87話 海を支配する者
風系魔法の力でバーボンの近くまで寄ってきたクレアがバーボンの腕を掴み、シバルヴァから距離を取ろうとする。しかし、やはり水中における機動力は相手の方が上手と言わざるを得ない。マーマンとも比べ物にならない速度で一気にクレアとバーボンとの距離を詰めると、右腕が突然肥大化する。
「ぼちぼち本気を出して行こう。実を言うと、私は魔法より肉弾戦の方が――好みなんだ」
その右腕は青い鱗に覆われ、見るからに強靭であり、魚類と言うよりも竜のそれを思わせる。『波濤の海魔竜』の異名を嫌でも連想させる見た目だ。水中だと言うのにその右腕を振るう速度は速く、逃がさないとばかりに鋭利な爪が襲いかかる。
竜の爪がクレアに当たる寸前、バーボンは身体を旋回させて自分とクレアの位置を変え、我が身をクレアの盾とした。爪はバーボンの背中を切り裂き、水中が夥しい血で滲む。
「ふむ。避けきれないと見て仲間を守ったか。その判断は戦略的に正しいよ。その魔法使いが君たちの生命線だろうからね」
シバルヴァの言う通りだ。クレアがやられたら風系魔法が解除され、水中で呼吸することも出来なくなってしまう。そうなればもう戦いどころではない。とはいえクレアを守った代償も大きい。バーボンの傷は深そうだ。すぐに治癒魔法を使わなければ死ぬ可能性だってある。
「バーボンさんっ、今行きます!」
「そうはさせない。こっちに寄って来るな、僧侶女……『水泡爆雷』」
シバルヴァが左手をフィオナに向けると大量の爆発する水泡がフィオナに襲いかかる。フィオナは氷柱を生み出して連続発射し、水泡を相殺していく。だがこのままではバーボンの傷を治すことができない。俺も動けないままだ。
「……『無限領域』の力、解放します。『波濤の海魔竜』よ、凍てつく氷の波動を味わうことです!!」
それしかない。あの『黒炎の不死鳥』ヘルヘイムをも圧倒したフィオナの氷系魔法ならば、シバルヴァにだって通用するはずだ。フィオナから激しい魔力が放出されると、氷の波動が発生し水中を駆け巡る。『無限領域』の力は凄まじく、フィオナを起点として水温が一気に下がっていくのが分かる。
こ、これは別の意味で不味いんじゃないか。このままだと水が全部氷になる。この十層の水全てが氷に置き換わってしまったらどうなるんだ。俺たちすらも身動きが取れない。いや動けないどころか普通に凍死するだろう。
時間で言えば、数十秒程度の出来事。ありがたいことに俺の予想は外れていた。十層を満たしていた水は水温こそ下がりはしたが、凍結には至らず、シバルヴァの周囲の水だけが完全に凍りつき、奴は身動きが取れなくなっていた。そこまで緻密な制御が出来るとは。『無限領域』の力を未だまともに制御できない俺からすれば、驚嘆に値する技術だ。
「……シバルヴァを抑えられるのは少しだけです。今のうちにバーボンさんの傷を治します」
「フィオナに助けられちゃったわね。バーボンも。守ってくれてありがとう」
「気にするな、仲間同士だ。助け合いの精神で行こうじゃねぇか……いてて!」
シバルヴァは身動きが取れていないだけみたいだからな。俺にかかっている『水陣壊放』の効果はまだ持続している。その間にフィオナはバーボンの治癒を終え、なんとか体勢を整えることができたみたいだ。その時、凍りついたシバルヴァが笑った気がした。
凍結し氷像と化していたシバルヴァが再び動き出す。氷は砕け散り、竜の爪と化した右腕を回しながら、愉快そうな様子で左腕をも肥大化させ竜の爪へと変えていく。やる気十分といったところか。対してクレアたちはと言えば、バーボンとクレアが背中合わせになり、ロープで身体を縛りつけている。一体何をするつもりだ。
「これで攻防一体になったわ、フィオナは氷系魔法で援護をお願い! あいつの動きが止まればこっちのものだからね!」
「はいっ! お任せください!」
「行くわよっ! 作戦パート2、バーボン砲弾・改っ!!」
