85話 魔物化の代償
どうやらこの迷宮を守る防衛戦力はオリドとイシュメルに依存していたらしい。下の階層へ降りても、遭遇するのは普通のマーマンばかりだ。水位をゼロにして戦えば、基本的に負けることはない相手。俺たちは順調に『転生宮』と呼ばれる施設のある九層目まで辿り着くことができた。
転生宮。シレーヌに何か知らないかと聞いてみたところ、彼女から返ってきた回答は、自分を魔物に変えた一種の魔法の施設らしい。オリドの言葉通り、確かにそんなものをこの世に残していてはいけない。破壊しなければきっと誰かが悪用するだろう。
気がかりなのはシレーヌの容態だった。彼女の体調は悪くなる一方で、七層目のあたりで人間の姿を維持できずに人魚の姿へと戻ってしまうくらいだった。意識も混濁しており、熱にうなされるように苦しんでいる。人魚の姿では歩けないので今は仕方なく俺が背負って運ぶことになった。
「ここが九層……今のところ、特にそれらしいものは見当たらないな。もっと開けた場所にあるのか?」
「地図だとこの階は中央に大穴が空いてるみたいね。そこから十層目に降りれる。あるとすればそこかしら……?」
クレアの予想が的中することになった。九階層の中心部、水が満たされた大穴に辿り着いた俺たちは、その穴の壁面におぞましいものを見た。壁の一面には人間がすっぽり収まる黄色い球体が何百個とくっついており、中では元人間と思われる、下半身が尾鰭となったマーマンの影が蠢いている。球体には血管のようなものがくっついており、時折脈打って球体に何かを送り込んでいるようだ。これがオリドの言っていた『転生宮』の正体なのか。
「ようこそ勇者御一行様。よくいらっしゃいましたね。どうです。シバルヴァが考案した『転生宮』の感想は?」
大穴の中心に薄紫色の髪を伸ばした女性の姿が現れる。魔王の側近、パーガトリアだ。感想だと。こんな悪趣味なものを見せられて不快以外の感想があるっていうのか。何が面白いのか、にやにやと笑っているのが更に腹立たしい。
「最初はシバルヴァにしては珍しいことを言うなと思いましたけどね。でも結果的に面白いアイデアでした。ほら、これってリサイクルってやつですよね。戦えない人間を魔物に変えて戦力にする。殺すより効率が良くて私は気に入ってますよ」
「そうか。お前がここにいたらすぐ斬り殺していたところだ。人間の命を弄ぶような真似はやめろ……!」
「ああ、怖い怖い。やはり元人間の魔物とは戦いにくいですか? そうでしょうとも。いくら『覚悟してる』って格好つけても後味の悪さは拭えませんよね」
いつにも増して鬱陶しい奴だ。遠くから俺たちを監視してるだけの癖に。
「ですがシバルヴァの『転生宮』……残念ですけど失敗作なんですよねぇ。完全に魔物化すると、人間だった頃の記憶や知識、能力まで消えてしまうみたいで。人間と魔物の能力を両立させるのが非常に難しいのですよ。元がどれだけ優れた戦士でも雑魚のゴブリンになってしまったら戦力的価値を失うだけですからねぇ」
「なんだって……でもオリドとイシュメルは人間時代の能力も、記憶も持って……」
「ああ。そいつらは運の良い成功例です。でも時間が経ったら自然と凡百のマーマンに落ち着いてたと思いますよ。まだまだ調整が必要ということですね」
ならシレーヌもいつかはただのマーメイドになってしまうということなのか。もしかして、今、彼女を襲っている不調もそれが関係しているのか。それが事実なのだとしたらなんて残酷なんだ。魔物に堕ちた仲間を裏切ってまで俺たちに協力してくれた彼女は、何一つ救われることなく心すらも魔物となっていつかどこかの冒険者に倒される運命だっていうのか。
「ギー……ギィィィッ…………」
耳元で響いた鳴き声は、マーマンやマーメイドがよく発する声だった。背負っていたシレーヌが目を覚ましたらしい。直後、俺は首筋に鋭い痛みを感じていた。シレーヌが俺に噛みついてきたのだ。俺は背負っていた彼女を離し、強引に引き剥がすと、距離を取って反射的に腰の剣に触れていた。だが、それを引き抜くことにためらいを覚えてしまい、結局鞘からは抜かなかった。
「ギギィィィッ!! ギィィィィッ!!」
