383話 ラルフ 新領へ入る
江戸時代の大名の嫡子は、基本的には江戸に居たようで。藩主を相続してから、初めて領国へ入ること(お国入り)が、結構多かったようですね。
本文中の海の定義の件は、例えばカスピ海が該当します。沿岸を持つ国の協定で、2018年に海と決まりました。なので領海もありますし。その外(内?)は公海だそうです。
翌々日、エルメーダを発した。
北東へ街道を馬車で進み、サーメルという町を経由して国王直轄領へ入った。そこからさらに2時間ほど走って、峠を越えて巨大な盆地に至った。
下り勾配を緩める街道の蛇行によって、盆地の底にある湖が車窓に現れた
「わぁぁ」
さっきまで、客車の床に繋げた亜空間部屋に居た、ルークはその蒼さに歓声を上げた。
「綺麗ね」
ローザも嬉しそうだ。
「あれは、おおきな……かわ?」
膝に来たルークは、俺を見上げる。
「あれは、湖というのだ」
「みずうみ……はじめてみた」
ルークにとって、広い水辺として馴染みがあるのは川なのだろう。
「かわとは、どうちがうの?」
「川は水が流れる場所だ。海の近くに行くと流れていないようなところもあるが」
「みずうみは?」
「湖は、ほとんど水が流れていない。地面に囲まれた、まあ、でっかい水たまりだな」
「みずたまり? おいけは?」
「そうだな。池は人間が造った水たまりだ」
「へえぇ」
「あとは、比較的浅い水たまりは、湖ではなくて、沼と言う」
「いっぱいあるね。みずたまり、おいけ、ぬま、みずうみ」
「そうだな」
そう言えばプリシラが、もっとルークを褒めるべきだと言っていたが。そうかも知れない。
「ルーク。海というもあるのよ」
「うみ?」
「そう。お母さんがルークぐらいの歳の頃は、港がある海の近くに住んでいたのよ」
「みずうみとうみは、なにがちがうの?」
「海は大きくてね。その水は、しょっぱいのよ」
「へえぇ」
概ねは合っているが……ラグンヒルには一般的な海より塩分濃度が高い湖もあるし。我が国にも汽水湖はある。そもそも海に厳密な定義はないしな。人間が海だと決めた場所が海なのだが。おいおいルークにも教えていこう。
「そしてな、湖には名前が付いている。あれはシームズ湖だ。あの畔に、直轄領都シムレークが有る。今からそこへ行くぞ」
バズイット伯爵家がここを治めていた頃は、バズイールと呼ばれていた町だ。
さらに30分ほど走って昼前に町に入った。
城塞はソノールより一回りでかく、城壁も数ヤーデン高い。ここに立て籠もれば落とすのは難事だったろう。が、既にバズイット家の威信は落ちており、国軍には逆らうことはなかった。無傷で開城され無用な犠牲を出さなかったことは幸いと言える。
そうでなければ、この瀟洒な街並みもどうなっていたか分からない。車窓を見ながらも馬車は進み、町の中心にある城に入った。城の中核ではなく、西にある曲輪に案内された。
玄関にずらりと役人が並んでいる。
馬車を降りると、1人が進み出た。
「ラングレン閣下。初めて御意を得ます。当直轄領の代官ファルロフと申します」
閣下か。彼にとって、俺は近隣に着任した小領主ではなく大使のようだ。
「ファルロフ殿。わざわざのお出迎え、痛み入る」
「とんでもない。むさ苦しい直轄領政庁ですが。どうぞお入り下さい。奥様にご子息様もどうぞ」
応接間に通されて、茶を出された。
むさ苦しいことはないが、簡素と言えば簡素だ。バズイット家が遺した中核部の殿舎に入ることを良しとしなかったか。親父さんは代官を清廉潔白と評していたが、そうかも知れない。
「この度は新領を賜られたとのこと。おめでとうございます」
「ありがたく存ずる。その新領が当地と接するので、まずは挨拶に参った。今後はよろしくお願いしたい。後ろに控えているのは、家令のモーガンだ」
関係性で言えば、地方小領主より直轄領代官の方が上位にある気がするので、俺が出向いて来たのだが、微妙な雰囲気だ。
ファルロフは、少し意外そうに瞬いた。
「そうですか。早速のご挨拶恐縮です。いやあ、16歳で上級魔術師に成られてバッタバッタと超獣を斃し、大使となられていくつもの他国と条約を結ばせる。さぞかし恐い方だと思っておりましたが……少し安堵しました」
「代官殿! ああ私、助役のメルバスと申します。恐いなどと、あのディラン殿のご子息に限って、それはないと申したでしょう」
「確かにそうなのだがな」
「父が何か?」
「ああ、いえ。エルメーダを瞬く間に再興された手腕を持っていらっしゃるのに、いつも辞を低くされている。施政官僚としては、日頃より感服しているのです」
「そうなのです。エルヴァ地区の者達は大半が山の民ゆえ、なかなかに排他的なのですがね。まるで歴代の領地であったかのように掌握されていらっしゃる。無論、旧伯爵領政府の役人を、多く受け入れられたことも大きかったのでしょうが」
この助役は、話し好きなようだ。相槌を打って、止めよう。
「そうですか」
しかし、親父さんを褒められると、つい頬が緩む。
助役殿が言ったように、親父さんは伯爵家改易により職からあぶれた文官と武官を、周りの貴族領よりたくさん受け入れたそうだ。そこそこ重職に就けていて、昨日の会議にも何人か居た。
