壱
その夜、つきなは一人だった。
白々しい様に、明るいリビング。ソファーの上に身体を投げ出して、光る蛍光灯を見つめていた。
一人で。たった一人で。
事の起こりは、数日前の夜だった。
ガタン
突然響いたその音に、つきなは振向いた。
振向いた視線の先で、あやなが床に突っ伏していた。
団子虫の様に丸まった背が、瘧にでもかかったかの様にブルブルと震えている。両手の指が、引き裂かんばかりに絨毯に食い込んでいた。脂汗が無数に浮いた肌は、蝋の様に蒼白。伏した顔と床の隙間から聞こえるのは、異常な呼吸音と、低いうめき声。そして、苦しげにえづく音。
「あやな……!」
近づいて、震える背をさすろうと手を伸ばした。
けれど、
「触るなっ!!」
悲鳴の様な声と共に、差し伸べた手が荒々しく祓われた。荒い息を吐きながら、自分を見つめるあやなの顔。そのあまりに切羽詰まった様子に、つきなはただならぬものを感じる。
そして、気づいた。
”その時”が、来たのだと。
「あやな……」
もう一度、その手を彼女へと伸ばす。
途端、あやなの表情が変わった。
見た事のない顔だった。何かを堪える様な、何かに怯える様な、数多の激情を内包した顔。
伸ばした手が、思わず止まる。
その隙に、あやなは床を蹴って立ちあがる。そして、その勢いのまま外へと飛び出していった。
つきなに出来る事は、黙ってそれを見送る事だけだった。
追おうとは思わなかった。あやなが拒むのなら、“それ”を強いる事は出来ない。
そう。全ての選択権は、彼女にあるのだから。
だから、つきなは待つだけ。それが、今の彼女に出来る事。
そしてそのまま、長い時が過ぎていた。
「………」
ちらりと、壁に掛かっている時計を見る。
針は、午前の2時40分を指していた。
あやなが帰ってくる様子は、ない。ひょっとしたら、今夜も帰ってこないのかもしれない。それでも、探しに行く気にはならなかった。行っては、いけないと思っていた。
だから、つきなは待つ。彼女が帰ってきた時、明りとともに「おかえり」と一言言うために。
「あやな……」
ポソリとその名を呟き、ソファの上で寝返りをうつ。
と、
その動きが、ピタリと止まった。
ゆっくりと首を巡らせ、窓の外に視線を向ける。
空には、いつもと同じ様に痩せた月が煌々と輝いている。しかし、今のつきなの目はその月を映してはいない。
ソファに投げ出されていた身体が、ユラリと起きあがる。漆黒の髪が、風など起こる筈もない締め切られた部屋の中でザワリとざわめく。
次の瞬間、
ガチャリ
玄関のドア。それが、小さな音を立てた。
振り返る。
ダァンッ
ドアが、大きな音と共に弾かれる様に開いた。
ダダダッ
響く複数の足音。五つの人影が、開いたドアから雪崩込んでくる。そのうちの一つが、立ち尽くすつきなに突進した。
無骨な手が細い肩を掴み、その勢いのまま床に押し倒す。
ドシャアッ
重い音と共に、床に叩きつけられるつきな。床に広がる黒髪を踏みつけ、転がる彼女に馬乗りになる。
ジャララッ
響く、鎖の音。そして、
ガシャンッ
気づいた時には、冷たく光る手錠がつきなの両手を束縛していた。
「終わったぜ。リーダー」
つきなを拘束した人物が、周りを囲む仲間の一人にそう言った。
部屋に入ってきたのは、五人の若い男性だった。歳は皆、三〇代前後といった風体。揃って黒いレザージャケットに身を包んだ出で立ちは、妙に物々しい。
それだけではない。
ジャケットの厚い生地越しにも分かる筋肉や、隙のない所作。それが彼らが格好だけでなく、かなりの鍛錬を摘んだ人間である事を、如実に伝えていた。
「殺していないだろうな?依頼は生け捕りだぞ」
リーダーと呼ばれた男が、つきなを組み敷く男に問う。
「そんなヘマ、する訳ねえだろ。見な。ピンピンしてるぜ」
男はつきなを拘束する鎖を掴み、吊るし上げる様に持ち上げて見せる。特に動じる様子もないつきなが、その視線をチラリとリーダーの男に向けた
「気味が悪い餓鬼だな。普通は悲鳴の一つくらい、上げるものだろうに」
そう呟く男に、周りに立つ男達が口々に言う。
「叫んでも無駄な事を、知ってんだろうさ。何せこのマンション、他の住人がいねえんだからな」
「マンション一棟、餓鬼の専有物か。豪気と言うか、イカれてると言うか」
「まあ、お陰で仕事はやり易かったけどな」
「違いない」と皆が笑った。
そんな仲間達を無視すると、リーダーの男は改めて言う。
「とにかく、ターゲットは確保した。戻るぞ。もたもたしていると、夜が開けてしまう」
その言葉に、他のメンバー達が頷く。たった一人を、除いては。
「なあ、ちょっと待てよ」
声を上げたのは、つきなをぶら下げる男。
五人の中で一番歳若いその顔には、好色そうな笑みが浮かんでいる。
「こいつ、ちょっと“味見”してもいいか?」
つきなを示しながら、そんな事を言う。
それを聞いた仲間の一人が、呆れた顔をした。
「餓鬼だぞ?」
「女にゃ、変わりねぇだろが」
「相変わらずだな。お前は」