俺たちは困惑を隠せず、シレーヌを取り囲むように陣形を展開する。大穴の中心にいるパーガトリアはいかにも楽しそうに大笑いしている。もうシレーヌは人間に戻れないのか。完全に魔物になってしまったってことなのか。彼女を倒すことは簡単だ。だけど倒したくない。それが偽らざる俺の本心だった。
「あはははっ。皆さん、本当にお優しいんですね。いつもは煮え湯を飲まされて腹立たしかったですが、今回は楽しかったですよ。せいぜい頑張ってください。それでは」
蝋燭の火が消えるみたいにふっとパーガトリアの映像が途切れる。同時に、シレーヌが犬歯を剥いて俺に襲いかかる。と、言っても地上のマーメイドの攻撃なんて恐れるほどのことじゃない。俺は彼女を受け止めてあやす様に抱き締めた。シレーヌは爪を立てて、歯で肩に噛みつき、俺の胸の内で抵抗を続けている。
「ごめん……本当にごめん。君を助けることが出来なくて。どうすることも出来なくて……本当に……悪いと思ってる」
「ギィィィィッ!! ギィィィィッ!!」
「オリドとイシュメルは君に生きて欲しい、助けてやってくれと最期の言葉を残して逝ったよ。だから……俺は」
心まで魔物化してしまったとしてもシレーヌは殺さない。人間を魔物にする方法があるなら、逆があってもいいだろう。実際、シレーヌはさっきまで人間の意識を持っていたし、姿も人間に化けることができていた。なら希望はあるはずだ。シバルヴァなら何か知っているかもしれない。諦めるのはもっと後でいい。
「オリ……ド。イシュ……メル……?」
俺の胸の中で暴れ続けていたシレーヌが急に大人しくなった。仲間だった二人のことは覚えているのか。人間の言葉でちゃんと反応してくれた。憑き物が落ちたかのような顔で、呆然と俺を見つめている。
「勇者……さま……うっ、うぅぅぅぅ。うぅぅぅぅ~っ……!」
シレーヌは突然、呻き声を漏らしながら、頭を押さえて苦しみ始めた。
様子を見守っていたフィオナとクレアが駆け寄ってシレーヌを抱き寄せる。
「頑張って、シレーヌ。自分の気持ちを強く持つのよ。貴女は人間なの! どんな姿になったって、心は人間なんだから!」
「シレーヌさん、負けないでください。私たちはシレーヌさんを見捨てません。何があっても……!」
頭を抱えてうずくまっていたシレーヌはやがて意識を手放し、その場に倒れてしまった。フィオナは気絶した彼女の頭を膝枕に乗せて、念のため治癒魔法を施す。
「意味があるかどうか微妙ですが……一応、治癒魔法を使っておきました」
「ルクス、この『転生宮』はどうするの。オリドの遺言通り、破壊しちゃっていいのかしら」
この転生宮で人間から魔物になってしまったものは絶対に元に戻れないのか。でもついさっき、シレーヌは少しだけ人間の心を取り戻していた……ような気がする。もし今まさに『転生宮』で眠っている人たちにも同じ現象が起こり得るとするのなら。俺は安易に彼らを殺したくない。
「『転生宮』の機能は停止させよう。でも中の人たちは殺さない。もしかしたら完全な魔物になってしまうかもしれないけど……人間としての心を持ったままの人もいるかもしれない。だから、俺は彼らを殺さない」
「いいんじゃねぇかな。甘いかも知れんが人間の心ってやつに賭けてみようぜ。もし襲ってくるようなら、その時は俺が倒すさ」
俺の考えにバーボンは賛同してくれた。クレアもフィオナも、賛成と言って頷く。
「問題はどうやって機能を止めるかだろ。ルクス、この複雑極まりない魔法の設備のことが分かるのか?」
「いや……俺も言いはしたけどその辺は分かってないな……クレア、何か分からないか?」
俺の言動にクレアは呆れを示した。クレアによると、どうやら壁面を覆う血管のようなものがこの『転生宮』の鍵を握っているらしい。壁に張りついている管は人間を容れた球体に魔力を送り込むことで魔物に変える。その管が送り込む魔力の元を断てば、この『転生宮』は機能を停止すると考えていいようだ。管は大穴を這うように十層目まで伸びているように見える。つまり、十層に『転生宮』の魔力を生成する核があるというわけだ。
十層にはこの『転生宮』を作った四天王シバルヴァが待っている。ちょうどいい。そういうことならシバルヴァを倒して全部終わらせてやる。