参
その日、相良梨沙は病室のベッドで本を読んでいた。
重い本ではない。世間ではライトノベルと呼ばれる類の本。主人公は、ごく普通の少年。その少年と、不治の病を抱えた少女との恋物語。所謂、ボーイ・ミーツ・ガールと言う代物。
物語の中で、少年は少女の我侭に振り回されながら。少女は、少年の優しさと時折見せる勇気に触れながら。互いに惹かれ合っていく。その時間に、いつか終わりが来る事を知りながら。
そんな、物語。
話としては、そう珍しい類のものではない。
それでも、相似する作品の中で、梨沙はこれを好んだ。
理由はただ一つ。この物語が、”死”で終わりを飾らないから。
この作品の最後は、様々な苦難を乗り越えた少年が、病を抱えた少女と生き続けていく事を誓う形で終わりを告げる。
いつか、終わりが来る事を知りつつも、なお寄り添い歩き続ける。その姿を、梨沙は尊いと思っていた。
いつも、思う。
自分達は、いや、自分は、彼女の様に在れるだろうかと。自分の終わりを知りながら、なお彼の側に寄り添う勇気を持てるだろうかと。
そう。それは違う事なく勇気だった。それを持つべきは、残される側だけではない。遺して逝く側も、持たなければいけないもの。
愛する者に、苦しみと悲しみを遺してしまう恐怖。そして、その代え難き人生の時間と未来を奪っていってしまう罪。それらと、真正面から向き合い続けなければいけないのだ。
今、自分は光貴から多くのものを奪っている。どんなに取り繕っても、それは事実。そして、いつかは彼を遺して逝ってしまう。それもまた、事実。
正直、その事を辛く思う事もある。
彼を、開放する事が出来れば。誰に想いを遺す事もなく、たった一人で逝く事が出来れば。それは、どれだけ楽な事だろうか。
でも、それは無理な事。
自分の心は、彼を手放す事をよしとしない。それもまた、事実なのだから。
梨沙は、普通の少女だった。本当に、普通の少女だった。
共働きの両親が、仕事に追われ常に孤独だった事も。同じ様に、心に隙間を持つ子供達のはけ口にされた事も、さして珍しい事ではなかった。
でも、いくらありふれた出来事であったとしても、心はそれを受け入れない。傷つき、泣きはらす自分に寄り添ってくれたのが、光貴だった。
彼は、いつでも側にいてくれた。一人の時には一緒に遊び、いじめられた時には懸命に守ってくれた。
誰よりも。何よりも。自分の事を思ってくれる存在。
最初は、かけがえのない親友。成長するに連れて、その想いが恋に変わるのは必然だったのかもしれない。
障害が、ない訳ではない。光貴は、国屈指の財閥の跡取り。対する自分は、ただの一般人。結ばれる事を、望まない人は少なくない。実際、そんな人達からそしられた事もある。
それでも、自分達の想いは変わらない。
彼は、言った。その時が来たら、自分は家を出ると。
全てのしがらみを捨てて、二人だけで暮らそうと。
嬉しかった。
本当に、嬉しかった。
躊躇う理由など、ありはしない。
答えは、一つだった。
物語が終わる。
主人公の少年と、少女が口づけを交わす。そんなシーンで。
儚いけど、微かな希望を思わせる終わり。
幾度となく、読んだ綴り。
その度に、胸が熱くなる。
そして、思う。
自分達は、どうなるのだろう。
彼らの様に、微かでも希望をつなげるだろうか。
それとも……。
いや。希望なんてなくていい。
願うのは、せめて……
ふと、窓の外に目をやる。
外は、まだ明るい。
彼が来れる時間では、ない。
それでもと思うのは、流石に贅沢というものだろうか。
まあ、望む想いは尽きる事はないのだけれど。
溜息をついて、本を閉じる。
「光貴……」
誰ともなく、そう呟いたその瞬間――
ドクン
身体の中で、何かが蠢いた。
「あ……」
思わず、引きつった声が出る。
良く知る、感覚だった。
身体の奥で蠢いたそれは、見る見るうちに大きくなる。
まるで、今願ったばかりの想いを嘲笑うかの様に。
さっきまで抱いていた熱さとは違う、おぞましい熱感が込み上げる。
「みつ……き……」
ゴボッ
漏らした言葉を追う様に、赤いものが迸る。
引き裂かれ、ねじ切られる痛み。その中で、赤く染まる視界が暗転する。
「………」
最後に呟いた言葉は、届いただろうか。
「……切れちゃったわねぇ」
病院向かいのビル。その屋上のフェンスの上から、魅鴉は全てを見つめていた。
