86話 波濤の海魔竜
水位操作の魔法陣を使って水位を下げてから、俺たちは遂に十層目へと突入することになった。シバルヴァにはこの迷宮の階層ひとつを水に沈めることができるほどの魔力がある。気休めだが相手の魔力を減らす嫌がらせくらいにはなるだろう。
気を失ったシレーヌは九層で寝かせたままにしている。『転生宮』で眠る者たちを除けば、このダンジョンに巣食う魔物はほとんど倒した。裏切り者だからと狙われる心配もないはずだ。
十層はこれまでの階層と違い、迷路のように複雑な道にはなっていなかった。そもそも今までの階層がそんな構造になっていたのは、通路そのものが水質を浄化するための一種の魔法陣だからだ。十層の役割は真水になった大量の水を海へ放出すること。だから道も複雑にはなっていないようだった。
「待っていたよ。私が最後の四天王、『波濤の海魔竜』シバルヴァだ」
シバルヴァは逃げも隠れもせず、十層の中心部で堂々と待ち構えていた。人間離れした青い肌に、濃紺の髪を長く伸ばし、物憂げな目をした美しい女性の魔物だ。クレアの予想は外れていたな。その足元の地面には巨大な光り輝く鉱物のようなものが埋め込まれており、それが『転生宮』の魔力の根源であることが分かる。あれを壊せば『転生宮』は機能を停止するはずだ。
「戦う前に聞かせてくれ。なぜ『転生宮』なんてものを作った。魔物になった人はもう人間には戻れないのか」
「ふぅ……私に答えるメリットがあるのかな、それは。まぁ死ぬ前に教えておいてあげよう……九層の『転生宮』は試作品だ。何が起こるか造った私にも分からない……まぁ戯れに思いついたものだから、別にどうでもいいんだけど」
でも、とシバルヴァは言ってこう付け加えた。
「完全に魔物化した人間が元に戻ったケースは今のところ無い。勇者、君はシレーヌを助けてあげたいようだけど、無理だね。そんなに都合の良い話はないよ。そんな余談はこれぐらいにして戦おう。闘争こそが生き物の本質だろう?」
「……そうだな。役に立つ情報も無かったし、お前を倒してあの施設を停止させる。やってやるさ……!」
「ふっ。随分自信家なんだね。楽しくなってきた……! 戦いはそうでないとね……!」
シバルヴァが指を鳴らすと足元から津波のように水が発生し、俺たちに襲いかかった。まるで攻撃かと疑いたくなる激流だが、これは攻撃なんかじゃない。十層を水に沈め、自分に有利なフィールドに変えるためのものだろう。クレアが今までと同じく空気の球体で俺たちの顔を覆ってくれた。これで数十分程度、水中でも息ができる。
「そんな小細工をしていたのか。なるほど、なるほどね。オリドたちも苦戦するわけだ」
シバルヴァの両手に魔法陣が浮かぶ。あまり見たことのない形状をしているが、水系魔法なのは何となく分かる。なんと奴はその魔法陣を俺とクレアめがけて投げつけてきた。クレアは咄嗟に風魔法を手から放つことで移動し、魔法陣を避けたが、俺は水中を鈍く泳ぐことしかできず、高速で迫る魔法陣に引っかかってしまった。
「いきなり本命に当たったみたいで嬉しいよ。さぁ潰れろ」
俺に当たった魔法陣が上下に広がり、立体になっていく。立体魔法陣だと。こんな高度な魔法を扱えるのか。何らかの攻撃が来る。防御の魔法で防ぐしかなさそうだな。俺は『八咫鏡』を発動して全身をガードする。立体に展開したシバルヴァの魔法陣はさらにそれより大きくなって俺を完全に囲み、魔法が起動する。
瞬間、『八咫鏡』に亀裂が走った。全体が一斉に罅割れて今にも壊れてしまいそうだ。これは何か圧力のようなものが俺にかかっているらしい。水圧を操る魔法陣なのか。魔法陣自体を読み解けないので、感覚的な理解でしかないのだが。
「気づいたようだね。これは『水陣壊放』と言う。私の得意な魔法だ。この魔法の水圧に耐えられるなんて優れた防御魔法だな……流石はかつて魔王様をも倒した勇者だと言っておこう」
