壱
その夜、吉羽光貴は夢を見た。
夢の中には”彼女”がいて、ニヤニヤ笑いながら話しかけて来た。
「見たわよ。彼女とは宜しくやってる様ね」
言いながらカツカツと近づいてくると、彼の顎に手を当ててクイッと上に上げた。
「良い顔になったわね。今なら、仕事抜きで付き合ってあげてもいいわよ?今晩なんか、どう?」
顔を赤くして「何を馬鹿な」と返すと、フフッと笑って額を指で弾いてきた。
「当たり前でしょ。OKなんてしてたら、この場で頭かち割ってるわ。筆下ろしの相手なら、お姫様に頼みなさいな」
本気か冗談かも分からない言葉を口にして、ケタケタと笑う。半ば憤慨しながら一体何をしに来たのかと問うと、彼女は右手を上げた。
その手に持たれていたのは、”本”だった。ハードカバーの小説の様な外観に覚えがあった。そう。それは、自分に”術”を示したかの本だった。
「“見届け”に来たのよ。最後の仕事」
そう言う彼女の手の中で、本が光に包まれる。輝きに溶けて、宙に昇るそれを見送ると、彼女は笑みを浮かべる。
らしくない、穏やかな笑みだった。
「何だかんだで、役に立ったでしょう?あんたの願いは、成ったのだから」
確かに、そうだった。梨沙を永らえる術も、彼女を救う術も、結局は本の示す通りに動いた結果。その本がなければ、自分はただ無力に梨沙を送る事しかできなかっただろう。全ては、”彼ら”の掌の上の事。彼がそう思った時、
「勘違いするんじゃないわよ」
”彼女”が言った。
「”あれ”はあくまで”術”を示しただけ。実際に行動したのは、あんた。胸を張りなさい」
その言葉に、ポカンとする。今までとは別人の様な言い様。思わず、何か悪いものでも食したのかと訊いてしまう。
それを聞いて、彼女は「酷いわね」と言ってやっぱり笑う。
「まあ、らしくはないわね。これで最後だし、少し感傷的にでもなったかしら?」
”最後”。その言葉が、妙に切なく響いた。
「何、しょげた顔してんのよ。そんな仲じゃなかったでしょうに」
そう言うと、彼女は彼の髪をかき上げる。
「まあ、これで本当に最後。あんた達の劇、悪くなかったわよ」
額に感じる、唇の感触。そして、彼女はクルリと背を向けて手を振る。
「じゃあねぇ。せいぜい、大事に生きるのよぉ」
いつしか聞き慣れた、鼻にかかった甘い声。その声が、最後だった。
光貴が目覚めた時、窓の外はまだ月明かりに満ちていた。
机の上を見ると、そこにあった筈の本は跡形もなく消えていた。
残るのは、額の甘い感触と微かな香水の香りだけ。
微かに残る、胸の痛み。それを抱いて、光貴はまた眠りについた。
……待っていた。ずっと、待っていた。この身が滅びる、その時を。
全てを見限り、全てに絶望して幾星霜。どんなに傷つけても。どんなに求めても。死する事が出来ないこの身体。
不変なんて、無意味なもの。
永遠なんて、空虚なだけ。
だから、不変のわたしに意味は無い。
だから、永遠のわたしには何も無い。
意味の無いものは、在ってはいけない。
何も無いものは、在ってはいけない。
だから、あたしも在ってはいけない。
なのに、あたしは在る。在り続ける。
その真理と矛盾に気づいてから、わたしは探し続けた。
わたしの在る意味を。
わたしが持つべきものを。
でも、そんなものは見つからなくて。
そんなものは、何処にもなくて。
そして、わたしは知った。
わたしは、理外れなのだと。この世界に、在ってはいけない存在なのだと。
理外れは、歪ませる。この世界の規律を。あるべき姿を。だから、わたしは探した。探し続けた。色んなものを、歪ませながら。わたしが、消える術を。
その果てに行き着いたあの場所。そこでわたしを求めた術は、導いてくれる筈だった。わたしが求める、滅びの場所へ。
