終
そこは、酷くおかしな空間だった。
一切の光も。
一切の音も。
何も、無い。
まるで、深海の様。
けれど、その異様さを一番印象づけるのは、また別のもの。
グルリ、と周囲を見渡す。暗いのに、視界は妙に明瞭。そして、その中に映るのは――
「棚」だった。
一つ一つが馬鹿馬鹿しい程に大きな、黒塗りの棚の群れ。それがいくつも列を成して、視界の果てまで延々と続いていた。その全てが書架の様で、中にはギッシリと書が詰め込まれている。
小説。漫画。随筆。図鑑。様々な体を装っているけれど、その題にも著者にも、覚えのあるものは一つもない。
日本語、英語、中国語、フランス語、ラテンにハングル。中には、何処のものかも知れない、奇怪な言語も。
その様は図書館の様にも思えるけど、どうにも気配が異質。
全くもって、得体のしれない空間。
そんな中を、“彼女”はスタスタと歩いていく。
満ちる異様に、気を取られる事もなく。平然と。
と――
「お帰りなさい」
突然、静寂が揺れた。
不意にかけられた声。
唐突に終わりを告げる、書架の列。
クス クス クス
薄闇の向こうから、声が響く。
「随分と、遅れましたね。そんなに、別れが惜しかったですか?」
「馬鹿言わないでぇ。あんなぁ、世間知らずの青瓢箪。全然、タイプじゃあないわよぅ」
そんな事を言いながら、書架の群れの中から歩み出る魅鴉。
その彼女を迎えるのは、円卓の中心に座する少年。そして、円卓の周りに立つ三人の人影。
「そうかい?君にしては随分とご執心の様に見えたけどね」
「そうそう~。かな~り、本気だったよねぇ~」
夜色の少年、煌夜の言葉に水波模様の着物の少女、流凪が頷く。
「五月蝿いわねぇ。抉るわよぉ?」
「おやおや、そんなに怒るあたり、当たらずとも遠からずだった様だね。あんなジュブナイルに惹かれるとは、君にしては珍しい事だ」
「五月蝿い。黙ってろ外野!」
白髪の少女、叉夜にまでからかわれ、流石に魅鴉の声に怒気がこもる。
「おお、怖い。煌夜、助けておくれ」
おどけた声でそんな事を言いながら、煌夜の影に隠れる叉夜。煌夜が迷惑そうに溜息をつく。
「姉さん。そうやって他人をからかうのは結構だけど、その後始末を押し付けるのはやめてくれないかい?」
「おや、つれないね。久々の邂逅だ。甘えさせてくれてもいいだろうに」
「生憎、近親相姦の気はないよ」
それを聞いた魅鴉が、ボソリと言う。
「よく言うわねぇ。十分シスコンなくせにぃ」
ギロリ
その言葉に、今度は煌夜の目が剣呑に光る。
「……やっぱり、君とは一度話し合う必要があるかな?」
ザワリと立ち昇る殺気。
魅鴉が、楽しそうに身構える。
「あらぁ、珍しいわねぇ。そっちから、その気になるなんてぇ。図星だったぁ~?」
バチバチバチッ
顕現する八雷。ケタケタと笑いながら、魅鴉は言う。
「良いわよぅ。こっちもぉ、あんたにゃ色々言いたい事あるしぃ」
ガチリ
主の意思に沿う様に、八雷達が牙を鳴らしたその時、
シュルリ
唐突に、脇から伸びてきたマフラー。それが、魅鴉の視界を塞いだ。
「げっ!?」
途端、魅鴉は引きつった悲鳴を上げる。
「ちょ、ちょっと!!何すんのよ!?切人!!」
「すいませんね。でも、”ここ”で荒事は控えてもらいましょう」
慌てる魅鴉に笑いかけながら、マフラーの少年――切人は言う。もっとも、その声音は笑っていないが。
「下手に暴れられて、天姫の髪に汚れでもつけられたら困ります」
静かな圧の篭った声。それに応じる様に、魅鴉の視界を覆うマフラーの表面にピシピシと幾筋もの光が走る。
「わ、分かったわよ!!分かったから、やめて!!」
必死にマフラーから目を逸らしながら、叫ぶ魅鴉。そんな彼女を見て、切人は今度こそ本当の笑みを浮かべながら言った。
「いい子ですね」
「さて、皆さん。この度も、ご苦労様でした」
円卓の中心に座した切人は、そう言って自分を囲む少年少女達に向かって頭を垂れる。
「お陰さまで、“代価”の回収も滞りなかった様で。感謝いたします」
