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第2話

 その日は小学五年生の一学期最終日にして、彼女――栗原葵がこの小学校に登校する最後の日だった。きっと葵がこの街にいる間に会えるのは今日が最後だろう、ということを幼い僕も認識していた。

 終業式が終わり学校を出た後、僕たちはよく二人で作戦会議をしていた公園にやって来ていた。屋根の赤い東屋の下にあるベンチに二人で並んで座り、他愛無い雑談をしながら僕は決心を固めていた。


 告白しよう、と。


「じゃ、そろそろ帰りましょうか」

 帰宅を促すチャイムが街に鳴り響くと、葵は長い黒髪をたなびかせながらベンチから立ち上がった。ここだ、と思った僕は葵を呼び止める。

「あ、あのさ」

「……なによ」

 僕は一メートル先に立っている葵に向かって口を開こうとした。告白するために。

 なのに、言いたい言葉が口から出てこない。『好きだ』というたった三文字が、これほどまでに重いのか。

 僕の頭の中にぐるぐると余計な思考が満ちていく。

 強く、たくましく、美しい彼女に、自分は釣り合っているのか。僕は葵に引っ付いていただけで、彼女に並び立てるような人間じゃないのではないのだろうか。「夢」を見つけた葵に対して、それをまだ持たない自分が彼女と付き合えるのか。

 転校するといっても二度と会えなくなるわけじゃない。葵からは転校先の住所も教えてもらったからいくらでも手紙のやり取りはできるし、それで会う約束を取り付けてもいい。その時にまた改めて告白をすればいいじゃないか。

 告白をしない言い訳はいくらでも用意出来て、告白をすることへの躊躇いはいくらでも湧き出てきた。そして、そんな材料を目の前に並べた上で告白を決行できるほど、僕の心は強くなかった。

「なんでも、ないよ。またね、葵」

 葵は見るからにうろたえている僕のことをじっと見つめ、軽くため息を吐いた。そして口を開いた葵の口から出たのは別れの言葉ではなかった。

「私はこれから全力で私の夢に向かって進んでいく」

「……?」

 葵の唐突な宣言に僕は困惑するけれど、次の言葉で葵の意図が分かった。

「翔也も、次に会うときまでには夢くらいは見つけときなさいよ」

 そう言って葵は力強い視線を僕に叩きつけた。要するにこれはエールだ。私は頑張るからお前も頑張れという、葵らしい応援の言葉。それを受け止めた僕は、力いっぱい頷いた。

「……うん!」

「よろしい。じゃあ、またね」

「うん、またね葵」

 これが、この街で葵と交わした最後の会話だった。

 葵と別れた後、僕は自分の家のベッドの中で『大丈夫、きっとまたいいタイミングが来る。その時こそちゃんと告白しよう』と、僕は自分にそう言い聞かせていた。

 けれど葵へ送った一通目の手紙は、宛先間違いを理由に手元に返ってきて。それ以降葵からも手紙が届くことはなく、僕は彼女と繋がる手段を失ってしまったんだ。

 それ以来、僕は人助けと称して夢に向かう誰かの手伝いをしているけれど、いまだに自分自身の夢を見つけることすらできず今に至る。




「えー、というわけで二次関数においてaが0以上の時は下に凸、0以下の時は上に凸と呼ぶ。ここまでいいかー」

 オガセンの大きな声で僕は現実に引き戻された。慌てて黒板の上に設置されている時計を見たけれど、意識が過去の彼方に飛んでいった時間はおおよそ二十分くらいらしかった。

 こっそりと教室を見渡したが昼休み明けの授業ということもあって、僕以外の生徒たちもクラス中が眠気に襲われていてまともに授業を聞いている生徒はほとんどいない。その様子を見たオガセンはうーんと唸りながら口を開いた。