クレアのよく使う魔力障壁は一方向のみしか防げないので、これに耐えられるのは実質俺だけってことか。いや、クレアも闇系魔法を使えばその限りではないが、ともかくあの立体魔法陣に捕まったらアウトだ。それは動きの制限される水中では困難な問題だった。
しかも、この水圧を操る魔法陣はまだ消滅する気配がない。何秒持続するのか分からないが、この立体魔法陣が消えない限り俺はこの場を動けない。こういう時、どうすればいいか。オーソドックスな方法としては、発動者を攻撃して魔法の発動に使っている集中力を乱してやるのが一番簡単だ。賢者や高位の魔法使いともなれば、魔法そのものをハックして強制的に止めたり、打ち消しの魔法を使うなんて場合もある。
クレアたちも俺の状況に気づいたのか「ここは任せろ」とハンドサインを送ってきている。俺は「すまない。頼んだ」と返した。シバルヴァはクレア、フィオナ、バーボンに対して『水陣壊放』の魔法陣を連続で放つ。クレアはさっきの要領で避けられるだろうがフィオナとバーボンはどう避けるんだ。もし引っかかったとしても、俺はあともうひとつくらいなら『八咫鏡』を発動できるから、一人は守れる。でも両方は無理だ。
と思っていたらバーボンは近くにいたクレアが首根っこを掴んでどうにか助けた。標的を見失った魔法陣が霧散する。ならフィオナを守るのは俺か、と思いきや。フィオナは巨大な氷の塊を生み出してシバルヴァの魔法陣にぶつけた。すると魔法陣は立体状に展開し、氷の塊をその水圧によって粉々に砕いた。恐ろしい威力だな。しかし、俺の失敗を見た上とはいえ咄嗟にあの判断ができるとは。フィオナも確実に成長している。
「よし、フィオナが良い手を使ってくれた! あの水圧の魔法はフィオナに任せるわ、バーボン、私たちは合体攻撃よ!」
「合体攻撃って……何か嫌な予感がするんだが。おい、そんなの今まで一度も聞いたことないぞ!」
「いいから。これはリーダーの命令よ。バーボンは前を見ていればいいの。さーていっくわよ……!」
恐ろしいリーダーの強権の使い方を見た。クレアは何かの思いつきを実行する気らしい。飛んでくる魔法陣の数々はフィオナが氷の塊をぶつけて防いでいく。その間に、クレアはバーボンの背後に移動し、手を背中に置いた。
「さぁいきなさいっ! バーボン砲弾っ!!!!」
「ぬおおおぉぉぉぉぉぉぉぉっっ!!?」
あれは城とかに備えつけてある大砲をイメージした攻撃なのか。風系魔法でバーボンの身体を思い切り吹き飛ばし、人間砲弾と化してシバルヴァへと高速で迫る。なんて恐ろしい戦術なんだ。もっとも味方にとってだが。俺だったら絶対やりたくない。
それでもバーボンは一流の冒険者だ。水中をものともしない速度で吹き飛ばされても冷静に戦斧を構え、その速度を己の武器に乗せて全力でシバルヴァへと振り抜いた。だがシバルヴァとて愚鈍ではない。まるで魚のように頭上へと素早く泳ぎ、バーボンの戦斧を躱してしまう。
「まったく愉快な連中だよ。『水泡爆雷』」
バーボンの頭上を取ったシバルヴァは手をかざして、大量の水泡を放った。バーボンは直接触れるのは不味いと判断したらしく、背負っていた荷物を投げつける。荷物と水泡が接触した瞬間、派手に爆発した。距離があったから助かったものの直撃していれば即死は免れなかっただろう。
「良い判断力だな。良いよ。君たち、とても良い。少しは楽しめそうだ……!」
シバルヴァは恍惚した様子で身体を震え上がらせた。戦い好きの魔物はよく見かけるが、シバルヴァもそういうタイプらしい。しかも最後の四天王に相応しい実力を持っている。何せ俺を封殺するくらいなのだから、それは認めなければならないだろう。気になるのは奴の異名だ。『波濤の海魔竜』――とのことだが、竜のような要素は今のところ見受けられない。まだ何か、真の能力を隠しているのか。