クレアが両手を前に突き出して風系魔法を放つと、バーボンが砲弾さながらの勢いで前進し、シバルヴァに突っ込んでいく。だがこのままでは最初にバーボン砲弾を使った時と同じく避けられてしまう。実際、シバルヴァは難なく横に回避した。
「右へ逃げたぞ! 方向転換頼む!」
「任せて、面舵いっぱい!」
クレアがすかさず新たに風系魔法を放ち、シバルヴァの逃げた方向へとバーボン砲弾が軌道を変えた。そういうことか。今度のバーボン砲弾は背中にクレアがくっついていることで敵を追尾することができる。なんというか、冗談みたいな作戦だが、案外有効かもしれない。
「本当に愉快な連中だね……ならこのまま切り裂いてあげよう!」
「おいおい、いいのかい。水中とはいえ、接近戦が俺の本職なんだぜ?」
風の力で加速したバーボンはその速度を戦斧に乗せて、シバルヴァへと斬りかかる。シバルヴァもまた竜の爪を振るい迎撃する。二つの力が正面から激突した。互角だ。戦斧は竜の爪とぎりぎり火花を散らすが如く拮抗している。両者、一歩も退くことはない。
しかし、今のシバルヴァは両手が竜の爪だ。片腕を防いだところで、もう一方の腕で攻撃すればいい。その時、すかさず援護に入ったのがフィオナだった。氷の波動を再び放ち、シバルヴァをみるみる凍結させ、動きを鈍らせる。
「ちっ、小癪な真似を……!」
「うおぉぉぉぉぉっ、今だぁぁぁぁぁっ!!」
零距離で戦斧を振るい、密着した状態にも関わらず戦斧は深々とシバルヴァの身体を切り裂いた。思わぬ痛手に集中力が途切れ、俺を圧殺しようと展開していた立体魔法陣が消滅する。これでようやく戦いに参加できそうだ。光の粒を漏らしながらも後退するシバルヴァを見て、俺は三人の前に立った。
「助かったよ……! いつ『八咫鏡』が割られないかヒヤヒヤしてたんだ」
「フィオナの援護が上手くいったおかげさ。クレアのアドリブの効いた作戦もな」
「えへへ……それほどでも。でもルクスさん、相手はまだ本気を出してません……! 本当の戦いは……」
「……そうだな。ここから、ってことになる」
あの竜の爪が本物ならば、今のシバルヴァはあえて人間の状態になることで力を隠している。かつて戦ったヘルヘイムも普段は人間の姿に化けて力を抑えてたりしたからな。奴もそうなんだろう。
竜は魔物の中でもトップクラスに位置している。魔王のような例外を除けば、最強と言っても過言ではないだろう。頑丈な鱗に、鋭い爪や膂力ももちろんのこと、炎などを放つ魔法の吐息まである。
「ところで……バーボン砲弾はまだやる気なのか? ロープ切っておこうか」
「水中ではこっちの方が戦いやすいから構わんよ。案外気に入ってる」
「そ、そうか……本人がそう言うなら良いんだけど……」
そんな雑談も束の間、シバルヴァは自身の傷をじっと見つめた後、にやりと笑って両手を広げた。
「素晴らしい。私をここまで追い込んだ敵など本当に久しぶりだ。オリドたちでさえ、この姿で十分だったのに。敬意を表して全力で戦おう。圧倒的な暴威に晒され、自らが矮小な存在でしかないということを理解しながら死んでいくがいい」
シバルヴァの顔がみるみる変形したかと思うと、その身体が一気に膨張していく。足は尾鰭となり、竜の爪を備えていた腕は更に巨大に、そして青い肌はより色濃い青の鱗へと変化する。圧倒的なのはその巨大さ。トロールが何体分になるんだ、この大きさは。
奴の宣告もあながちハッタリではない。その通りだ。その大きさの前には剣や戦斧なんてどこまで役に立つ。これが竜。波濤の海魔竜。シバルヴァの正体は荒ぶる海原の竜王、リヴァイアサンだったのだ。
「どうしたのかな勇者。何もできず、塵芥のような気分を味わうのは初めてか?」
シバルヴァは身動きひとつ取らず、十層の水を操った。水が激しくうねり、シバルヴァを中心に大渦が発生する。オリドも似たことをやっていたがスケールそのものが違う。その水の流れの前には生半可な風系魔法など役に立つはずもなく、俺たち全員は大渦に巻き込まれるしかないのだった。