「じゃ、眠気も飛ばしに小テストやるか」

 オガセンはそう言いながら手元の紙の束をひらひらとこちらに向けて見せつけてきた。

「おいおい二週連続小テストかよ」「オガセンきらーい」

「おめーらの気が抜けてるのが悪いんだろ、わかったらさっさと机の上片付ける」

 なし崩し的に始まった小テストのせいで葵のことは頭から吹っ飛んでしまった。数学の奔流に飲まれながら他のことを考えられるほど、僕の脳のリソースは十分じゃなかったから。

 六限目終わりのチャイムが鳴ると同時に小テストが終了し、オガセンが答案用紙を回収しながら大声で呼びかけてきた。

「あー、終礼で配るプリント類持ってくるの忘れてたわ。量も多いんで職員室から運ぶの、誰か手伝ってくれんか」

「……じゃあ僕が」

 一瞬逡巡したが、僕は右手を挙げた。こういう雑用はよく引き受けていたので、体が勝手に動いたようなものだ。

「おっ、いつも悪いなあ鉄。じゃあ頼むわ」

「はい」

「おまえホント変わり者だよなあ」

 直道が呆れ半分に僕を眺めてそう言った。周りの連中の視線も似たようなものだ。

 高校入学当初は僕の「人助け」のことを先生の点数稼ぎだと思われて、「優等生ムーブ」に対する陰口なんかも言われていたけれど、いろいろな部活の手伝いもしていたらそういうことも無くなった。まあ代わりに聖人みたいな扱いされ始めたけれど。というか変人扱いか。

「……好きでやってるからいいんだよ」

「それが変わってるって言ってるちゅーのに」

「はいはい」

 直道の絡みを引き剥がして席を立ち、小テストをまとめたオガセンと共に教室を離れる。

 オガセンは僕の肩を軽くポポーンと叩く。……マッサージのつもりなんだろうけど、痛い。この馬鹿力が。

「俺もいつも鉄に甘えちまってるからあんま言えないんだけどよ、嫌なら断っていいんだぞ?」

「別に嫌じゃないですよ。先生とサシで話せる機会もこういう時じゃないとないですし」

 これは、本音だ。オガセンは厳しいが同時に面白い先生で、こうして話している時間は割と楽しかった。

「そんなことより先生、質問いいですか?」

「ん? いいぞ、今日の小テストの問題についてか?」

「いやそれはどうでもよくて。……ぶっちゃけ、小テストってなんで作ってるんですか?」

「え? そりゃあお前らの学力向上のためだよ」

 オガセンがきょとんとして答える。模範教師らしい答えだ。でも。

「……真面目に取り組んでる奴、ほとんどいないでしょ。直道の点数見ましたけど終わってましたよ」

 難易度が結構高めなこともあるがそれを差し引いても平均点はかなり低い。京駒高校はそれなりの進学校だが、高校入試を終えたばかりの高一のほとんどはやっぱり勉強へのモチベを保てないし、それは僕も例外じゃない。

直道のテストはその事情を差し引いても酷かったけど。……いや、マジで酷かった。

「わざわざ手間暇かけてあんなの作るより適当な問題集解かせてる方が良くないですか?」

「問題集を解くのと、小テストを受けるってのは、心理的なプレッシャーがだいぶ違う。それにいつか小テストが来るとわかってれば、どんな奴でも多少は勉強する。それが一夜漬けですらない五分漬けでも力にはなるのさ。特に高校受験が終わって気が抜けている高校一年生にはな」

 オガセンの言葉には長年の経験に基づいている重みを感じた。実際、確かに僕たちの力にはなっているのだろう。でも、僕の聞きたいことはそんなことじゃない。

「それでも、睡眠時間削ってまでやることとは思えないですよ」

「……何の話だ?」

「目の隈、酷いですよ」

 オガセンの目元は、明らかに前夜徹夜したかのような真っ黒い隈がくっきりと残っていた。

「……鉄って案外目敏いのな」

 はあ、とオガセンが嘆息する。

「いや、これは単に小テスト作ってたからってわけじゃねーのよ。一回作った小テストのデータが吹っ飛んじまってさ、作り直したせいなんだ。鉄も大学生になったらパソコンでレポート作る機会増えるだろうけど、バックアップはこまめに取っとけよ?」

