三日月は見下ろす ~欠けゆく月~
「助けて……」
そう女が目にいっぱい涙を溜めて言うもんだから、俺はとっさに「乗れ!」と車の助手席のドアを開けて叫んだ。
今思えば。こんな戦火の中をドレスを着た女が一人で彷徨っているだなんておかしい。そう、気づくべきだったのに。
「ありがとう」
ふわり、車内に広がる花の香り。
――これは確か、ユリの――
微笑みを浮かべて、女は俺の首に両手を回した。その身体が甘やかに倒れ込んでくる。波打つ銀の髪は、硝煙の晴れ間から覗き見える細い細い三日月の光を浴びて、濡れたように艶めいていた。
頭が、ぼうっとする。
――ああ、これは何かの夢だろうか――
その瞬間。
ヂクッ、と、俺の首もとに痛みが走った。
吸血鬼。女の正体に気がついた時には、もう遅い。
「おい……、待て……!」
俺の肩に顔を(もっと言えば牙を!)埋める女の頭に向かって俺は言った。女はピクリとも反応しない。
貫かれた傷口の痛みと、血の吸われる鈍い感覚だけが続いていた。
――このままじゃ、マズい……!――
「死」の文字がチラリと脳をよぎる。それを振り払うがごとく、女の頭を掴んで引き剥がそうとする。しかし女はその華奢な体に似つかわしくないほどの怪力で俺にしがみつき続けた。あるいは、もはや力が入らないまでに俺は血を吸われてしまっているのか。
意識が遠退く。
――ダメだ。ここで意識を飛ばしてしまっては、もう二度と俺は目を覚ますことはないだろう――
そうは思うが、もう女の頭にかけた手はちっとも動きやしない。
「おい……、やめ、ろ。おい……っ」
外からフロントガラスを覗いて見れば、まるで情事のように見えるだろう。男の上に馬乗りになって肩に顔を埋める女……。
「ぅう……」
思わず喉からうめき声が漏れる。ふざけるな! 誰か、誰か助けてくれ……!
自分の体が熱を失って冷えていくのが分かる。あるいは、死者のように冷たくなっていくのが……。
「誰、か、……たす……け……」
死だ。死だ。死だ。恐怖が渦を巻く。その渦中で、掠れた声で懇願するようにつぶやく。それしか、今の俺にできることはなかった。