82話 白波の歌姫
水位が下がり切るのを待ってから、俺たちはその場にとどまって休憩を挟むことにした。慣れない水場での戦いだ。衣服は濡れて不快だし、いつもより疲労も蓄積されているはず。下の階でまたオリドたちと戦う前に、疲れを癒し、作戦を練ろうというわけだ。
「ああいう元人間のマーマンってまだいるのかしら。もし人間の実力者が何人も魔物になって四天王を守っているのだとしたら脅威ね……」
「少なくとも『白波の歌姫』は三人パーティーだったはずだ。リーダーのオリドが魔物と化してるなら、残りの二人もそうだと考えた方がいいかもしれんな」
クレアとバーボンの会話を聞きながら、俺は誰が水位を下げて助けてくれたのか気になっていた。もしかすると、俺に忠告を残したあのマーメイドがその正体なのかもしれない。いや、これは推測ですらない、俺の勝手な想像だ。
それよりも、マーマンたちが水位を操作してくるならこれからは二手に別れるべきか。その階層の魔物を掃討する役割と、その階層の魔法陣を操作されないように守る役割の二つ。そうでもしないとさっきみたいに不利な状況になりかねない。だが二手に別れるとそれだけ戦力を分散してしまうことになる。それはそれで問題があるな。
俺はどうやってこのダンジョンを進んでいくか考え続けていたが、背後からの気配でそれは吹っ飛んでしまった。殺気の類はない。当然ながら他の皆もすでに気づいており、武器を構えて臨戦態勢に入っている。
「勇者様、その仲間の皆様、ご無事で何よりです。やはり……逃げずに戦ってしまったのですね」
現れたのは一糸纏わぬ姿の女性だった。美しい金髪は水でぐしょぐしょだが、その顔には見覚えがある。俺と会ったマーメイドだ。その時との最大の違いは下半身が尾鰭でなく普通の足になっていることだろう。人間の姿にもなれるのか。
「さっきのマーメイド……だね。君が助けてくれたのか」
「……はい。本当は水位を上げろと言われていたのですが……」
「ありがとう。君には感謝してもしきれない。おかげで、連中は下の階層に撤退してくれた」
俺が礼を述べると、バーボンはくるっと反転してマーメイドを見ないようにしていた。次の瞬間、フィオナが背後から俺に目隠ししてくる。最初は何でそんなことをするのか、なんてことを考えてしまったが理由は簡単だ。女性が裸でいるんだから男性は見ちゃいけないよな。気づくのが遅すぎた。
「もう見ていいわよ。私のローブ貸してあげたから」
クレアがそう言うと、フィオナの目隠しが解除された。マーメイドは申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません、普段は水の中にいるので服をほとんど着なくて……」
「気にしないで。私はクレア。このパーティーのリーダーよ。ね、単刀直入に聞いていいかしら」
「……なんでしょう?」
「あなた、元人間なの? 『白波の歌姫』のリーダーさんみたいに」
クレアの指摘は鋭かった。確かに魔物のマーメイドはマーマンと同じで流暢に人間の言語なんか話さない。でもこのマーメイドは普通に俺たちと会話できている。と、言っても、今は普通に二本足で立っているので、ただの美人にしか見えないのだが。
「……そうです。私の名前はシレーヌ。元々は『白波の歌姫』というパーティーで冒険者をしていました」
「どうやって人間から魔物になったの? このダンジョンにいる四天王の力でそうなってしまったのかしら」
「そうです。私たちはネヘレスコールを守るため『波濤の海魔竜』……シバルヴァに挑み、敗れて……生き残るために、魔物となって忠誠を誓いました」
シレーヌの声は重たく、苦し気で、今にも自責の念で死んでしまいそうなほど弱々しい声だった。彼女とその仲間は最後の四天王、シバルヴァに挑んだものの、命が惜しくて人間を裏切った。そういうことなのだろう。
「シバルヴァはとても恐ろしい魔物です。人間を殺すことに躊躇がないのはもちろん、自身の戦力として利用できないか考え……人間を強制的に魔物へと変貌させる恐ろしいものを作り出したのです。もう、誰も手が出せません……」
シレーヌは目に涙を浮かべて叫んだ。
「お願いです、早く逃げてください。シバルヴァには……きっと誰も勝てない。あの魔物は強すぎる……!」
「それは出来ないよ……四天王が強いのは最初から分かってるさ。けど、それでも俺たちは戦って勝つ。絶対に」
