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エピローグ

 長い、長い微睡みの中、あたしの意識は水面に浮上していく水泡のようにゆっくりと明確になっていく。そしてその泡が水面に到達した瞬間、あたしの両まぶたが開いた。

「ここは……」

 あたしはベッドから体を起こして辺りを見回す。でも全く見覚えのない部屋だ。ベッドもダブルベッドであたしが使うわけもないものだった。

 その時、ガチャリと寝室の扉が開く。

 扉を開いた男性は、布にくるまれた何かを両手で抱えていた。その人は初めて見るようで、それでいてどこか見覚えのある、そんな不思議さを携えた人だった。少し怯えたあたしを見たその男性は優しい目をして口を開く。

「今日、だったよね」

「なにが、ですか?」

 思わず敬語になってしまう。それに、「今日」とは何のことだろう。

「君が、過去から戻ってくる日」

「……!」

 その男性の言葉を聞いたあたしは、彼が誰なのかがわかった。そして、今のこの瞬間が泡沫の夢であることも理解する。

 おそらく、この夢はすぐに弾けてしまうだろう。それならば、あたしが聞くべきことはひとつだけだ。

「翔ちゃん。今、あなたは幸せ?」

 あたしの問いに、目の前の男性――三十五歳の鉄翔也は柔らかな笑みとともにこう答えた。

「僕もこの世界の深愛も、君のおかげで今とても幸せだよ」

 そう答える翔ちゃんの背後、扉の隙間から見えるリビングにベビーベッドが垣間見えた。

 そうか。つまり今彼が抱える毛布の中には――

「……あたしは、やり遂げたんだね」

「うん。他の誰が憶えてなくても、僕だけはちゃんと憶えてる」

「それなら、安心した……」

 あたしの心からの安堵の言葉が漏れた瞬間、急速にあたしの意識がこの世界から遠のき始めた。時間切れだ。

 死を迎えただけじゃなく時間の流れからも追放された者がどこに向こうのか、さすがのあたしでも答えは出せなかったけれど、そんなに悪い場所じゃないんじゃないかって思えた。


 ふらり、と何かが抜け落ちたかのように深愛の体が脱力する。僕は慌ててベッドに駆け寄り、左手で彼女を受け止めた。もちろん、右手で抱えているものは離さずに、だ。

「大丈夫、深愛?」

「翔ちゃん……?」

 虚ろな目をしていた深愛の目に再び光が灯る。よかった、後遺症のようなものはないみたいだ。もちろん彼女の理論に間違いがあるなんて、欠片も思ってなかったけれど。

 意識を取り戻した深愛はとても悲しげな表情で、僕の胸に顔をうずめてきた。

「なんでか、とても悲しいの。翔ちゃ……翔也さんが死んじゃった夢を見た気分」

 深愛の右ほほを一筋の涙が伝う。

「泣かないでいい……泣かないでいいんだ……」

 涙にぬれる深愛のことを、ギュッと抱きしめてそう囁く。僕たちのために命を投げ出した彼女は、僕らが悲しむことを望まないだろうから。

 けれど――

「でも……翔也さんも、泣いてるよ……?」

 深愛の言葉に、僕はハッと自分の頬を撫でる。そこには、冷たい液体の感触があった。

「翔也さん。泣きたいときは、泣いていいんだよ」

 深愛の言葉が僕の凝り固まった心に突き刺さる。泣きたいときには泣いていい。幸せにならなければという強迫観念で、そんな当たり前のことすら忘れるところだった。

 きっとここで涙を流さないと、僕は後悔する。だからごめん深愛、今日だけは、今日だけは君を想って泣くことを許してほしい。明日からは、また幸せな二人に戻るから。

 僕は嗚咽を堪えながら、言葉を紡ぐ。

「なあ、深愛」

「どうしたの、翔也くん」

「後悔のないように、精いっぱい生きような」

 普通に考えれば、唐突で、支離滅裂な決意表明。けれどきっと深愛に意図は伝わったはずで。

「……うん」

 僕を見つめてそう答えた深愛を、我が子と一緒に強く両手で抱きしめる。

 開かれた窓辺の花瓶に生けられた紫苑の花が、庭からの風に吹かれて揺られていた。


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