第7話
高一の葵と小五の葵に連続して振られた僕はさすがに参ってしまい、ベンチで放心状態になっていた。日没を迎えてだんだんと夜に浸食されつつある空を見つめながら、ずるりと背もたれに体を滑らせる。西の空はまだは赤く燃え上がるかのような色をしていたが、東から天頂に至るまでの空はもう星が瞬き始めていた。
「はあ」
「翔ちゃん」
後悔、焦燥、悲観、そんな感情の詰まった大きなため息を吐いたとき、僕を呼ぶ声がした。僕はびっくりして飛び上がりそうになりながら、うつろになっていた焦点を正面に合わせる。
「深愛……」
そこにはまだ太陽の残り香で赤く染まった西空を背景に、ランドセルを背負った深愛が立っていた。……もしかして、さっきの告白を見られていたのだろうか。
「見てたのか……?」
「……? なんのこと?」
僕の問いかけにきょとんとした顔をする深愛。よかった、深愛には見られていなかったようだ。もし深愛に見られていたら未来がどのように変わるかわからない。……というか、単純にすごく恥ずかしい。
「隣、座るね」
深愛はこちらに歩み寄り、ベンチに座る僕の横に腰掛けた。ついさっきまで葵が座っていたポジションに。
「こうやって二人でお話しするの、久しぶりだね」
「そうだったっけな」
深愛が告白を見ていなかったことがわかったので少し安心した僕は、深愛の言葉に対し深く考えずに返答する。正直頭の中は葵でいっぱいだった。
「最近の翔ちゃん、ずっと栗原さんと一緒にいたでしょ? なかなかあたしから話しかけるタイミングもなくて。そうだ、夏休みはあたしと一緒に遊ぼうよ」
「ああ……そうだね」
深愛はそんな風に話しかけてきたけれど、今の僕は深愛とちゃんと会話できる精神状態じゃなかった。深愛の言葉に適当に相槌を打ちながら、僕はなぜ葵に振られたのかを考えていた。
「最近あたしね、ひまわりを育ててるんだ。去年育てたの褒めてくれたでしょ?」
「そっか……」
告白さえできれば万事うまくいく、なんて都合のいいことを考えていたわけじゃない。でもあんな風に拒絶されるとは思っていなかった。それくらい僕は葵にとってはどうでもいい存在だったんだろうか。
「翔ちゃんさ……あたしと付き合わない?」
「うん……」
もっと過去に遡れば葵との関係を良好に出来るのだろうか。未来に戻ったらケレスに聞いてみてもいいかも……あれ?
「え?」
話の流れで深愛の言葉に頷いてしまったけれど今、深愛はなんて言った? ツキアワナイ? 一体どういう意味だろうか、その音が示す単語をひとつだけ知っているけれど、まさかそんなわけはない。深愛に今話したことをもう一度言ってもらうように頼もうとした。
「ほんと⁉ 翔ちゃん、あたしと付き合ってくれるの!」
けれど僕の返事に飛び上がるかのように喜んだ深愛に気圧されて、僕は思わず閉口せざるを得なかった。深愛は僕の両手を取って自分の胸に引き寄せる。そこには深愛が未来で持っていたような大きめの脂肪の塊は存在しなかったけれど、深愛の手の柔らかさとその体温に僕の心臓はどきりと跳ねた。
「これから、恋人らしいこといっぱいしようね。デートしたり、手をつないだり、いつかはキス、なんかも……」
顔を上気させた深愛はウキウキという擬音が聞こえてくるかのようにはしゃぎながら、いつもより遥かに多弁になっていた。こんな深愛は長い付き合いでも見たことがない。
どういうことだろう。深愛は、僕のことが好きだったのか? でも僕は深愛に告白されたことなんかない。
どちらにしろ深愛の告白への答えはあくまで相槌を打っていただけだ。それに葵に振られた直後に深愛の告白を受けるというのはいくらなんでも不誠実なんじゃないだろうか。そう思った僕は深愛には悪いがちゃんと断ろうと思って口を開こうとした。
でも、僕の喉奥から出た音は意図した言葉ではなく――
「うっ……」
――といううめき声だった。
目の前がぐるぐると回りだし、姿勢を保てなくなった僕は隣に座っている深愛の肩に寄りかかる。
「どうしたの、翔ちゃん?」
心配そうに僕に呼びかける深愛の声が聞こえるも、僕は意識を保つのに精いっぱいだった。似たような事象はついさっき味わったばかりだ。ケレスから渡されたりんごを食べた、あの時と全く同じ感覚。自分が回っているのか、世界が回っているのか前後不覚になるあの感じ。
未来で意識を失う直前に聞いた『長くは向こうにいられないから気をつけて』というケレスの言葉を思い出す。確かに注意事項は知らされていた。でも、だからってこんなタイミングで引き戻すことはないだろ……!
