そうして、筑波珠奈は顔を上げた
──これはまだ私達が一年生の頃の話だ。
私は一年生の後半の方からあまり学校に行かなくなっていた。
いわゆる不登校と言うやつだ。
別にいじめられてたとか、そういうんじゃない。
ただ、ちょっと家の環境が……ね。
「……ただいま」
まだ完全な不登校になる前、私が家に帰ると、お母さんが疲れたような笑顔を向けてくる。
「お帰りなさい」
「……うん」
リビングを抜けて、自分の部屋に繋がる階段へ向かう。
このルートで階段へ向かうと、お酒を飲んで不機嫌な父親の横を通らなきゃならない。
「おい、俺に挨拶は無しか?」
「……た、ただいま」
「ふん」
私は全身を震わせながら父親の横を通りすぎた。
そして階段を軋ませないように、ゆっくりと上がる。
「……はぁ……」
うちの父親はよく手を上げる人だった。
感情のコントロールが下手で、お母さんの体に痣が出来ている事が多々あった。当然、私にも。
息の詰まるような家庭環境に、私は限界を迎えていた。
それでも学校に行ってたのは、最近よく話すようになった男の子が居たからだ。
名前は高知要君。
ちょっと口が悪いけど、優しくて明るい普通の男の子。
席が隣で、彼と話している時だけが、私の唯一心休まる時間だ。
「ふふ」
高知君の事を思い出すだけで頬が綻んでしまうくらい。
本当にとりとめのない話ばかりしてるのに、今までの私からしたらそれが新鮮で、凄く心地好かったんだ。
──だけど、それも長くは続かなかった。
「田中、なんか今日元気なくねーか?」
「こ、高知君……?」
3学期が始まってすぐの頃、高知君が私を呼び止めた。
その日の授業が終わり、帰ろうとした所をね。
高知君は私の顔色を窺うように、下から覗き込んで来る。
「髪長いから分かりづらいけど苦しそうじゃん」
この頃の私は腰の辺りまで髪を伸ばし、前髪でほとんど目元を隠していた。
根暗な女の子代表って、そんな感じ。
「だ、大丈夫だよ?」
「うーむ……」
何故か怪しむように首を捻る高知君。
本当に人の微妙な変化に聡い人だ。
今までもそんな風に気に掛けてくれる事があったし。
事実、高知君の読みは当たっていた。
それでも事情を話す訳にもいかず、私は誤魔化すように笑った。
「高知君、ありがとね。でも本当に心配要らないから」
「そっか……」
私の返事に高知君は渋々といった感じで引き下がった。
「あんま無理すんなよ。田中、細くてちっこいんだから、倒れっちまうぞ」
「うん、ちっこいは余計かな?」
「ひぃっ、すんません……!」
何故だろう、笑顔で答えたのに高知君が震えてる。
ふふ、おかしな高知君。おかげで少し元気が出たよ。
「ま、まぁ何かあったらいつでも言えよ?相談くらい乗るからさ」
「……うん。ありがとう」
……言えない、言える訳ないよ。
今朝、父親が私に手を出そうとした、なんて。
強く拒んだせいで殴られて、体中痣だらけだなんてさ。
言った所で高知君にはどうにも出来ないし、して貰う気もない。……そのはずだった。
「それじゃあね……」
私が教室を出ようと、カバンを持った時だ。
自分はつくづく弱い人間だと実感する。
全身が硬直して言うはずの無かった言葉が突いて出た。
「もし……もしも私が高知君に相談したとして、高知君はそれを解決してくれる……?」
高知君は私の言葉に何一つ迷う事なく答えた。
「当たり前だろ。何言ってんだ」
私の背にそう声を掛けてくれただけで泣きそうになってしまう。
駄目……何を言ってるの私、止めて、高知君を巻き込まないで。
そう思っているのに体は自然と高知君の方へと振り向──
「カナメ、早く帰るわよ」
私達の間を割るように一人のクラスメイトが現れた。
「マナ、お前いい加減生徒会に顔出してやったら?」
「カナメと帰る時間の方が有意義だもの。何?何か文句でもあるのかしら?」
「い、いや……」
現れたのは高知君の幼馴染み、新京真那芽さん。
直接話した事は無いけれど、間近で見るとやはり恐ろしく綺麗な人だと感心してしまう。
そしてそんな彼女と話す高知君はどこか嬉しそうで、頬を若干赤くしている。
高知君はきっと彼女の事が好きなんだろうって、最近気付き出した。
「カナメ、最近彼女とえらく仲が良いのね」
「あ、あぁ田中って良いやつだからさ」
「へぇ……」
一瞬、彼女が向ける視線が酷く冷たくなった。
まるでこれ以上高知君に近付くなと、そう言わんばかりに。
だけど、彼女が次に口を開いた時、そこには美しい笑顔が貼り付いていた。
「田中さん、カナメに何か嫌な事されたら言ってね。すぐ私が矯正するから」
「おい、俺がそんな変な事する奴に見えるか」
「見えるわよ。カナメってば変よ?どうしたの?」
「ねぇ田中俺ってそんなに変わってる?普通だよね?」
「普通?カナメが?クスクス変な子」
「お前に聞いてねぇの!!」
まるで夫婦漫才でもするかのような二人に、私は蚊帳の外になっていた。
……これはたぶん牽制だ。彼女から、私への。
「……高知君は普通だよ。大丈夫」
「ほら見ろ。お前が変なんだよ、マナ」
「ふふ、そう。他人からはそう見えるのね」
「そう、だね……」
この人は関わっちゃいけないタイプだと、そう直感が告げてる。
