手繰り寄せる赤い糸
【手繰り寄せる赤い糸】
ーーーー某私立大学・T市キャンパス
「はぁ……今どこで何してるんだろ、わたしの王子様」
初田夢乃はどこか遠くを眺めて儚いため息を漏らす。
「おーい、ユメノン帰ってきて〜」
同じゼミの先輩である葉山はそんな夢乃に呆れている。
チョコラビ男に助けられてからというもの、夢乃はあの手この手で彼の情報を探したが、未だに手がかり一つ手に入らずにいた。あの日以来、夢乃は心ここにあらずでチョコラビ男のことばかり考えている。失恋のことなどその日のうちに忘れてしまった。
「あれからずっと探してるけど全然見つからないんですよね……」
「そりゃこんな大騒ぎになってたら名乗るに名乗れないでしょ」
「でもきっとまた会えるって信じてます、だってわたしたちは運命の赤い糸でつながっているから!!」
夢乃の少女じみた思い込みの激しさに、葉山は次第に頭が痛くなってくる。危ないところを助けられた相手を好きになってしまうというのは彼女にも理解できるが、それがウサギのお面をかぶった正体不明の人物というのはどうにも理解できなかった。一般的な価値観からすれば、野球帽の男だけでなくチョコラビ男も十分『不審者』に該当すると思ってしまう。
「だいたいお面のせいで顔も見えなかったんでしょ? 好みのタイプじゃなかったらどうすんの?」
「いや、あれはきっと王子様系の美青年に違いない。お面越しでもわたしにはわかります」
「もしブサイクなオッサンだったら?」
「うーん、そのときはパス」
「運命の赤い糸どこいったし」
「運命は自分で決めるものですから」
「運命都合良すぎない?」
夢乃があまりに勝手なことを言うので、葉山は付き合ってられないの言わんばかりにがくりと肩を落とした。今の彼女には何を言っても無駄なようだと諦める。チョコラビ男が名乗り出るか捕まるかして素顔が晒されるまでは、夢乃が甘い夢から覚めることはなさそうだ。
そこでドアが鈍い音を立てて開き、亀谷ゼミの主人ーー亀谷夕子が入って来た。
彼女を視認するなり夢乃は思わず小声で「げ」と漏らす。今日は夕子が来ないと思っていたからゼミ室を使っていたので、彼女の気分は絶叫アトラクションのように急降下する。
「あら、土曜日なのに勉強熱心ですね」
「先生の課題が全然終わらないから葉山センパイに教えてもらってるんですー。亀谷先生が生徒想いすぎてわたし泣いちゃいますー」
夢乃は抑揚のない声で不満を言う。
「そうですか。喜んで貰えて私も嬉しいので来週の課題はもう少し増やそうかしら」
まともに取り合うこともせずに夕子はそれに皮肉で返す。
大喧嘩したこともあって夢乃の様子を少し気にしていた夕子だったが、翌週それまで以上に元気になって帰ってきたので彼女の心配は杞憂であった。あの日以来、お互いがお互いを嫌いだと認識したのか、顔を合わせるとすぐに小競り合いを起こすので亀谷ゼミの面々は戦々恐々であった。
「先生は何しに来たんですか?」
二人の会話に無理矢理割って入って葉山が夕子に尋ねた。
「私は大学の近くに出掛ける用があったので資料を取りに少し寄っただけです。すぐ帰りますよ、良かったですね」
「ほんと良かったですー」
「ちょっとユメノン」
葉山は夢乃を小声で咎めて肘で軽く小突く。休日にわざわざ夢乃の課題に付き合っているというのに、面倒事に巻き込まれるのはごめんだった。
夕子は自分の席にあった資料を使い古した鞄にさっさと詰め、そのままゼミ室を去ろうとした。
だが、ぴたりとドアの前で立ち止まると二人に声をかけた。
「あなたたちも帰り道には気を付けるんですよ。特にウサギのお面の男にはね」
その言葉に反応して夢乃は夕子を睨みつける。
「ちょっと先生、わたしの王子様のこと悪く言うのやめてもらえますか?」
「何が王子様ですか、あのふざけた男はただのひったくり犯です」
誰かの計略か偶然のいたずらか、この二人はどちらもチョコラビ男の目撃者なのであった。
その話は亀谷ゼミどころかキャンパス中で噂になっており、次にチョコラビ男に会うのは亀谷ゼミの誰かなのではないかと囁かれていた。
チョコラビ男を正義の味方だと讃える夢乃とは正反対に、夕子はひったくり犯の悪人であると罵っている。それぞれの境遇を考えれば主張が食い違うのはもっともだが、犬猿の仲の二人は相手を否定せずにはいられない。
「あの人はそんなことしません! だいたいその鞄返ってきたんだし良かったじゃないですか」
そう言って夢乃は夕子の持つ鞄を指差した。
夢乃の言う通り、実に不可解なことに夕子が先日チョコラビ男にひったくられた鞄は被害にあった数日後、彼女の家の玄関の前にぽつんと置かれていた。鞄を発見した夕子が中を確認すると、中身はそのままで何も失われておらず、財布の中身でさえ盗まれる前のままだった。
