76話 森に宿る意思
この『禁断の森』の最深部には意思が宿っている。エルフ族の先祖である妖精の分割された精神だ。残念なことに俺たちがその森の声を聴く手段は持ち合わせていない。だからエレーナさんの言葉を信じるしかないのだが、森は何度も「ありがとう」と俺たちに感謝してくれているらしい。
そんなことは今までに一度も存在しなかった異例の事態だそうだ。この森を守るエルフ族の森番でさえ、感謝などされた覚えがないという。リンボルダはこの森が根付く地脈の養分を横取りしていたと言うが、それが森にとって余程深刻な被害を与えていたのだろう。目にこそ見えないが。だからリンボルダを倒した俺たちを感謝してくれたんだと思う。
「この森の声を、ウィングリン様もお聞きになっているはずだ。また集会を開くことになるぞ……」
エルフ族の集落への帰り道、俺はバーボンの背に身を預けながらエレーナさんの独り言を聞き逃さなかった。リンボルダとの戦いで負った傷が深く、持っていたポーションでは完治しなかったためだ。太腿を負傷していたせいでまともに歩けない。フィオナに頼んで治癒魔法で治してもらうしかなさそうだ。
「どういう類の集会をするんだい。ウィングリンの旦那、前は多数決で負けてマジギレしてたと思うんだが」
「そりゃ……復讐戦じゃないかしら、バーボン。やられたらやり返す、悲しいけどそれが生き物の性なのよね」
クレアの想像は物騒だったが、集会の時、確かに新魔王軍が去ったら他の長老たちを蹴り落すとかそんなことを言っていたな。今日の話なのにもうすっかり遠い昔の出来事に感じてしまう。戦ってた時間はそんなに長くないはずだが、命のやり取りをしてるんだ。一秒がとてつもなく長く感じることなんてザラにある。
「そうではない。お前たちに相応の礼をせねばならない。森の意思は我らの意思だ。森が感謝するのなら、エルフ族もまたお前たちに感謝するのが義務というものだ」
嬉しい話だが、急に感謝されてもなんというか、こそばゆい。正直石を投げられながらこの森を去る覚悟でいたんだけどな、俺は。いや、この森に足を踏み入れるって話になってから、フィオナも、バーボンも、クレアも、少なからずそうなることを承知していたはずだ。
それがこんな結末を迎えることになるなんて。予想外すぎる。いや、まだエレーナさんがそう思っているだけで、実際にそうなるとは限らない。あくまで予想だ。俺もこの森に長く滞在する気は無いから、後は世話になったアイシャに会って礼を伝えて、ここからすぐ退散する考えでいる。
「……よくぞ帰ってきた。四天王を倒し、森を救ってくれたこと。誠に感謝する」
エルフ族の集落に着くと、ウィングリンさんとエルフ族の人たちが総出で俺たちを迎えてくれた。集会で初めてウィングリンさんと会った時のとげとげした気配は無い。むしろ恭しく頭を下げたほどだ。まるで別人の態度なので俺は動揺してしまって「頭を上げてください」としか言えなかった。
「そうはいかぬ。勇者一行には無礼なことをしてしまった。森の意思は我らの意思。君たちには相応の礼をしなくてはならない。望みがあればなんでも言って欲しい。出来る限り叶えてみせよう」
そんなこと言われても。お礼が欲しくてやったわけではないしな。
俺としては新魔王軍の侵攻を阻止して傷つく人を最小限に抑えられればそれで十分だ。
「じゃあ……一つだけ。今回のことで他の長老たちを責めるのは止めてあげてください。この森にも掟があるのでしょうが、彼らは森を想って俺たちに力を貸してくれただけです。掟を破った罪は不問にしてほしい。それだけが俺の望みです」
ウィングリンさんは一瞬、考え込むように間を置いたが、しかしすぐに返事をした。
「それが望みだと言うのなら、そうしよう。今回だけは……特別だ」
エルフ族の波を掻き分けてフィオナがやってくる。今回は留守番役だったが、リンボルダ配下の魔物を一掃する成果も見せてくれた。最早、並大抵の冒険者ではない。俺はバーボンに肩を貸してもらいながら、残された元気を総動員して手を振った。
「フィオナ、無事で良かった。この集落を魔物が襲ってきただろう。退治してくれて助かったよ」