 バックアップ取りすぎてどれが正規ファイルかわかんなくなったら本末転倒だからちゃんとわかるようにバージョン管理しとけよ、とオガセンはおどけながら階段を下る。僕はオガセンに追従しつつ、さらに疑問をぶつける。

「それこそ、わからないですよ。データ消えたなら小テストを先送りにすればよかったじゃないですか。なんでわざわざ徹夜してまで」

「それが、教師だからだよ」

 オガセンの目つきが真剣になり、僕は思わず息を呑む。

「俺の徹夜ひとつで一クラス四十人の学力がちょっとでも向上するなら安いもんだ。俺は自分の仕事にそれだけの価値を見出してるし、その価値を守るためならなんだってする」

 オガセンの言葉ひとつひとつは力強く、決して今僕を丸め込めばいいというだけの言葉には聞こえなかった。つまりオガセンにとって。

「……小川先生にとって、それくらい教師って仕事は好きなんですか」

「好きじゃなきゃしてねーわ、こんなドブラックなもん」

 そう言ってオガセンはガハハ、と体格に見合った笑い方をした。

「……」

 気づいたら、既に職員室の前に辿り着いていた。終礼前だからか、まだ辺りはしんとしている。

「鉄の疑問への答えに、なったか?」

「……はい、ありがとうございます」

「じゃ、プリント類取ってくるからちょっと待ってろ」

 ガラガラと職員室のドアを開き、オガセンがいろいろな書類が乱雑に置かれている机に向かうのを眺めながら思う。

 ああ、羨ましい。

 どんなに辛くても、後悔しないで打ち込めるものがある人はなんてカッコいいんだろうか。

 そして同時に思う。それが見つからないまま死ぬ人間に、価値はあるのだろうか。

 流石にそんなことをオガセンに聞く勇気は、僕にはなかったけれど。




「翔ちゃん、お疲れ様」

 教室に戻りいそいそとノートや教科書をカバンに詰めていると、どこか安心感を覚える声が耳に入ってきた。顔を上げるまでもなく、その人物が誰かわかる。

「ああ。深愛もお疲れ」

 手を止めて声がした方を向くと、そこには想像通りの幼馴染が柔らかな笑みを湛えながら立っていた。

「いつも頑張ってて偉いね、翔ちゃんは」

「……別に、自分のためだから」

 深愛とは長い付き合いだ。僕の人助けが「夢」を見つけるための手段でしかないことも、五年前に僕が葵と一緒に走り回っていたことも、深愛は良く知っている。

 さすがに、いまだに葵のことを引きずっていることは言っていないけれど。

「それより、翔ちゃんはそろそろやめない? 僕たちもう高校生だぞ」

 クラスメイト達の前でそう呼ばれるのはさすがにちょっと気恥ずかしい。でも呼んでる当人は全くそんなこともないようで不満げだ。

「えー、小三の頃からずっとこの呼び方だしなあ」

「とは言っても僕も深愛もいろいろ変わってるだろ。小学生の頃とは違う」

「……翔ちゃんも中学の頃みたいに自分のこと『我』って言わなくなったし、しょうがないかあ」

「おい馬鹿その話を持ち出すな」

 黒歴史を通り越して暗黒に片足を突っ込んでいるような僕の中学時代を掘り返すんじゃない。深愛は過去に悶えている僕を見てにやにやしている。

「しっくりくる呼び方が見つかったら変えるね、『ジャスティスヒーロー』さん」

「その知性を欠片も感じられないような二つ名で僕のことを呼ぶのはやめろ、マジで」

「自分で考えたんじゃん……」

 だから嫌なんだよ! と大声で叫ぶのはクラスメイト達の手前さすがにはばかられたので、会話の矛先を逸らすことにする。

「そういえばまたテスト満点だったみたいじゃん、どうなってんの?」

「あー、あれ? 運がいいだけだよ。前日に勉強したところが出てさ」

 深愛は謙遜した風にそう答えたが、高校一年生の一学期で深愛ほど勉強している人間が日本にどれくらいいるだろうか。そう考えると「人助け」に時間を割くために見栄えの悪い成績を取らない程度に手を抜いてる自分が妙に恥ずかしくなり、この話題を続けることに居心地が悪くなってもう一度話題を転換する。

