壱
君が在る。
笑っている。
それでいい。
それだけでいい。
君が在るためならば。
君が笑うためならば。
僕は、何だって犠牲に出来る。
世界も。
神も。
自分さえも。
その夜遅く、吉羽光貴は街の中を一台のタクシーで走っていた。
タクシーの運転手は規律に従い、正しく法定速度を守って走る。光貴は些かイラついているものの、正しいのは向こうなので文句を言う訳にもいかない。ジリジリしながら、座席に身を沈める。
しばらくして、タクシーは大きな建物の前で停車した。建物は病院。地域において、最大の規模を誇る総合病院だった。
せわしげに料金を支払い、タクシーから降りた光貴。小走りで、病院へと向かう。目指したのは、職員用の出入り口。胸ポケットからカードを取り出すと、入り口に設置された電子キーへとかざす。
ピッ ガチャン
小さく電子音が鳴り、扉が開く。中に入ると、消灯時間が過ぎた院内はひっそりと静まり返っていた。光貴は薄暗い空間を速足で通り抜けると、そのままエレべーターに乗る。向かう先は、最上階。
ウィーン……
微かな稼働音と、上昇感。やがて、チンという音と共にエレベーターが止まる。開いた扉から降りた空間は、それまでとはどこか違った空気が流れていた。
無理もないかもしれない。
その階は、入院患者の中でも、終末期を迎えた者達が入る場所。ホスピス・ケアを目的として作られた病棟。静けさの中に、時折苦し気な息遣いや、咳の音が聞こえる。
そんな中、光貴は常夜灯が灯る廊下を歩いていく。行く手にあるのは、ナースステーション。そこに行き着くと、光貴は呼び出しのベルを鳴らした。
「ああ、ぼっちゃん。いらっしゃいましたか」
部屋の奥から出てきた初老の看護師が、笑顔でそう言った。
「今日は、どうだった?」
「ええ。特にこれと言った発作もなく、穏やかに過ごしていられましたよ」
「そうか……」
安心した様にそう呟くと、光貴は看護師に問う。
「会いたい。いいか?」
そんな彼に、看護師は笑って言う。
「駄目と言っても、行くのでしょう?」
その言葉に苦笑すると、光貴は廊下の奥へと足を向ける。
「消灯時間は過ぎてますから。お静かに」
そんな看護師の言葉を置き去りに、光貴は足早に歩を進める。
立ち止まったのは、一番奥の病室前。
控えめにノックをし、囁く様な声で問う。
「梨沙、俺だ。いいか?」
すると、それに応える様に、小さな声で「いいよ」と言う言葉が聞こえた。それを確認すると、光貴は扉の取っ手に手をかけ、そっと開けた。
病室の中は、もう明りは落ちていた。その代わりの様に、窓の外には大きな月が浮き、差し込む光で部屋の中を蒼白く浮き上がらせていた。
そんな部屋の中心に、ベッドが一つ。
月を見ていたのだろうか?ベッドの上に半身を起こした人影は、窓の方を向いていた。
長い髪に華奢な身体。背後からでも、少女である事がハッキリと分かる。
「梨沙」
声をかける。それに応えて、少女が振り返る。
「来たんだ」
綺麗な顔が、花の様に綻ぶ。
「何だよ。来ちゃ、悪いのか?」
笑いながら歩み寄ると、ベッドの端に腰掛ける。
「なかなか来なかったから。忙しいのかと思って」
梨沙と呼ばれた少女も、ベッドの上を移動して光貴の隣りに座った。
酷く嬉しそうな、ほがらかな微笑。
年の頃は、17歳の光貴と同じ程。青味のかかった黒髪を、腰の辺りまで伸ばしている。身体つきは華奢、と言うよりもやや細身に過ぎるかもしれない。肌の色も、血の気が伺えない程に白い。
あまりにも、儚い存在感。
病んでいるのは、明白だった。
「悪かったよ。ちょっと塾が長引いてさ」
光貴の言葉に、梨沙は心配気に小首を傾げる。
「そうだね。少し、疲れてるみたい」
言いながら、光貴の顔を覗き込む。
その通り。
光貴は、多忙だった。
彼は、国屈指の財閥の御曹司。
いずれは父に代わり、多くの企業を統べる立場にある。その術を学ぶため、学校の他にも多くの教育を受けている。