「それについては何の問題もありません! それよりもルクスさん、どうしたんですかっ、酷い怪我です!」
なんだか、怒ってるみたいだな。顔を真っ赤にして俺を引っ張ると、小さな身体で担いで連れて行こうとする。フィオナはそんなに力がある方ではないので、俺の全体重が乗っかかると「ふにゃぁ」と変な声を出して潰れそうになった。バーボンが慌てて俺とフィオナを支える。
「す、すいません……勢いで動き過ぎました。てっきり無傷だと思っていたのでつい……」
「いや……いいよ。確かにフィオナに治癒してほしいとは思ってたんだ。敵も強かったしさ……」
「やっぱフィオナがいないと駄目だな。回復役の支援が無いと戦闘の立て直しが難しいからな」
バーボンの言う通りだ。特にSランク相当の魔物は、他の雑魚と違って手の内が分からないことも多いからな。リンボルダとの戦いだってフィオナが回復役にいてくれればどれだけ楽だったか。あの厄介な毒花粉だって解毒魔法で対処できたはずだ。
「君たちに話したいことはまだあるが……それは勇者殿の傷が癒えてからにしよう。誰か、私の家まで運んで差し上げろ」
「あ……すいません。勇者というのはちょっと。色々と不都合がありまして……俺たちのことはただの冒険者だと思ってください」
この森にやって来る酔狂な人間はそういない。俺が多少、不審な戦い方をしたところで勇者だと思うやつはそういないだろう。そんな甘い考えで、今回は光系魔法もあまり隠さずに使ってきた。隠してる余裕も無かったしな。
だけどマニャ族の長老、ニャコックさんの占いやら集会での俺の発言もあってこの森では勇者扱いが浸透しつつある。そこまで広まると流石に面倒事になりそうなので、ここで釘を刺しておこう。
「急にどうした。今更、隠す必要はあるまい。ルクス、君は勇者なのだろう?」
「まぁそうなんですけど……事情があって外では正体を隠す必要がありまして。この森の中で話が完結するなら問題ないんですが」
「その事情がよく分からんな。まぁ……恩人が望むのなら今後、君の正体はあえて伏せておこう。そんなことを詮索する人間が来ることもないだろうし、な」
ウィングリンさんはやや怪訝な顔をしていたが、あんまり深く追求しないでいてくれた。どう考えても、それはウィングリンさんの優しさによるものだろう。おかげで俺は、実は故郷を国外追放された無実の犯罪者だ、なんていう自白をする必要が無くなって助かった。
それから数日間、俺たちはこの『禁断の森』に滞在し続けた。俺の怪我自体は治癒魔法ですぐに治ったが、リンボルダ配下の魔物がまだ少しだけ残っていて、そいつらの退治を手伝っていた。その間に長老たちはまた幾度か集会を開き、改めてこの森の在り方、人間との付き合い方を変えるべきではないかという議論が巻き起こった。
結論としては、五種族の長老は俺たちに書状を託すことで落ち着いたようだ。書状はこの国の王となる者、すなわちアル王子に渡して欲しいとのことである。内容は要約すると、こんな感じだ。
王子の派遣してくれた冒険者たちはこの森を救う働きをしてくれた。誠に感謝する。この森は今まで人間たちに対して不干渉を貫いてきたが、もう亜人が差別された時代は過ぎ、新たな時を迎えようとしているのかもしれない。
だが、それにはまだ、お互いの準備が済んでいない。急に我々が人間と共に生きようとしても、様々な障害が横たわっているだろう。もし可能ならば障害を乗り越えるための努力を、次期国王である貴方と始めたいと思う。
集会がこの結論に達した大きな理由は、最も排他的だったエルフの態度が軟化したことにある。森の意思が人間を認めたことが重要だったらしい。ウィングリンさんはかつての経験から、やはり人間を好きになることはできないとしながらも、新しい時代にかつてのしがらみを残す必要はない、と言っていたそうだ。
『禁断の森』に生きる亜人たちは人間に冷たいだけの存在じゃなかった。むしろ、善良な人々の集まりだったように俺は思う。その人たちが人間に歩み寄ると決めてくれたことが心から嬉しい。