でも、新京さんの心配は無用のものだ。
どうせもう私は学校には来ない。
もう、私は自分の部屋から出ない。
そうすれば父親と会わなくてすむ。
今日学校に来たのは、最後に高知君と話したかったから。
「……高知君、ありがとね。それじゃ」
「あ、あぁ……」
腑に落ちない、そんな顔をする高知君に手を振って教室を出た。
そう……これで良いんだ。
※
高知君とお別れをしてから3週間が経過した。
私はあれから学校には行かず自室に引きこもり、ただ過ぎる日々を息を殺して生きていた。
今日はお母さんはおらず、家には父親だけがリビングで横になっていた。
「……」
「……」
お手洗いの為にリビングを往復する。
恐らく、今日1日私がこれ以上部屋から出る事はない。
私と父親はお互いに目を合わす事はなく、息をするのも忘れて自分の部屋へ向かった。
足早に階段を駆け上がり、部屋のドアを開ける。
「……はぁっ……!」
話した訳でもないのに、全身の震えが止まらなかった。
私は急いで部屋のドアに鍵を掛け、窓をカーテンで隠し、本棚を引きずって簡易的なバリケードを作った。
それだけで心が少し落ち着いた。
……本当はこんな事したって無駄だって分かってる。
今みたいに、どうしても父親とすれ違う瞬間がある。
だけどそのタイミングを自分でコントロール出来るようになる。それだけで幾分マシではあった。
私はドクンドクンと弾む胸を抑え、ベッドに飛び込んだ。
その時──
『コツンッ』
部屋の窓から何やら軽い音が響く。
恐怖に全身を支配されていた私は、カーテンで隠された窓の外を見に行く事が出来ず、ただ数秒置きに響く高音にじっと耐えていた。
すると、外にいる何かは痺れを切らしたのか、あろうことか窓に手を掛けた。
「っ……!」
私は思わず両手で口を塞ぎ、息を殺した。
窓際とベッドの距離はほんの僅か。
こんな事をしても無駄だけど、体が勝手に反応してしまっていた。
お父さんなの……!?
そう身構えた時、窓が開きカーテンが靡いた。
「おーい田中、返事くらいしてくれよ」
「……高知……君……?」
「よっ」
にこやかに笑い、私に手を向けているのは高知君だった。
ちなみに、この部屋は2階だよ?
「なに……やってるの……?」
「え、そうだなぁ……ちょっとしたストーカー?」
「えー110っと」
「さらっと110番するの止めてくれる?」
高知君は「入って良いか?」と言った後、私の返事を待つ事なく部屋に侵って来た。
「靴は窓の淵に置いとくな」
「う、うん……」
不思議なほど自然に私の部屋に居る高知君は、私の顔をじっと見つめると、しばらくの間押し黙った。
「な、なに……?」
高知君は私の全身を見回した後、目の前に座る。
「田中、ごめんな──」
「えっ」
唐突に、高知君は私を押し倒す。
倒れ込んだ私の上に跨り、高知君は私の両腕を押さえつけた。
服はわずかに乱れ、痣の残った皮膚が露出する。
高知君の視線は私の肌へと向かっていて、すぐに彼は顔を上げた。
そして、前髪の隙間から高知君と目が合ってしまう。
──その時の彼の表情は恐ろしく冷たかった。
「高知……君……!?」
「悪い」
短くそう言った高知君はすぐに私から離れ、真剣な表情で私を見つめた。
「俺はお前の事を大して知らない」
「う、うん……」
急に少し傷付く事を言われてしまった。
だけどそれが悪い意味でない事は高知君の表情からすぐに解った。
「だから、俺の事を信用しろって言っても難しいのは理解してる」
「……?」
「なぁ田中」
高知君は少しだけ表情を柔らかくして言った。
「お前が今抱えてる問題、俺に任せてくれないか?」
「え……?」
「お前が学校に来ない間、少し探らせて貰ったよ。俺には優秀な助手がいるからな」
誰の事を言っているのかは、聞かなくても分かった。
「勝手な事をして悪いとは思ってる。だけど、俺はお前とまた学校で話して、一緒に2年生になりたいよ」
「なんで……そこまでして私を……?」
純粋な疑問を言葉にした。
高知君と私との接点なんてほんの少しで、私を助ける理由なんて存在しない。
「そうする事が普通だから」
「どういう事……?」
「困ってる奴とか傷付いてる奴を放ってはおけないだろ?それが普通だって俺は信じてるだけさ」
「普通……」
言っている事はあまりよく理解出来なかった。
高知君の普通が私には解らない。
それでも、高知君が私を助けようとしてくれている、その事実だけは何も変わらない。それが凄く嬉しかった。
「それに助けてくれって言ったのは田中だろ」
「助けてとは……!」
「同じ事だよ。あんな事言われて見捨てられる訳ねーじゃん」
「でも……」
高知君はただの高校1年生。
一体どうやって私を助けるつもりなのか……。
「もう準備は済んでるんだ」
「準備……?」
「あぁ。ただ……」
高知君は少しだけ俯いて、申し訳なさそうに言った。
「……俺に出来るのはいつだって……いや──」
「?」
「……このやり方は最悪過ぎるな……」
「な、何をするつもり……?」
「……」
高知君はしばらくの間押し黙った。
きっと、彼の中でも決心がついてないのだろう。
本当に何をするつもりなの……?