新興男爵家なのでエルメーダ領自体の役人不足というのもあるし、代官としてのエルヴァ領統治にも人が必要というのもある。あとは武官を放逐すると治安が悪化しかねないしな。
親父さんは、エルメーダ領の経済がうまく行っているので雇えたと言っていたが。
「ともあれ、そのお父上が請負代官と成られたのですから、閣下もご安心でしょう」
「あぁ……はい」
既に伝わっていたか。
「ですから、あまりないとは存じますが。何かお困り事があれば、直轄領政府も及ばずながら協力させて戴きますので、ご安心下さい」
†
「思いの外、代官殿は好意的でしたな」
「うむ」
新領に向かう途上、馬車でモーガンと向かい合っている。
ローザとルーク、エストとフラガは亜空間部屋に行っている。
「やはり、父上は偉大だな」
周囲の者達を、自然と味方にする力を持って居る。
「はい。我々も助かります」
「もっと、孝行をせねばな」
「はっははは……あっ、ああいや。失礼致しました」
「ん?」
「思いますに、御館様は並の何百倍も親孝行をされていらっしゃると存じますが」
「そうかあ? こんな扱いにくい子は居ないと思うが」
「私も人の親なれば、お二人を羨ましく思います」
「そう言って貰うのはうれしいが。親子と言えば、モーガンの子はどうなのだ? 執事をやっているのだろう」
「はあ、モーリスとは定期的に連絡を取り合っております」
モーリスはモーガンの長男だ。ダンケルク家副家宰で、普段は本領に居るのだが、義母の王都館で一度会ったことが有る。
「とは?」
「恐れ入りました。次男のメヴィルは、他家に行っておりましたが。7月に契約が終わりモーリスのところに身を寄せています」
「そうか。その次男殿にエルヴァ地区の現地責任者になって貰うのはどうだ?」
「とてもありがたいお言葉ですが、本人がなんと申しますか……」
まあ、辺境のエルメーダ、エルヴァに駐在だからな。
「近々、王都に呼んでみてくれないか?」
「承りました」
†
2台の馬車を空間転位させて、エルヴァ領に入った。
新たに領都とするエルヴァインへ直接行けば良いところだが、住民に俺の姿を見せるのも今日の目的のひとつなので、そうも行かない。小さな峠である領境から街道沿いに南下していく。改易されたと言っても有力だった元伯爵領の主要街道だけ有って、中々堅牢な石畳舗装がされている。
30分程進むと、エルヴァ領の北のリーリッテという小さな町に着いた。緩やかな盆地の町だ。
ここから南には広大な森林が広がる。だが鬱蒼とした密な状態ではなく、適度に間隔が空いて、下草が繁茂していない。人の手が行き届いた森に見える。
町の中央広場に差し掛かると、大勢の住民が集まってきた。今日は光神教の休日だからな。
あっと言う間に結構な人出に囲まれた。
うーむ。バルサムを連れてこなくて良かったな。来ていたら今頃は警備、配置がなっていないと半狂乱になっていることだろう。
俺が、馬車の屋根から出ていくと、広場が響めいた。
「リーリッテの領民よ、この度当地の領主となったラルフェウス・ラングレンだ」
再びの歓声が静まるのを待つ。
「短い間に当地が伯爵領から国王直轄領となり、今また新たな領主が現れ、皆は不安に思っていることだろう」
そう思って出て来たのだ。ゆっくりと左に回り見渡していく。
「案ずることはない、統治するのはこれまで通り、我が父にしてエルメーダ領主だ。皆は安心して暮らして欲しい。以上だ」
言ったからといってどうなるものでもないが、多少でも住民の不安が和らげば良い。
さて馬車に引っ込もうと思った時、大きな歓声が起こり、広場中で拍手が巻き起こった。集まった衆をよく見ると破顔する者、何か吠えている者、涙ぐんでいる者すら居た。
これは俺の発言への反応か?
いやいや。そんなに大したことは言っていないぞ。
そして、ラルフ、ラルフ……と俺の名前を何度も連呼した。
†
「お呼びで……」
昼食を終え、リーリッテの町を発した後。スードリを馬車に呼びつけた。
「うむ。いつもながら宣伝工作の展開、ご苦労」
「……どうやら、お気に召さなかったご様子ですな」
感付くか。言い方が悪かったか。
「いや、普段は感謝している。今回は、きちんと言っておかなかった俺の落ち度だ」
「伺います」
「場所が違えば良いのだが、新領で俺の評判を上げ過ぎるのは、少々問題だ」
スードリは押し黙った。
おそらく、リーリッテでは人を集めた位で、特別な煽動はやっては居ない様に思えた。しかし、何をやったかではなく、どうなったかしか情報戦術の意味を為さないのだ。
まあ、彼……彼女も考えが有ってやっているのだ、理由を言わないとな。
しかし。
「スードリ殿」
ローザが呼び、スードリの深い眼窩の奧が動いた。
「はっ!」
「御館様のお気の済むように願います」
「……承りました。善処致します。では!」
スードリの姿が掻き消えた。
「出過ぎたことを申しました……」
ローザは悄然としている。
親父さんとの関係性を崩すことを恐れていると、俺に言わせたくはなかったのだろう。
「済まぬな」
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訂正履歴
2021/08/07 僅かに加筆、表現変え
2022/01/31 転移→転位