夕子にとってこの鞄に特別な思い入れがあるわけではなかったが、財布の中身が無事だったのは幸運だった。現金やキャッシュレスの心配ではなく、亡き夫と二人で撮った写真が入っていたからだ。財布の中に写真を見つけた時は安堵のあまり思わず目が潤んだほどであった。
「被害がなかったんだし実質無罪じゃないですか」
「そういう問題ではありません。私がひったくりに遭ったのは間違いなく事実であり、ひったくりは紛れもない犯罪です。被害届も取り下げません」
「チョコラビ様にもきっと何か事情があったんですよ」
「どんな?」
「え? えっと……大切な仲間のために仕方なくとか、家族のためにお金が必要だったとか……き、きっとやむを得ない事情があってですね……」
チョコラビ男を擁護するつもりで夕子に食ってかかった夢乃だったが、いざ指摘されると自分の言っていることが無茶苦茶なので言葉に詰まる。しどろもどろになりながら適当な事を口にするしかない。
「それは素敵な話ね、大岡越前なら涙を滲ませて無罪にするかもしれないわ。けれど現代日本ではただの窃盗罪です。残念ですね」
「と、とにかく誰だって理由もなく悪いことなんかしません!」
感情論からつい大声を上げる夢乃とは対照的に、夕子は淡々と諭すように話を続ける。
「あなたはむやみに他人を信じ過ぎです。所詮この世で最後まで信じることができるのは自分だけです、他人のために何かしたところで自分が損をするだけよ」
夕子の言葉は亡き夫の報われない最期を認めたくないからこその言葉でもあった。優しさや助け合いは彼の美徳とするところだったが、その美徳のせいで夕子は夫を失ってしまった。『正しさ』というものに人一倍敏感な夕子にとって、その美学はもはや否定の対象となってしまっていたのである。
「そうやって先生は人のこと信用しなさすぎです。少しは信じてみてもいいじゃないですか」
「そもそもただのひったくり犯を擁護する理由が私には全くありません。……けど、そうね、もしあなたの言うようにあのウサギ男が誰かのためになんて理由で悪事をはたらいていたのだとしたら、私も少しは他人を信じてみましょう。そんなことになればの話ですがね」
夕子は夢乃の言葉をありえない話だと鼻で笑う。夕子にしてみればチョコラビ男はただのひったくり犯であり、悪人以外の何者でもないので当然といえば当然だ。そして自身の正しさを確信しているからこそ、実に嫌味な煽り文句を付け加えた。
「ただし、もしそうじゃなければ……あなたは今年の進級は諦めることね」
「はぁ!? なんですかそれぇ!?」
「おや、どうしたんですか? ウサギの王子サマが”信じられない”んですか?」
「ぐぐ……い、いいですよ、そこまで言うならわたしだって……!」
そこでパンパン、と手を叩く大きな音がして二人ははっとする。音の先には呆れた顔の葉山が二人を交互に見比べていた。口論がヒートアップし上気する二人とは対照的に、葉山の視線は冷め切っていた。その冷たさが胸に突き刺さり、夢乃と夕子は次第に平静を取り戻していく。
「はいはい、二人ともそこまで。ユメノン、そろそろ課題やらないと私帰っちゃうよ」
夢乃はしぶしぶ引き下がると、最後に夕子を一睨みして黙ってパソコンと向かい合った。
「先生もそのへんにしといてください。『進級できない』なんて、冗談でもこの子は真に受けちゃうんですから。……先生、最近ちょっと意地悪ですよね」
「最近? 私はずっとこうですが」
「そんなことありませんよ。私の知ってる亀谷先生はとっても厳しいけどたまに優しい素敵な先生です。少なくとも、二年くらい前までは」
「……そうですか」
葉山は夕子の夫が亡くなった顛末を知っている数少ない学生だった。その彼女が言う「二年くらい前」という言葉にどんな意味が込められているのか、夕子には十分に伝わっていた。だからこそ、彼女はそれ以上何も言うことはせずにその場を去っていった。
「まったく……下らない口論聞かされる私の身にもなってよね」
夕子が去った後、しばしの間を置いて葉山がため息を吐きながら言う。
「ごめんなさい、人のこと全否定するようなとこ許せなくって、つい」
彼女なりに反省しているらしく、夢乃は申し訳なさそうに葉山に頭を下げる。
しかし、しおらしい態度はその一瞬だけで、ぱっと上げた顔には何やら強い意思が溢れている。
「でも、おかげで決めました」
「……何を?」
嫌な予感をひしひしと感じながら葉山は夢乃に尋ねる。
「わたしがチョコラビ様の無実を証明します! 王子様が見つからないなら、わたしから会いに行けばいいんです! それが今わたしのやるべきことです!」
「ユメノン……」
目をきらきらと輝かせてそう宣言する夢乃を見て、葉山は無表情で言う。
「あなたの今やるべきことは課題だよ」