彼女の視線の先では、慌ただしく動く医師や看護師の姿がある。何かが起こったのは、明白。そして、その災厄が降り注いだ先もまた、自明の理だった。
「やれやれぇ。また、八つ当たりされるわぁ」
ポリポリと頭を掻きながら、ぼやく様に呟く。呟きながら、その目はその場からはなれない。そこではちょうど、搬送用のベッドに乗せられた少女が運び出される所だった。
魅鴉は語りかける。届く筈のない、彼女に向かって。
「ここまで踏ん張ったのよ。いましばし、堪えなさい。こんなあっさり終わられちゃあ、今まで手を貸した甲斐もないからね」
誰もいなくなった病室を、眺める魅鴉。その周りを、何やら小さな虫の様なものが舞う。
「まあ、あんただけでも戻ってくれてぇ、面子はたったけどねぇ」
そう言いながら、差し出す指。その先に止まるのは、小指の爪程の小さな折り鶴だった。
「さてぇ、頼まれ事は果たしたわよぉ」
今頃、連絡を受けてこちらに向かっている筈の少年。彼に向けて、魅鴉は言う。
「さぁ、後はあんたの仕事よぉ。お坊ちゃん」
その顔に、クスリと浮かぶ酷薄な笑み。
「どうするかぁ、見させてもらうわよぉ」
彼女が、その本心を隠す事はない。冷たく笑いながら、病院に続く道路の向こうを見晴かす。
「時間はぁ、もう、ないわぁ」
紡ぐ言の葉は、どこまでも冷たく。
「せいぜいぃ、いい演劇を見せてねぇ」
そして、吹く風に溶け込む様にその姿は消える。後には、取り残された折り鶴がクルリクルリと踊るだけ。
「駄目だ!!」
明りの落ちた部屋。デスクライトの光が落ちる机の上。そこに広げられた、一冊のハードカバーの本。その上に、ダンと拳が叩きつけられた。
「載ってない……!!」
拳の主は、光貴だった。目の前に広げていた本を、苛立たしげに払い除ける。宙を舞った本は叩きつけられる事もなく、置かれる様に床の上でフワリとページを閉じた。
「くそ!!」
床の上に鎮座する本を忌々しげに一瞥すると、光貴は机の上で頭を抱えた。
梨沙が、発作を起こした。久しく起こした事のない、激しい発作だった。幸い、医師や看護師達の必死の処置で最悪の事態は避けられた。しかし、この日、梨沙が集中治療室から出てくる事はなかった。
光貴には、何も出来なかった。出来る筈も、なかった。
「ちくしょう……ちくしょう……」
処置室の前で立ち尽くしながら、彼は思い知らされていた。
”効き目”が、切れたのだ。
”あれ”自体は不変だが、本体から切り離された”末端”はそうはいかない。
一定の期間は効果を持続するものの、いずれ消えてしまう。
そのタイムリミットが、過ぎたのだ。
”あれ”を供給し続ける事。それが、梨沙に唯一残された生きる術。そして、光貴が彼女にする事が出来る唯一の事。
なのに。
それなのに。
己の、無力な手。それを握り締める。
行きどころのない怒り。やるせない苛立ち。
それらをぶつける様に、ギリギリと力を込める。爪が肌に食い込んで、血が滲む。腕を這い上がる、鈍い痛み。けれど、そんなものは如何程でもない。今、梨沙を苛む苦痛に比べたら、どれほどのものでもない。
”あれ”が要る。
梨沙が生きるためには、”あれ”が必要なのだ。
そう。”あれ”の”血”が。
光貴は、ギラギラと燃える瞳で血に塗れた己の手を見つめた。
頭を抱えていた光貴の目が、横に流れる。そこには、薄闇の中仄明るく光を放つデスクトップパソコンの画面。光貴は立ち上がると、フラフラとそれに近づく。ス、と伸びた手が、パソコンの傍らのマウスを掴む。ボタンをクリック。回線がつながり、画面が黒一色に変わる。その中を、彷徨う様に泳ぐポインター。やがて、それは黒の中にポツンと表示された「依頼」という文字に触れ、そして――
カチリ
再び、クリックの音が響いた。
それから、数日後。
梨沙はようやく、元の個室へと戻ってきた。沢山の管と、コードを着けた姿で。
そんな彼女の手を握り、光貴は言った。
「梨沙、待っててくれ。もう少し。もう少しだから!!だから、頑張ってくれ!!頼むから!!お願いだから!!」
何の事を言っているのかは、分からない。だけど、痩せた眼差しで彼を見つめ、梨沙はニコリと微笑んで頷いた。
血の気が失せた、か細い手。それに顔を埋めながら、光貴は嗚咽を漏らす。梨沙はもう片方の手を伸ばし、そんな彼の髪を撫でた。
母親が泣く子をあやす様に、優しく、優しく撫で続けた。