「深愛……僕は……」
ちゃんと告白を断らないと。頭の中が朦朧とする中で、僕は必死で声を絞り出す。けれど肝心の言葉は出てこない。
「翔ちゃん、眠いならあたしの膝貸してあげるから。ゆっくり休んで」
深愛はそう言って僕の頭を膝に乗せる。頬に感じる柔らかな太ももは、必死で保っていた僕の意識をあっという間に刈り取ってしまった。
「おやすみなさい」
穏やかな深愛の声を聞きながら、僕の意識は、黄昏時の薄暗い空に飲み込まれていった。
僕は、真っ白な病室に立っていた。部屋の中には大きめのベッドが一つと僕の座る椅子が一つあるだけで、明らかに病室に本来あるべき諸々のものが欠けていた。
ふと目の前のベッドに目を落とすと、そこには年を重ねて多くのしわが刻まれた老年の男性がいた。
「おじいちゃん……」
その男性は、僕の祖父だった。そしてそれを理解した僕は、これが夢だということに気付く。
なぜなら、祖父は七年前に亡くなっているのだから。
「……」
目の前の祖父は、目を閉じたまま穏やかな寝息を立てていた。
僕の祖父は穏やかな人だった。それなりに成功者でもあって、僕がおねだりした野球グローブやゲームを買ってくれたりもした。
もちろん苦労なく成功したわけではなく、苦学生であったり社内政治に巻き込まれたりと大変だったこともたくさんあったそうだ。
でも少なくとも僕の前では立派なおじいちゃんで、尊敬すべき人の一人だ。
祖父の口癖は「辛いことや悲しいことがあっても、頑張ればきっと報われるから胸を張って生きるんだよ」というものだった。今思えば随分と青臭い言葉だとは思うけれど、祖父が優しげな表情で僕の頭を撫でながら語りかけるこの言葉が、僕は好きだった。
そんな祖父がガンに蝕まれ、病院のベッドで弱っている姿は幼い僕にとって恐怖を感じさせるものだった。人工呼吸器など様々な管を繋げられ、もはや死なないために生かされてるとでも表現すべき祖父の姿を見た僕の気管は、キュッとその径を狭めた。
今目の前にいる祖父にはそういうものはくっついてなかったけれど、それでも記憶にある弱弱しい姿と同じではあった。
「……ぁ……」
目の前の祖父の口から、音が漏れる。
「死にたくないな……まだやりたいことがいくつも残ってる……何も、満足に成し遂げてない……」
「……っ!」
これは、夢だ。しかしその言葉は紛うことなく実際に祖父が死の間際に口にした本当の言葉だった。
あの時、その言葉を聞いた僕は生きることがとても恐ろしくなった。
祖父がそんな言葉を残してしまう未練。死という断絶は、自分の人生を最後の最後に否定してしまうほどの絶望だっていうのか。
祖父の言葉が死の間際ゆえに出た妄言なのか、死の間際ゆえに出た本音なのか、骨壷の中に還ってしまった祖父から聞き出す術はもうないけれど、僕はそれが後者だと思った。
恐ろしい。恐ろしい。恐ろしい。
一度、この恐怖に耐えられなくなって深愛に祖父の最期を話したことがある。その時の鬼気迫る僕の様子を見た深愛は泣いてしまい、僕は二度とこの話を他人にすることはなくなった。
その代わり僕はあの時から、死の床で祖父のような未練を残さないように人生を賭けて成し遂げる「夢」を探し始めた。
祖父のことは今でも尊敬しているし、あの最後の姿だけで幻滅したわけじゃもちろんない。
でも、祖父のあの最期の姿を自分に当てはめた時、ただ漫然と生きる事が恐ろしくなったのだ。
だからそのすぐ後に同じ考え方を持つ葵と出会ったことは奇跡だと思ったし、彼女と一緒にいれば目標に近づくと思った。
自分の人生に、後悔を残さない。そのために邪念なく一心不乱に身を捧げられる「何か」を見つけ、その道を突き進む。
もし、それが見つけられなかった時は――
そこまで回顧していたら、病室の景色がさっきより霞んでいることに気付いた。おそらく、現実の僕の覚醒が近いのだろう。
これは所詮夢だし、しかも意識のない祖父がいるだけの夢だったけれど、それでもこのまま夢から覚めることには一抹の寂しさを感じる。だから一言、言葉が漏れた。
「おやすみ、おじいちゃん」
そう言った瞬間、僕の意識は白い病室の中から消失した。