参
暗い部屋だった。
周りを囲むのは、無機質な漆喰の壁。高い天井には、頑丈な鉄格子がはめられた窓が一つ。そこから差し込む、月の光。それだけが、かろうじて部屋の光景を認識出来る程度に照らし出していた。
もっとも、それは酷く味気が無い。
剥き出しの床に、埃を被って積まれた荷物。その間に張り巡らされた、沢山の蜘蛛の巣。どう見ても、人の居住空間ではない。恐らくは物置として使われ、その後は長い事放置されているのだろう。
と、幾重にも積まれた荷物の間。そこに、動く人影があった。
影は二つ。
一人は学生服を着込んだ少年。もう一人は、黒い洋装を身に纏った少女だった。
「さてさてぇ。どうなるのかしらねぇ。光貴ぃ」
頭の脇で結った長い髪を揺らしながら、少女が言う。
「……うるさい……」
光貴と呼ばれた少年が、苛立たしげな声で答える。
けれど、少女は動じない。切れ長の目を面白げに歪めながら、言葉を続ける。
「ストックもぉ、そろそろ尽きるんじゃないのぉ?」
「うるさいって言ってるだろ!?」
少女の声の、からかう様な響き。それに耐えかねた様に、光貴が声を荒げる。
「あらぁ、怖い怖いぃ」
言いながら、身をすくめる少女。けれど、その様子に怯えの色はない。むしろ、光貴の挙動を楽しむ様に、その顔をニヤつかせている。
「やめてよぉ。八つ当たりはぁ。魅鴉、困っちゃうぅ」
何処までも人を食った態度。光貴が、忌々しげに息を吐く。
「くそ!!」
振り下ろした拳が、床を打つ。素手の拳が軋みを上げるが、気にもしない。
「あらあらぁ。大丈夫ぅ?」
それを見て、己を魅鴉と呼んだ少女が覗き込む。しかし、その顔には相も変わらずの薄笑みが張り付いたまま。心配している訳ではないのが、明白だった。
そんな彼女を、光貴が怒鳴りつける。
「大体、どういう事なんだよ!? “本”には、こうして封じておけって書いてあったんだぞ!? それが何で、こんな事になるんだよ!?」
激情のままに喚く彼の横で、身を屈めた魅鴉が細い指で何かを拾う。
「そうねぇ。それも、”術”の一部ってぇ、事かしらぁ……」
拾ったものを手の中で弄ぶと、キチキチと硬質な音が鳴った。
「“本”に書いてある事にぃ、間違いやぁ、まやかしはないわぁ。あんたがぁ、書いてある通りにしてたんだったらぁ、この事態もぉ、あるべき術の一つなのよぉ」
魅鴉の手の中にあるのは、一本の鎖。赤茶けた色に染まったそれには、奇妙な文字らしきものが幾つも刻み込まれている。
「大変だったのにねぇ? 『封呪の縛鎖』。手に入れるのに、幾ら掛かったのかしらぁ。でもぉ……」
薄く朱に塗られた唇が、クスリと笑う。
「こんな真似されちゃあ、意味ないわねぇ」
言いながら、辺りを見下ろす。
「全く、無茶するわぁ……」
その視線の先には、大量の血の跡と蛇の死骸の様に転がる鎖。手にしていたものを擦ると、干からびた肉片らしい欠片がガサリと指に纏わりついた。
「千切れないからってぇ、自分の身体の方を“削って”すり抜けるなんてねぇ。いくら痛みを感じないからってぇ、大概、イカれてるわねぇ」
自分の言葉に、クスクスと笑う魅鴉。その口が、「好みだわぁ」などと漏らしたのは、気のせいだろうか。
そんな彼女を睨みつけながら、光貴は苛立ちを抑えられない声で言う。
「お前の好みなんか知った事かよ!! それよりも、何とかならないのか!?」
その悲鳴にも近い声に、魅鴉は困った様に指を頬に添える。
「怒られてもぉ、困るわねぇ。少しは待ちなさいなぁ。いずれ、事は必ず動くからぁ」
「そんな悠長な事言ってられるか!! こうしてる間にも、効き目は消えていくんだぞ!!」
今にも掴みかかってきそうな勢いの光貴。そんな彼を片手で制すると、魅鴉はやれやれと息をつく。
「全くぅ。堪え性がないわねぇ。そんなんじゃあ、女の子に嫌われるわよぉ?」
「他の女なんか、どうでもいい!!」
「あらあらぁ。お堅い事でぇ」
光貴の言葉を聞いて、魅鴉はケラケラと笑う。笑いながら、しばし考える振り。やがて、ハァ、と小さく息をつく。
「まぁ、いいかぁ。あんた達にはぁ、楽しませてもらってるしぃ。特別よぉ」
言いながら、懐から何かを取り出す。見れば、それは幾枚かの黒い折り紙。それを口に咥えると、一枚を引き抜き手早く折り始める。魅鴉の手の中で、紙は見る見るうちに形を変え、一羽の鶴となる。一羽折り終わると、それをポトリと地面に落とし、次の紙を引き抜いて折り始める。一羽折っては落とし、一羽折っては落とし。それを繰り返すうちに、魅鴉の足元には十羽の黒い折り鶴が転がった。
「さぁてぇ。こんくらいでぇ、いいかなぁ?」