悪びれもないその男に、リーダーは溜息をつく。つきながらも、「まあいい」と頷く。件の男は、普段からこの調子なのだろう。下手に咎めて、へそを曲げられる方が面倒だという判断らしい。
「依頼主からは、生きてさえいればいいと言われているからな。ただし、手早く済ませろよ」
その言葉に、男は好色な笑みを浮かべてベロリと唇を舐める。
「あいよ」
下卑た笑いを漏らしながら、ぶら下げていたつきなを改めて床に押し倒す。
「じゃあ、お言葉に甘えまして……」
言いながら、いやらしく動く手をスカートの下に差し込み、白い足を撫でさする。
「いい手触りだぜ。上玉だな」
嗤う仲間のあさましさに、他のメンバーは冷ややかな視線を送る。あからさまに嫌悪の色を見せる者もいるが、男は気にもとめない。
「さあ、いい声で鳴けよぉ」
言いながら身を屈めると、男はつきなの首筋に顔を埋めた。
嫌悪の喘ぎも、絶望の悲鳴もなかった。ただ沈黙だけが流れる。
己の蛮行に酔いしれているのか、男はつきなの首筋に顔を埋めたまま、ピクリとも動かない。
「おい。いい加減にしろ」
いつまでも進まない情事に、ついに焦れたメンバーの一人が歩み寄る。
「さっさとしないと、夜が明けると言ってるだろうが」
苛立ちを隠さない声で言いながら、男の肩を掴みながら強く引いた。
途端、
ゴロン
何の力もなく、その身体が転がった。
「!?」
驚いて手を引くメンバー。その眼下で、仰向けに転がった男の身体が、ビクンビクンと痙攣する。
見れば、その喉が無残にえぐられていた。破れた気管がヒュウヒュウと音を鳴らし、その度に赤い液体を吹き上げる。男を中心に、見る見る広がっていく血溜り。それから逃げる様に後ずさるメンバー達。その視界の端で、何かが動いた。
「!?」
視線を上げた先で、黒い髪が揺れる。
つきなが、音もなくその身を起こしていた。
「………」
狼狽する男達を、何の色も持たない瞳で見回す。その白い顔の中で、唇だけがぬめる様に光っている。その端からツウと流れる、一筋の赤い雫。
凄絶な光景に皆が息を呑む中、つきなの喉がコクリと動いた。
容易に察しがついた。彼女が、口の中のものを呑み込んだ事も。呑み込まれたものが、何であるかも。
「こ、こいつ……」
「……喰いやがった……?」
戦慄く男達を、つきなが見回す。黒かった瞳が、蛍緑の光を放ち始めていた。
その異様が、更なる動揺を場に広げる。
「落ち着け!!」
皆が恐怖を抱き始めた事を察したリーダーが、声を張り上げる。
彼とて、恐怖がなかった訳ではない。けれど、幾つもの修羅場を切り抜けた経験が教えていた。これは、一方的な”狩り”ではない。命を取り合う、”戦い”なのだと。
戦いの場において、精神の乱れは死につながる。それを熟知しているからこそ、彼は己と仲間に喝を入れる。
「奴は両手が効かない!!全員で畳み込めば、何の問題も……」
「……何の、問題も……?」
リーダーの言葉を遮る様に、静かな声が聞こえた。
「!?」
皆の目が、いっせいに動く。視線が集まる中で、つきなが呟く様に言った。
「これで?これで、大丈夫だと思っているの?」
メキ……
何か、小さな音がした。
「な、何を言っている!?」
その音に気付かなかったのか。それとも、あえて無視したのか。メンバーの一人が叫んだ。
「ああ、そうか……」
メキ……メキキ……
音が鳴る。微かに。けれど確かに。音が鳴る。
「貴方達、知らないんだ……」
ビキンッ
音が響いた。今度こそ、誤魔化しようのない音が。皆の目が、音の出所へと集中する。ダラリと垂れ下がった、つきなの両手。それを束縛する手錠に、無数の黒い物が絡みついていた。蠱虫の様に蠢くそれが、髪の毛だと気づけたのは何人か。
ビキッビキキキッ
髪の群れに締め上げられた鎖が、軋みながら悲鳴を上げる。それに気づいたリーダーが、今度こそ恐怖の叫びを上げる。
「殺せ!!生け捕りなど考えなくていい!!叩き殺せ!!」
しかし、その声が皆に届く寸前――
バキンッ
絶望の音が、響き渡った。
カランッ カラランッ
乾いた音を立てて、手錠の欠片が散らばる。絶句する男達を、つきなが蛍緑に輝く瞳で睥睨した。
ザワリ……ザワリ……
「知らないんだねぇ。わたしの事、何にも……」
何処か、哀れみを感じさせる声音。薄い唇が蠢く度、その隙間から鋭い牙が覗く。
「あなた達、わたしを連れに来たの?誰かに、頼まれたの?お金、もらったの?」
能面の様な顔で、つきなは尋ねる。しかし、男達から返る言葉はない。ある者は呆然と。ある者は青ざめた顔を引きつらせながら、つきなを凝視する。
彼女自身、それを期待してはいないのだろう。答えを待つ事もなく、言葉を続ける。
「でもねぇ。それは無理。わたしは、何処にも行かない。誰のものにもならない。ここだけが、わたしの場所。あやなだけが、私の所有者」
囁く様に呟きながら、つきなはその身体をユラユラと揺らす。
「だから……」
小さな口の中で、牙が鳴る。
「あなた達には、いなくなってもらわなくちゃ」
ゾクリ
その言葉の意味する事に、男達の全身に怖気が走った。