「深愛は今日も園芸部の活動?」

「うん、この間は草むしり手伝ってくれてありがとね」

 深愛は園芸部で活動しているが、他の部員はほとんど幽霊部員らしい。だから草むしりとかの力仕事が必要になったときは僕に頼むことが多い。……僕じゃなくても深愛に頼まれたら誰でも手伝いそうだけど。

「今日は何するの?」

「最近日差しが強くなってきたから、直射日光対策のために遮光ネットで覆うんだ」

「へえ、花って日光当てればいいわけじゃないんだ」

「そうだよ、お花って繊細なんだから」

 それこそ花のような笑顔を浮かべながら、園芸部のことを楽しげに話す深愛。

「自分ちの花の世話もしてるのに学校でも園芸なんて、大変じゃないか?」

 深愛の家は結構な豪邸で、特に色とりどりの花に包まれた庭が近所でもちょっと有名なくらいだ。僕も何度か行ったことがあるが、正直圧倒された。

「あはは。まあ大変と言えば大変だけど、お花が好きだから楽しいよ。この間顧問の先生にお花の扱いが丁寧って褒められたし」

「そっか」

 心の底から花が好きなことが深愛から伝わってくる。何かに打ち込んでいる人を見るのは好きだ。……同時に、羨ましくもあるけれど。

「ふわぁ」

「……寝不足なの?」

「あー、うん。まあ学校と家のお花の世話をした後に勉強してるからちょっとだけね」

 楽しいとは言いながらも少し疲れたようにあくびする様子の深愛を見て、なんとなく前々から気になっていたことを聞いてみる。

「なんで、そんなに勉強頑張るんだよ」

 この学校に入学している以上僕もそれなりには勉強してきたけれど、中学時代から深愛の勉強量はちょっと異常だ。場所を近所に限定しなければ、より高いレベルの難関校にも入学できたんじゃないかと思う。

「……なんでだろうね。あたしにも、もうわかんないや」

「わかんないって……」

 そんなモチベーションで続けられるような努力じゃないと思うが。

「そんなことよりさ、翔ちゃんって今週の日曜、空いてる?」

 勉強の話を振られることに飽き飽きしているのか、深愛は話を逸らしてきた。まあ、聞かれたくないのに無理やり問いただすほど気になってはいないから別にいいんだけど。

「日曜……? 特にないけどなんかあるの?」

 今日が金曜だから明後日か。学校は休みだし、特に何か行事があるってわけでもないけれど……。

「ほんと! えっとね……」

 深愛らしくもなく前のめりに体を近づけてきたことに驚いた僕は、思わず体を後ろに逸らす。

 期待と不安が入り混じったような表情で深愛が口を開こうとした瞬間、何かを思い出したかのように深愛はハッとしたような表情になる。直後、少し俯いた深愛から放たれた言葉にはさっきまでの勢いはどこかにもなかった。

「……やっぱりなんでもないや、先生来たし戻るね」

「う、うん」

教卓の方に目をやるとオガセンが黙って腕組みをしたまま教室を見渡していて、その威圧感に気付いた生徒たちが順番に静かになっていた。

 深愛はソロソロと反対側の自席に戻っていく。昔から変わらないちょっと猫背な後ろ姿を見ながら、ふと思う。

実は、僕は深愛のことをほとんど知らないのかもしれない。

「まあでも、幼馴染なんて案外そんなものか」

 十数年住んできたこの街もひとつ裏路地に入れば知らない道がたくさんあるように、そばにいて当たり前の幼馴染に知らないことがたくさんあったって不思議じゃないよな、とぼんやり思った。


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