その為、自由の効く時間はこんな深夜くらいしかなかった
「大丈夫?」
その事を知る梨沙は、そう言って彼を労わる。
まるで、夫を気遣う伴侶の様に。
「はは、お前に心配される様になっちゃ、御終いだ」
「何よ。それ」
笑う光貴に、むくれる梨沙。
そこにあるのは、年相応にじゃれあう少年と少女の姿。ひとしきり笑い合うと、光貴は彼女の枕元に置いてある数冊の文庫本に気づいた。
一冊を、手に取ってみる。
その表紙には髪の長い少女と、平凡な体の少年のイラストがアニメの様なタッチで描かれている。彼女達を見守る様に描かれた半月が、とても印象的な絵だった。
「……まだ、読んでるんだな。これ……」
「うん」
「もう、何回目だよ?」
「読むよ。何度でも」
そう言って、微笑む梨沙。
「それを読むとね、勇気が湧くの」
「勇気?」
「うん。あたし達も、こんな風に生きていくんだって」
「梨沙……」
その言葉が、想いとなって光貴の胸を満たす。
そっと手を伸ばして、梨沙の身体を抱き寄せる。梨沙は驚く様子もなく、ただ身を任せる。小枝の様な身体を抱きしめながら、光貴は眉を潜める。
「また、痩せたんじゃないか?」
「そんな事、ないよ。ちゃんと、食べてる」
光貴の腕に身を任せながら、梨沙は言う。
「そうか……」
言いながらも、その身の軽さを光貴の腕は敏感に感じ取る。
「なあ、梨沙」
「ん?」
「何か、して欲しい事あったら、何でも言えよ?」
「うん」
腕の中の少女の髪を撫でながら、彼は言う。
「食べたいものとかあったら、すぐに用意するから」
「うん」
「欲しいものとかも、何でもな」
「いつも言うよね。それ」」
光貴の言葉に辟易した様に、梨沙は笑う。
「欲しい物なんてないよ。ここの人達は、皆良くしてくれてる。先生も、看護師さん達も。それに……」
梨沙がいままでよりも深く、光貴の身体にしなだれかかる。
「光貴が、こうして毎日来てくれる」
「梨沙……」
「感謝してるよ。光貴がこの病院に入れてくれたから、あたしは今も生きていられる」
その言葉が、光貴の顔に影を落とす。
「対処療法だけじゃないか。治せてる訳じゃない」
「それで、十分だよ」
梨沙は笑う。儚く。けれど朗らかに。
「それがなかったら、きっとあたしはとっくに死んでた。ううん。あの負担が続いてたら、家族全員どうなってたか分からない」
父に甘える様に身を寄せる梨沙の頭を、光貴は撫でる。くすぐったそうな、甘い声が漏れた。
「おかげで、パパもママも自分の人生を生きれてる。本当に、ありがとう」
梨沙の両親が、彼女の元を訪れる事はほとんどない。病院と、光貴を信頼するが故か。それとも、もう全てを諦めているが故か。恐らく、後者だろう。光貴は、密かにそう思っていた。
「……パパ達を、怒らないでね?」
彼の思考を読み取る様に、梨沙が言う。
「光貴に会うまで、あたしを支えてくれたのは間違いなくあの人達。だから、疲れちゃったんだと思う」
自分を見放した両親を、なお想う。そんな彼女の優しさを、光貴は愛しく思う。だから、そっと抱きしめる腕に力を込める。
「痛いよ。光貴……」
言いながら笑う梨沙。
そんな彼女に、光貴はそっと顔を寄せる。
それに気づいた梨沙も、全てを受け入れる様に目を閉じる。
それは、とても自然なキスだった。
しばしの間の後、二人はゆっくりと顔を離す。
「……いけないんだ」
梨沙は笑う
「いいって言ってないのに、キスした」
「何言ってんだよ。今更」
言いながら、額をくっつける二人。クスクスと、笑い合う。
「ねえ。光貴」
「何だよ?」
「一緒に、いてね」
潤んだ様な瞳が、真っ直ぐに光貴を見つめる。
そこ込められた意味を悟り、光貴は一瞬息を呑む。
けれど、空いた間はほんの少しだけ。彼の口は、すぐに答えを紡ぐ。
「当たり前だろ」
ほんの一言。そこに、万感の想いを込める。
それを余す事なく受け止めて、梨沙は花の様に微笑んだ。