でも、違った。その術が導いた場所にあったのは、遥か昔に求めたもの。幾万の時の果てに、諦めた筈もの。
そこで、わたしは知った。わたしはまだ、求めていたのだと。諦めては、いなかったのだと。
だから、もう違えない。もう、間違えない。
わたしの在る意味。わたしを埋めてくれるもの。
離さない。なくさない。逃がさない。
絶対に。永遠に。滅日の果てまで。
貴女はわたしのもの。わたしだけのもの。
共に在ろう。共にいよう。
星の生命が絶え、神の御霊が薄れるその時まで。
ねえ。
――あやな――
……その部屋には、灯りが無かった。代わりに満ちるのは、開け放たれたベランダから差し込む、蒼い蒼い月明かり。
月色に染まる空間。その中で、一人の少女が、一人の少女を組み敷いていた。
吹き込む夜風に混じる、ギシギシと軋む音。その中に、あえかな音が鳴る。
「やめて……。やめ……ングッ!!」
すすり泣く様な声が、くぐもった息遣いに塞がれる。
組み敷く少女が、組み敷かれる少女の口を吸っていた。
否。吸っているのではない。かの少女は、組み敷いた少女の口に何かを含ませていた。
まるで、親鳥が雛に餌を与える様に。
クチ……クチュ……
しばしの間続く、湿った音。
重なる二人の口から溢れる、朱い筋。
強く香る、金木犀の香り。
やがて、湿りを帯びた声が甘く囁く。
「ほら……、これで、大丈夫……」
優しくなだめる様な言葉。けれど、すすり泣きの音は止まらない。
「やめてよ……。もう、やめてよ……」
「どうして……?これは、貴女が求めた事……。そして、わたしが望んだ事……」
「違う……。違うよ……。こんなの……違う……」
「違わないよ……」
懇願する声は、けれど優しく否定される。
「あやな(貴女)が求めたから、かの”術”はここへ導いた。わたしが望んだから、あの”術”はここに導いた……」
「でも……でも、これじゃつきなが……君が……」
なだめる声は、酷く冷たい。
「わたしなら大丈夫……。わたしは、永遠。貴女の糧に、なり続けられる……。ずっと……ずっと……」
「違うよ……。そうじゃない……。そんなんじゃあ……」
「大丈夫だよ……」
聞く耳は、持たれない。
「狂うと言うのならば、一緒に狂ってあげる……。だから……」
話す言葉に混じるのは、もはや確かな狂気の色。
「逃げちゃ、駄目……」
冷たい声が、優しく告げる。
「逃げないから!!何処にも行かないから!!だから――」
ギシリ
また響く、軋む音。そして――
「んんっ……!!」
小さく鳴る、湿った音。
静かな、笑い声。
金木犀の香りが、さらに強く、鮮やかに香った。
甘い香りと声に満たされる、薄闇の部屋。
その部屋の床に、一冊の文庫本が落ちていた。
無造作に。顧みられる事もなく。
放り出されていた。
と――
ポウ……
本が光に包まれる。
ベッドの上で、身を重ねていた少女が、長い黒髪の間からチラリとそれを見る。けれど、すぐに興味なさげに目を逸らすと、また行為へと身を委ねていく。
捨て置かれた本は、寂しげに。ただ寂しげに。差し込む月の明かりの中へと溶けていった。
「行ったか~……」
かの少女達が睦み合う建物の下。一つの人影が立っていた。
長大な包みを背負った影は、藍色の髪をした少女。
彼女は、月空へと昇っていく光を見届けると、ホウ、と一息、息をついた。
「これで~、ボクの仕事も~終わりだね~」
そう言って、建物の一番上の窓を見る。
「確かに、望みは成ったよ。あとは、君達次第。離れるんじゃ、ないよ。もっとも……」
紡ぐ言葉は、もう一つ。
「それが、本当にあるべき姿かは知らないけれど……」
そして、彼女はクルリと踵を返す。
「さ~て。帰って寝よ~っと~」
そんな声と共に、少女の姿は夜闇の向こうへと消えていった。