言いながら、魅鴉は自分の左手首に右手の人差し指を添える。白魚の様な指には、長く伸びた爪。それを手首に食い込ませると、鋭く滑らせた。
血漿の花が、真っ赤に散り咲く。
「あははぁ、痛い痛いぃ」
その行為にそぐわぬ表情で、血の滴る手首をブンと振る。赤い滴が幾つも宙を舞い、地面に転がる折り鶴の上に降りかかった。
「文字通りぃ、出血大サービスぅ」
おちゃらけながら、己の血が折り鶴に染み込むのを見届ける。そして魅鴉は、片足を上げるとダンッと地面を踏み鳴らした。
「起きなさいぃ」
その声が響いた途端、異変が起こる。
地面に転がっていた、十羽の折り鶴。物言わぬ物体である筈のそれが、ピクリと動く。
パタリ
薄紙の羽が空を打ち、その身がフワリと舞い上がる。
「さあ。お行きぃ。血の一滴ぃ、髪の毛一本、見逃すなぁ」
泡沫の命を得た鶴達は、その言葉に従う様に高度を上げる。その姿は見る見る小さくなり、月明かりの差し込む窓から外へと飛び去っていった。
「これでぇ、よしぃ。後はぁ、待ちましょう」
「あんな紙切れ、あてになるのかよ?」
鶴達が飛び去っていった窓を見上げながら、疑わし気に光貴は言う。
「あらぁ。酷いわねぇ。魅鴉がこの身を削って産んだ子達よぉ? 心配、いらないわよぅ」
「……時間がないんだ!!早く“アレ”を連れ戻さないと、梨沙が……!?」
途中で途切れる、光貴の声。魅鴉が右手を上げ、その細い指で彼の口を塞いでいた。
「少しぃ、落ち着きなさいなぁ。テンパる男の子なんてぇ、見ていて気持ちの良いものじゃあ、ないわよぅ」
「うるさい!!」
「大事な事よぉ。聞きなさいぃ」
喚く光貴に向かって、魅鴉は教え諭す様に言う。
「言ったでしょう。”本”に書いてある事はぁ、間違いなくあんたの願いの具現。今、こんな事になっているのもぉ、全てはあんたの願いに到達するための術道の一部。余計な事をしてぇ、道を歪ませれば、辿り着く場所にも、着けなくなるわぁ」
「だけどな……」
「信じなさぃい。あの”術”はぁ、間違いなくあんたを選んだのだからぁ」
「………」
そこまで言われては、もう反論する意味もない。
光貴は己を落ち着かせようとする様に、大きく息をついた。それを見た魅鴉が、その顔に笑みを浮かべる。
「そうそう。いい子ねぇ」
軽口を叩く魅鴉を一瞥すると、光貴は踵を返して出口へと向かう。
「何処へぇ、行くのぉ?」
「梨沙の所へ行く」
「こんなぁ、時間にぃ?」
「就寝前には、会って話をするのが約束なんだ。あいつは、待ってる」
それを聞いた魅鴉が、笑みながら茶化す様に言う。
「あらあらぁ。お熱い事でぇ」
からかいの混じった声を無視し、光貴は部屋を出て行った。
「可愛いわねぇ。全くぅ……」
遠ざかる少年の背を見送りながら、魅鴉はそう言って笑った。
◆
目覚めると、いつもと同じ光景が目に入ってきた。
白い天井。毎日、変わらない色。
ずっと。ずっと。変わらない朝。
けれど、今は違う事が一つ。
「……おはよう……」
視界の下から、声が聞こえた。
「ん……?」
ベッドをギシリと軋ませて身を返すと、ベッドの端に座ったつきながこちらを見つめていた。
カーテン越しの陽射しの中で、彼女が訊く。
「……今日の、予定は?」
「ないよ。そんなもの」
思ったとおりの答え。
つきなは、少し嬉しそうに微笑む。
「……学校とかは?」
「一昨日、行ってないって言ったじゃん」
「不登校なの……?」
少し、意地悪げに訊くつきな。
そんな彼女に、あやなはベッドに身を埋めながら、ムニャムニャと答える。
「普通に、行ってないんだって。あたし、戸籍もないし」
「……ふぅん……」
その言葉に、つきなはコクリと小首を傾げる。
「なら、あやなは日本にはいないんだね」
「日本だけじゃなくて、世界中にいないよ」
「そうか……」
するりと動く身体。
ベッドを鳴かせながら、つきなが這いよる。
「それなら……」
ツと伸びた指が、あやなの髪を絡める。
「あやなが在るのは、わたしの前だけだね……」
「あー……。そうなるかねー……」
「ふうん……。なら……」
ムニャムニャしながら、枕に顔を埋めるあやな。そんな彼女の頬に、つきなは慈しむ様に手を這わす。
「あやなは、わたしだけのものだね……」
「何言ってんのさ……。所有物は、あんたの方……」
あやなの声が、尻すぼみに消えていく。どうやら、また眠り込んだらしい。
それを見とめ、つきなはそっと身を屈める。
「……一緒だね。今日も、明日も。ずっと、ずっと……」
「……あー、そうだね……」
眠りの吐息に混じる様に、あやなが呟く。
つきなはほくそ笑むと、彼女の手を取り、そっと唇を寄せた。
物憂げな朝の、ささやかな一時だった。