57話 無限領域へ到達せよ その4
深淵から昇ってきた魔王が、こちらをじっと見つめています。
無表情ですが、底知れない威圧感を否が応でも感じます。
正直に言います。目の前にあの魔王がいるという事実が、私は怖いです。
どうすればいいのでしょうか。こんな時、ルクスさんならどうしたのでしょう。
「ふ。そう委縮するな。殺しはせん。ただ先へ進むのは諦めてもらう」
「魔王アンフェールよ。お主も到達していたのじゃな。無限領域の力に」
ワイルズさんは落ち着き払っているようでした。
そうですよね。気持ちで負けてしまってはいけません。
強大な敵と相対すれば誰だって怖いと思うはずです。
それでも諦めずに立ち向かい戦う。それが私の尊敬する勇者様の在り方です。
「惚けたことを。人間に到達できて魔物には出来ないとでも? 私たちは、魔力から生まれた存在だ。本来お前たちなどよりずっとこの領域に近いところにいる」
「それもそうじゃな。しかし、まさか精神の一部を分離させて見張っているとは思わなかったぞ」
無表情だった魔王の頬が少し緩んだ気がします。
ここにいるのは本体ではないというのですか。少し安心しました。
万が一、戦いになったとしても勝算がゼロというわけではなさそうです。
「やはりただの老人ではないか。これは復活後に衰えた力を取り戻すついでにやっている。前回はこの領域の力を使う勇者たちに敗北したのだ。同じ轍を踏みたくないのは、当然の心理だろう?」
「怖いのか。『無限領域』の力を使える者が。まぁ魔王とて無理もないのう。ふぉっふぉっふぉ」
ワイルズさんはあくまで魔王と相対したままです。
指示も無ければアイコンタクトすらありません。ですが分かります。
きっと、ここは自分に任せて先に行けと言っているのです。
「ワイルズさん……すみませんっ!」
私は魔王を無視して無限領域へと続く深淵へ潜っていきます。
その瞬間、魔王の身体から漆黒の触手が何本も伸びてきました。
ひぃっ。あんなこともできるんですか。触手は凄い速さで迫ってきます。
この深淵の領域では水に潜っている感覚に近く、急には避けられません。
そこでワイルズさんが手をかざすと電撃が放たれ、触手を焼き切りました。
「邪魔をするな、人間の老人。万全でない魔王になら勝てると思ったか」
「そこまで自惚れておらんわい。時間を稼げればそれでよい!」
いよいよ魔王も本気です。腕から、背中から、スカートの裾から。
先程とは比べ物にならない大量の触手がざわざわと伸びてきます。
ワイルズさんが魔法で迎撃してくれていますが、何本かが私を襲います。
触手は私の四肢に絡みつくばかりではなく耳の中にまで入ってきました。
幸運なことに今は精神だけの状態なので、致命的な影響はないはず。
たぶん大丈夫です。問題は動けないことであっ。あっあっあっ。ああああああ。
「いかん! 精神を侵略されておる! フィオナよ、心を強く持つのじゃ!」
「今は心だけの脆弱な状態。肉体がある時よりずっと精神操作は楽になる。恍惚だろう? 殺しはせんが壊してしまうかもしれんな。私が知りたいのはお前と勇者の記憶だ。少し覗かせてもらうぞ……」
あっ。あ、ああ。あ……駄目、駄目。こんなのいけませ、あ。
あは。あははは。あはははは。もっと。もっとしてください。もっと。
私、こんなの……はじめてです。これすきっ。すきっ。気持ちいいっ。
今までの記憶が溢れてきます。
私が生まれて間もない記憶。神父様に育てられた幼少期。
神父様は優しかったですが、孤児という理由で同世代の子からはずっといじめられていました。
次にユリシーズさんの仲間になって失敗続きだった日々。
仲間から疎まれ、私の世界はモノクロでした。
ずっと神に祈っていました。身も心も、全て貴方様に尽くします。