「勇敢なんですね……私たちも最初はそうでした。でも負けて死にそうになったら、全てを後悔しました。ああ、逃げておけば良かったと……心の底から思いました。だから服従して魔物になったんです」
確かに口ではいくらでも勇敢なことが言えるよな。考えたくはないけど、もし本当に負けてしまったら今までの態度を翻して命乞いしてしまう。そんな可能性が無いとは言い切れない。誰だって命は惜しいのだから、死の瞬間まで勇敢でいられるかは俺にも分からない。
だけど、シレーヌ。彼女はそんな自分を後ろめたく思っている。だから俺に忠告し、危険を冒してまで助けてくれたんじゃないのか。彼女は確かに人間を捨てて魔物になってしまったのかもしれないが、心の底まで悪人になり下がったわけじゃない。
冒険者ギルド的には、どんな事情があっても魔物は殺すべき敵、と定義されている。本来ならシレーヌすらも倒すべき対象なのだろうが、俺はそこまで杓子定規の人間じゃない。誰を倒すべきで、誰を倒すべきじゃないか。それはもう心の中で決まっている。
「シレーヌ、俺たちに協力してくれないか。正直に言うと、四人だけじゃこのダンジョンに苦戦しそうだ。君の力を貸して欲しい……いいかな?」
「……信用していいんですか? 魔物になってしまったこの私を。もしかしたら裏切るかも知れませんよ……」
「君は魔物になったことを悔いている。誰だって死にたくはないさ。でもやり直すチャンスがあるなら今だ。協力してくれるなら、俺たちは君に手出しはしないし、この戦いが終わったら黙って見逃すことにする」
俺の発言を聞いたクレアは注意するように俺の肩を叩いた。
「ちょっとルクス、そんなの勝手に決めていいの? 魔物を見逃したら、ギルドに何言われるか分からないわよ」
「でも、俺たちには助けてもらった恩があるじゃないか。むしろ手伝ってくれなんて厚かましいくらいだ」
「まぁいいんじゃねぇか、クレア。俺たちも別に清廉潔白な人間じゃねぇんだ。ルクスは国外追放の犯罪者、俺は酔いどれ冒険者、クレアだって魔王の側近と内通してただろ。見ろ、みんな叩けば埃が出てくる。批判していいのはフィオナぐらいのもんだ。フィオナはどう思う?」
バーボンの突然のフリにフィオナはびっくりしてあわあわと慌てていたが、やがて落ち着きを取り戻し、こう言った。
「あの……誰でも道を誤ることはあります。罪を犯せばいつかは罰を受けねばなりません。でもシレーヌさんがそれほど重い罪を犯したとは私には思えませんでした。その……よろしければ私たちを助けてください」
「具体的には……私はどうすればいいのですか。私はそう強くありません。直接的な戦闘では大してお力添えできませんが」
シレーヌにやってもらいたいことはたった一つ。水位操作の魔法陣を敵に触られないように見張ってもらうことだ。さっきの戦闘はそれで不利になってしまったからな。もしまたオリドと戦うことになっても水のない場所でなら確実に勝てると断言できる。
「……分かりました。それだけなら、私でもお役に立てると思います。ですが約束してください。こんな私にも優しく接してくださった皆さんが死ぬところは見たくありません。もし命の危機に陥ったら、すぐに逃げてください」
「……うん。約束しよう。俺たちも死にたいわけじゃない。危なくなったらすぐ撤退するよ」
こうして元人間のマーメイド、シレーヌを仲間に加えて『水道の迷宮』のさらに奥深くへと進んでいくのだった。探索の手順はこうだ。まず水位操作の魔法陣を使って水位をゼロにする。次にシレーヌに魔法陣を見張ってもらいながら、俺たち四人は探索する階層の魔物を掃討する。魔物がいなくなったら、シレーヌと合流してまた一つ下の階層へと移動する。それを繰り返す。
そうして五層目まで辿り着いた時、俺たちは待ち構えていたオリドと再び遭遇した。今度はマーマンの他にも見慣れない仲間を一人連れている。マーマンというか、なんというか、顔立ちは鯨に似ているな。手にはごついハンマーを持っている。きっと彼は『白波の歌姫』の仲間の一人なんだろう。
「やぁやぁ。逃げずに来てくれて嬉しいヨ。じゃあ、さっきの戦いの決着をつけるとしようじゃないカ」
オリドは威勢よく剣を抜き放った。準備万端だな。だが戦う前に、一度確認しておかなければならないことがある。