私が不安で少し寒気がしだした時、高知君は意を決したように言った。
「田中、俺はお前の家庭をぶち壊すつもりでここに来た」
「壊……す……?」
「お前の父親はまず捕まるだろうし、母親だって俺は許すつもりはない。今日だってこんな状況の娘を家に置いて自分は逃げ出しているんだ。……この解釈も俺の超主観的な見方だけどな」
「……」
「全部上手い事やるなんて、俺には出来ない。だから、俺はお前だけを助けるよ。手始めにお前の父親には──」
高知君は立ち上がり、優しそうだった表情の一切を消して、私が作っていた簡易バリケードに手を掛ける。
「──入院生活を楽しんでもらおうか」
絶句してしまった。
私一人の為にどうしそこまで出来るのか。
そんな事をして高知君もタダで済む訳がない。
バリケードを外し、ドアノブに触れた所で、私は思わず高知君の体を後ろから抱き締めていた。
「ま、待って……!!」
「田中?」
「高知君が自分を顧みず私を助けようとしてくれているって、それだけでもう私は十分嬉しいから……!お願いだから高知君が学校から居なくなっちゃうような事はしないで……!」
高知君がどんな表情をしているかは分からない。
だから私は必死に言葉を紡いだ。
「わ、私は大丈夫だから……!助けては欲しいけど……そんな無茶をしてまでの助けは要らない!迷惑を掛けたくないの……!」
「……田中は優しいな。でも、ごめんお前に何と言われようとも俺はお前を助けるよ」
「な……んで……」
「あいつが、そうするのが一番効率が良いって言ってくれたから。あいつの言う事は信じたいんだよ」
あいつ……さっきのも含めて、それが彼女の事を指しているのは間違いないと思う。
高知君はそこまであの人の事を──
「ただそうだな……このやり方じゃ田中自身にも迷惑が掛かっちまう。少しだけやり方を変えるよ」
そう言って高知君はドアを開けた。
──その後の事は、実はぼんやりとしか覚えていない。
覚えてるのは、高知君が鬼の形相で父親を殴り付けていた事と、その日の内に両親が離婚した事。
高知君は文字通り私の家庭環境を壊した。
私はお母さんとこの家に残る事になり名字が変わったし、父親は捕まる事は無かったけど、二度と私達に近付かないとだけ残して消えた。
高知君が私の両親に何を言ったのか、私は何も知らない。聞いても教えてはくれなかった。
そうして、あまりにも唐突に私の地獄は終わりを迎え、平穏な日々を手に入れた。
自分は何もしていないのに。
結局私は3学期のほとんどを学校に通う事なく2年生になってしまった。
心が追い付かなかったの。2年生になるまでをどんな感情で高知君と過ごせば良いのか、さっぱり分からなかった。もう合わせる顔もない。
それでも伝えたい言葉があった。
だけどそれは今の私じゃ駄目だ。
内気で、誰かに助けて貰わないといけないような自分じゃ、高知君の前に姿を見せてもまたいずれ迷惑を掛ける。
もう俯いて過ごすのは終わりにしよう。
そして高知君に貰った優しさを、他の人にも繋いでいこう。
そうすればいつか伝えられる気がした。
それまではこの心には蓋をするんだ。
いつか、この想いを伝える為に。
いつか……そう心に決めた日から半年が経った。
あれから高知君は少し変わった。
だけど変わらない所もあった。
いつまで経ってもこの人は自分を顧みない。
だからもうどんな手段を取っても、高知君が無茶をするのを止めさせる。
例え、自分の恋心を利用してでも。
だから、高知君──
『高知君、私はあなたが好きです。私をあなたの彼女にして下さい』
──もう、私は迷わない。
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大変お待たせしましたm(_ _)m
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