だから。どうか両親のように私を見捨てないでくださいと。
そして。ルクスさんと出会った日。
ルクスさんは何も知らない私に色々なことを教えてくれました。
何も出来なかった私とずっと一緒にいてくれました。
ルクスさんは――役立たずだった私に希望を与えてくれたんです。
私にもできることがあるって。私にも居場所があるんだって。
ルクスさんと出会ったことで、私の世界は初めて色づきました。
もし私に家族がいたのなら。お兄さんはこんな人なのだろうと。
願うならばずっと。ずっと一緒にお供したいと思いました。
それだけではありません。
お酒ばかり飲んでいるけど頼りになるバーボンさん。
いつも助けてくれたり魔法を教えてくれる優しいクレアさん。
私はバーボンさんをお父さんのように、クレアさんをお姉さんのように。
家族のようなかけがえのない仲間と私は出会えたのです。
そうです。私はこんなところで立ち止まっているわけにはいきません。
なんとか魔王の拘束を脱出して『無限領域』に到達しなければ。
ですがどうすればいいのでしょう。何か良い方法があれば。
そうだ。今は精神だけの状態。姿形は、自分の意思で決められます。
なら現在の姿より小さくなればいいのです。
そう願っていたら、私の姿は幼少期の頃に戻っていました。
触手からするりと抜け出して深淵へ落ちていきます。
それでもなお、執念深く襲ってくる触手をワイルズさんが雷で焼きます。
「自力で立ち直ったか! ふぉっふぉっふぉ、儂の目に狂いは無かったわい!」
理解できました。精神だけの状態では身体能力も魔力も一切関係ありません。
精神力がすべてです。いくら魔王の精神操作といえども、強い精神力で弾けるようです。私の心にはルクスさんがくれた大切な思い出があります。それが魔王の力から救ってくれました。
「……う」
魔王は触手を伸ばしながら何か呻いています。ですが攻撃は仕掛けてきません。
私程度の僧侶一人、満足に拘束できずにショックだったのでしょうか。
「う。羨ましい~。なぜだ。なぜ貴様は、そこまで勇者に面倒を見てもらえる。顔以外に取り柄の無さそうなお前ごときがっ。私だって顔なら負けてないはずだっ。どうやって勇者の心を手に入れた! 今すぐコツを私に説明してみろ!!」
どうやら私の想像とは少し違う理由で動きが止まっていたようです。
そういえば魔王はルクスさんを手に入れたいと語っていましたね。
説明しろと言われても。ルクスさんが優しいからとしか言えません。
「説明してみろと言っているぅぅぅぅぅぅぅっ!!!!」
怒った魔王が猛攻を仕掛けてきました。
不肖フィオナ、何度も同じ手は食らいません。
最初は怖かった触手も見慣れたら動きがなんとなく読めてきます。
ルクスさんとの修行だってそうです。はじめは動きが分からなくても。
よく観察していれば軌道が読めてきます。
その人特有の癖やパターンが感覚的に分かってくるのです。
ルクスさんはいかに敵の『呼吸』を読むかが重要だと教えてくれました。
呼吸さえ分かれば攻撃を避けたり、反撃の糸口を掴むのも簡単だと。
呼吸を掴む時間は、戦いの経験値と訓練で短くできるとも言っていました。
冷静な状態ならともかく感情を剥き出しにしている今の魔王は短絡的です。
つまり、魔王の呼吸を読み、攻撃を避けることも容易くなっています。
はぁっ! フィオナ鳥モードです。
強く念じると私は一羽の鳩に姿を変えていました。
何十本もの触手の間をすり抜けて、私は遂にその領域へと飛び込みます。
姿もいつの間にか元に戻っています。きっとここが無限領域。
今までの薄暗い空間とは違って、まっさらの白い空間が広がっていました。
「おのれ人間……いや僧侶フィオナ! 勇者が兄ならお前は私にとって義理の妹になるのだぞ!!!!!!!!」
どうしてそうなったのかよく分かりません。