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牙と微笑み ~満ちゆく月~


 夜の闇の中、大粒の雨が降り注いでいる。それはまるで銀の弾丸のように。




 私と彼は手に手を取りあって、建物の陰に駆け込んで崩れ落ちるように身を屈めた。どこかで靴が脱げてしまったのだろう。私の古いネグリジェから覗くむき出しの足は、荒れた地面を踏んで傷だらけだ。でもそんなことは今、どうでも良かった。


「ねぇ、しっかりして、目を開けて!」

 私より少し年上に見える少年の姿。彼の端正な顔立ち、まるで蝋で作られた人形のように白いその顔に、濡れそぼった黒髪が貼り付いている。座り込んで以来、両のまぶたはぐったりと閉じられ、その下の金色の瞳を覆い隠し続ける。半開きになった薄い唇の間から覗くは、鋭い二本の牙。未だ一度も人を傷つけたことなどない、無垢な牙だった。



 激しく打ちつける雨の音に紛れて、どこかから男たちの声が聞こえてくる。私の住んでいた小さな小さな部屋に前触れなく押し入って銃口を突きつけた、官憲の制服姿の男たち。

「クソ、どこへ行った……?」

「バケモノはともかく、あんな女のガキに手間取るなんて懲罰ものだぞ!」

「何としても見つけろ。探せ、探せ!」



 体が震える。それは打ちつける雨が人間の私の体温を容赦なく奪っていくからか、それとも。


(このままでは、二人とも死んでしまう……)

 そう悟った私は、自分の舌を思いきり噛んだ。

 じわり。そしてその後はとめどなく。むせるような鉄の臭いとぬるりとしたしょっぱさが、口の中いっぱいに広がって溢れ出す。

 色を失った唇に紅を差して、私は彼にキスをした。


 触れた先、凍えたような唇は動かない。押し当てた自分の唇だけが、やけに熱く感じられた。その間も、血はどんどんと零れて、雨に紛れ地に落ちて。

(お願い、どうか……)

 祈るように彼の頭に両手を回し、真っ白い牙の間に真っ赤に染まった舌を滑り込ませた。


 そのまま何も動かずに、心臓の鼓動だけが、一つ、二つ――


 ふいに、私は自分の舌がそっと包み込まれるのを感じた。その先で彼の喉が上下する。私はバッと目を見開いた。そこには、こちらを見つめる金色の瞳が輝いていた。


「ああ……」

 私は彼から唇を離し、血がフリルの胸元に滴り落ちるのを気にも留めず、言葉を、思いを紡いだ。

「良かった……。どちらも死んでしまうよりも、どちらかが死ぬ方がまだ良いのだわ。そして、どちらかが死ぬのであれば、あなたよりも私の方がずっと良い。だから……。あなたは、生きて」

 私は彼の頭を抱きしめていた両腕をほどき、顎を上に向けて首筋をさらした。そして目をつむる。

 私の両肩がグッと掴まれた。私はそっと微笑んで、その時(・・・)を待つ。


「……いや、死なせない」


 触れた唇。じわりと広がる血の味。白い牙の間から差し込まれる赤い舌。私たちはどちらからともなく、互いの背中に腕を回した。触れ合う温度はやがて同じになり、口の中は甘美に満たされる。


 彼は私から唇を離し、涙がとめどなく頬を流れつたうのを気にも留めず、言葉を、思いを紡いだ。

「僕に初めて血をくれた君。僕が初めて血を分けた君。僕は、永遠に君を守ろう」

「嬉しい……。これでもう、独りぼっちじゃないのね。私も、あなたも……」

 そう微笑む私の口元には、彼とお揃いの白い牙が、まるで永遠(とわ)を表す宝石のように光っていた。もう足の痛みも、震えるような寒さもない。



「いたぞ、あそこだ!」

「バケモノめ! それをかくまった奴も同罪だ!」

「捕らえろ! 殺せ、殺せ!」

 官憲の男らが大きな足音を立てて私たちのいる方に駆け寄り、一斉に銃口を突きつける。それはまるで、私の部屋に押し入ってきた時のようで……。


 固まる私をふわり、すくい上げるように抱きかかえて、彼は大きく跳躍した。

 銀の弾丸が放たれる隙もなく、彼の足は軽やかにアン、ドゥ、トロワ。突きつけられた銃口を次々と渡って前へ前へ。そうして最後、バッと夜の闇の中にその身を躍らせる。




 大粒の雨はいつの間にか降り止んで、金色の月が空に輝いていた。私は彼の腕の中、空を振り仰ぐ。そこに浮かぶ弧を描いた月の形はどこか、鋭い牙と微笑みを浮かべる口元、その両方に似ているように見えた。






――この街ではそれ以来、吸血鬼の噂を聞くことはなくなった。その代わり、金色の三日月の出る夜には、仲睦まじい恋人たちの笑い合う声がどこかから聞こえてくるという――


2023年5月23日「キスの日」で書きました。

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