そして、自分の後ろを肩越しに振り返る。
そこにいるのは、寝椅子に横たわる一人の少女。
新月の色よりなお深い黒に彩られた、長い髪。小柄な身を、黒と白が混沌と絡み合った奇妙な模様の和服が包んでいる。髪の間から覗く顔は、ぞっとするほどに整っている。眠っているのだろう。その瞳は薄く閉じられ、寝椅子に委ねられたその細い身体は身動ぎ一つしない。
そんな少女を愛しげに見つめると、切人はツと上を見上げた。
「さて。来たようですね」
「ん~?」
「ああ、その様だね」
切人の言葉に応じる様に、四人が上を見た。
薄闇に包まれた空間。そこに、四色の光が舞っていた。
切人は、それらを見て頷くと、誘う様に手を差し上げる。
「さあ。おいでなさい」
彼がそう言った途端――
シャン……
涼やかな音と共に、光が連なる様に降りてくる。
シャラララララ……
鈴なる音と共に降りる光の行先は、眠る少女――天姫。静かに上下する、彼女の胸。
そこには、翡翠色の勾玉が一つ、飾られている。
降り来た光は、その勾玉の中に吸い込まれ、そして――
ララン……
消えた。
そして、しばし。
ニコリ
眠る天姫の顔に、微かに笑みが浮かんだ。
それを見た皆が、口々に言う。
「あっきー、笑ってるね~」
「苦労したんだものぉ。当然でしょ」
「姫君のお気に召した様で何より……と言った所かな」
天姫の笑む様を見て取った切人も、満足げに微笑む。
「今宵の夢、”対価”として確かに受け取りました」
その言葉に、場の何人かがホッと息をついた。
「じゃあ、今回はこれでお開きと言う事かしらぁ」
「あ~あ。くたびれた~」
口々に勝手な事を口走る少女達に、切人は苦笑する。
「はい。皆さん、どうぞ普段の生活にお戻りください。また、事があらばお呼びしますので」
それを聞いて、叉夜が言った。
「それではせいぜい、遠い事を祈ろう。自分の時間は大切にしたいからね」
そして、帽子を被り直しながら身を翻す叉夜。魅鴉と流凪も、それに習う様に背を向けた。
薄闇の向こう。遠ざかっていく足音達。それを見送った切人は、ふと傍らに目を向ける。
そこには煌夜が一人、その姿勢のまま佇んでいた。
「君は、行かないんですか?」
切人の問いに、頷く煌夜。
「少々疲れたからね。ここで暫く、休んでいくよ」
その言葉に、切人が微笑む。
「構いませんよ。それなら、お茶の一杯も提供しましょうか?」
「じゃあ、頼もうかな」
そう言うと、煌夜は円卓に頬杖をついて身を預ける。
「どうぞ」
しばしの間の後、出されたのは淡く香る紅茶。それを一口啜ると、煌夜は切人に向かって囁く様に問うた。
「……天姫は、起きないのかい?」
「起きませんよ」
答えは、酷く簡潔だった。
「世界は、天姫が知るには些か汚れが過ぎます」
そう言って、眠る天姫の髪を一束すくうと、切人はそれに唇を寄せる。
「この娘は、このままでいいんです。このまま、夢だけを見ていれば」
「……意味のない事だね」
「意味を求めますか?ぼく達、理外れに?」
切人の問い返しに、今度は煌夜が即答する。
「その問いも、意味ない事だよ」
「……ですね。でも、それが理外れでしょう?」
「………」
煌夜は、黙ってお茶を啜る。
それを肯定と受け取ったのか、切人は薄く笑う。それは、何処か諦観した様な、薄い、薄い笑い。
途切れる会話。
二人共が、しばしの静寂を楽しむ。
と――
ピクリ
お茶を飲んでいた煌夜が、視線を上げた。
「切人……」
「ええ、お客様です」
そう言って、切人は薄闇の向こうに視線を向ける。
「さて、次は誰に行ってもらいましょう。唱未さんにでも、頼みましょうか?」
独りごちる様に呟きながら、チラリと後ろを見る。
そこには、変わらず寝息を立てる天姫の姿。その愛しい姿に、語りかける。答えはないと、知りながら。
「さあ。かの方は、どんな夢を見せてくれるのでしょうね……?」
辺りに満ちる薄闇。果てなく伸びる書架の群れ。その奥から、微かに、だけど確かに足音が響いてきていた。
終わり