不審者に襲われかけたのは事実だったので、一人で行動するのが不安だったというのもある。
その際、巷で話題となっているチョコラビ男の存在を作り話の中に脚色のために取り入れたのであった。
軽い気持ちでチョコラビ男をストーカーに見立てた沙奈恵だったが、まさかこんなことに発展してしまうなんて思うはずもなかった。今では強い反省と後悔の感情が津波の様に押し寄せている。
「ま、まぁ、当然チョコラビ男が本当に出るわけもないし、何もなかったならそれでこの話はおしまいか」
鉄塊のように重たい自責の念に押し潰されそうになりながらも、どうにか平静を保とうとする沙奈恵。自分の行いを肯定し鼓舞せずにはやっていられない。
ふと窓の外へと視線を向ける。
しかし、チョコラビ男が出たと自分で語った電柱の下には子猫一匹いない。
「……そりゃそうだよね、いるわけないか」
ほっと息をつくと同時にがっかりもする。本当にチョコラビ男が出てきてくれてもいいのにと少しだけ思ってしまう。
そして、この後どうしようかと考えた。
沙奈恵と華奈はチョコラビ男の捕縛作戦で動いているが、尊作とひばり、そして道雄たちは別行動をしている。
チョコラビ男がこちらに出ることはないと考えると、早々に見切りをつけて自分たちも尊作たちの手伝いをした方がいいのではないだろうか。しかし、そのためには待てど暮らせどチョコラビ男は自分のところには現れないと証明する必要がある。とすれば、自分が嘘の証言をしたと告白しなければならないが、このタイミングでその話をしてどうなるというのだろうか。そもそもなぜそんな嘘を吐いたのかと聞かれたらなんと答えれば良いのだろうか。下手をすれば華奈に軽蔑されることも十分あり得る。
「……ダメだ、なんか頭もお腹も痛くなってきた」
過度にストレスのかかる状況に置かれているからか、沙奈恵の心身が悲鳴を上げていた。仕事で取引先の重役と打ち合わせするときの方がよほどマシに思える。
「はぁ……とりあえず素直に謝ってみようかな。そこから先はどうなるかわからないけど……」
そんなことを言いながら陰鬱なため息をつき、もう一度窓の外へと目を遣る。
その瞬間、沙奈恵の背筋が凍った。
呼吸も心臓も、沙奈恵を取り巻く全ての時間が止まってしまったかのような感覚に陥る。
マンションの前の路地、その電柱の下……そこにチョコラビのお面をかぶった男が立っているのが見えたからだ。
「え……? 嘘……でしょ……?」
ドクンと心臓が音を立てて跳ねると同時に、全身の血の気がさっと引いていくのがわかる。
鼓動が早くなり、頭は真っ白になる。身体が自分のものではないかのように動かない。
一瞬見間違いだとも思ったが、こちらをまっすぐ見つめてくるチョコラビ男は間違いなく現実のもののようだ。
「え、あ……」
震える唇からは言葉がうまく出てこない。
恐怖を感じながらも沙奈恵の視線はチョコラビ男へと吸い込まれてしまい、目が離せない。
切れかけの街灯が明滅する度に、チョコラビ男は暗闇の中に浮かんでは消える。その異様で不確かな存在感は幽霊を見ているような恐ろしさを感じさせた。
間抜けなチョコラビの顔はコミカルであるが故におぞましく感じられる。沙奈恵にはその姿が昔映画で見たピエロ姿の殺人鬼を想起させた。
立っていることすらままならず、その場にぺたりと崩れ落ちた。震えながらスマートホンを握り、必死の思いで華奈へと連絡をとった。
「も、もしもし、千森さん!? あ、あ……で、出た、本当に出たの!! チョコラビ男が!!」