肆
「お世話になりました」
僕の横に立った梨沙は、そう言って見送りに来た看護師長と担当医にお辞儀をした。
対する看護師長と担当医は、笑顔で応じながらも何処か腑に落ちなげだ。
無理もないかもしれない。何せ、目の前で凛と立って微笑んでいる少女は、ほんの一週間前まで死にかけていた重病人なのだから。それが、特にこれといった治療もなしに急激に回復したのだ。現代医学を信じる彼らにとっては、全く訳が分からないといった所だろう。
もっとも、成す術なしと半分以上匙を投げていた手前、多少の気まずさもあるのだろうけど。
そう。梨沙は今日、退院する。
「なあ。本当に車、いいのか?」
「うん。歩いていく。歩きたいの」
病院の外へ出た梨沙は、そう言って階段を軽い足取りで降りていく。
「おい、無理するなよ」
「大丈夫。一週間、しっかりリハビリしたんだから」
そう言う梨沙に、もう病気の影はない。長く入院していたが故の筋力の低下や体力不足などはあるけれど、それ以外はもうすっかり健常者だ。
「光貴、荷物、大丈夫?」
僕の前に立って歩く梨沙が、ふと振り返ってそんな事を訊いてきた。
「馬鹿にするな。これくらい、どうって事ないぞ」
僕はそう言って、背負っていたショルダーバックを肩にかけ直す。バックの中身は、梨沙の荷物。長い入院生活のせいでそれなりにあるけれど、今の僕にとってはものの数ではない。目の前で、梨沙が元気に歩いている。それを見るだけで、力はいくらでも湧いてきた。だけど、そんな僕を見て梨沙は言う。
「だけど、ほら。汗かいてる」
そして梨沙は取り出したハンカチで僕の額に浮いていた汗を拭うと、少し先にある公園を指差して言った。
「あそこ。少し、休んでいこう」
拒絶する理由はなかった。
「ふう」
空いていたベンチに腰掛けた僕は、ちょっとだけホッと息をついた。
「光貴、はい」
近くの自動販売機で、梨沙がエナジードリンクを買ってきてくれた。
「サンキュ」
そう言って代金を渡そうとすると、首を振って断ってきた。「あたしの奢り」だそうだ。折角なので、好意はありがたく受けておく事にする。
プシュッ
缶の蓋を開けると、飲み口に口をつけてゴクゴクと飲む。冷たい液体が喉を下り落ちる感触が心地いい。プハッと口を離して息をつくと、隣に座ってこっちを見ている梨沙に気づいた。
「何だよ?」
「うん。こんな生き生きとした光貴を見るの、久しぶりだなって思って」
そう言ってニコニコと笑う梨沙。ふと見ると、梨沙の手の中にあるのはミネラルウォーターのボトルだった。
「水なんかでいいのか?これ、飲むか?」
僕が飲みかけの缶を差し出すと、梨沙はちょっと困った様な顔をして首を振った。
「ごめん。エナジードリンクはちょっと……」
それを聞いた僕は、ハッとする。そう。僕はエナジードリンクに”アレ”を混ぜて、梨沙に飲ませていたのだ。
「悪い。そうだよな。嫌だよな……」
「ううん。光貴はあたしの事を想ってやってくれたの。気にしないで」
しょげる僕を、梨沙はそう言って気遣う。
「でもさ……」
「いいから!!しっかりしろ!!吉羽光貴!!」
バァンッ
「いって!!」
大きな声と一緒に、屈めていた背中を思いっきり叩かれた。
「な、何すんだよ!?」
思わず怒鳴り返すと、梨沙は「キャッ!こわーい」とか言いながらケタケタと笑う。その笑顔が眩しくて、僕のささやかな怒りはすぐに引っ込んでしまう。
そう。これが本当の梨沙。僕の、梨沙だ。僕は、すっかり嬉しくなる。
と、笑っていた梨沙の瞳が遠くに向いた。
「それにしても、もう一週間か。早いね」
「……ああ、そうだな……」
梨沙の言わんとする事を察し、僕もそう返す。
「夢……みたいだったね」
「これでもかってくらいの、悪夢だけどな」
そう言って、僕はあの夜に思いを飛ばした。
「ごちそうさま」
そう言って、あやなが口を拭う。
彼女の前にいた怪異の姿は、もう跡形もない。己の身体の何倍もあった筈の巨体を胃の腑に収め、破界の獣を宿す少女は満足げに息をつく。
「食べちゃったよ……。”アレ”を」
「魅鴉も大概だけど、あの娘も相当悪食ねぇ」
呆れか感嘆か。そんな事を言い合う流凪達の前を、スタスタと歩いていく者がいる。サラサラと流れる長い黒髪。それがつきなだと悟った魅鴉が、思わず身を乗り出す。
「あ!!ちょっと、あんた!!」
「待ちなよ」
慌てて飛びかかろうとする彼女を、煌夜が止める。
「何よ!?邪魔しないでくれる!!」
「余計な争いは、する必要はないだろ?」
苛立たしげに噛み付く魅鴉を、煌夜はいつもの様に平々淡と諭す。
「余計な事?」
「見てごらん」
示す先には、スルスルと歩いていくつきなの姿。
「光貴……」
「梨沙、下がってろ……」
それを見た光貴が、梨沙を庇う様に身構える。けれど、つきなの瞳はすでに彼らを見ていなかった。
「……いけない娘……」
言いながら、あやなの後ろに立つ。
ビクリとすくみ上がるあやな。
その首に腕を回して抱きつくと、その耳元で囁いた。
「わたしと言う者がありながら、あんな下衆で口を汚すなんて……」
「つきな……あたしは……」
「言い訳は、聞かない」
そう言うと、あやなの顔を掴んで強引に後ろを向かせる。
「んぐ!?」
抵抗する間もなく、口を塞がれるあやな。つながる二人の口から、ツウと一筋、血が下だる。
「ん……!んん……!!」
淡く香る金木犀の香りの中で、あやなの喉がコクリと動く。
「……はぁ……」
艶かしい吐息と共に、つきなが口を離す。二人の間に紅い雫が糸を引き、あやなの襟に甘い模様を残した。
ガクリ
口を押さえて崩れ落ちるあやな。それを追う様に、つきなも膝を折る。
「ねえ、あやな……。もう、何の心配もいらないよ。貴女の空ろは、全てわたしが埋めてあげる……。だから……」
あやなの身体をかき抱き、その顔を彼女の背にすり寄せる。そして、紡ぐ言葉は一つだけ。
「わたし以外に、気を移しては駄目……」
そしてつきなは、妖しく笑った。
「お楽しみの所、悪いがね」
そんな二人に声がけるのは叉夜。邪魔をされ、不機嫌そうな顔を向けるつきなに向かって、彼女は言う。
「見ての通り、こちらにはもう時無を必要とする者はいない。従って、彼らもこれ以上君に関わりはしないだろう。これを持って、手打ちとしてくれないかな?」
「!!」
思わず息を呑む光貴と梨沙。そんな彼らを、つきなは舐める様に見る。
一拍の間。
そして――
「構わない」
答えは、簡単だった。
「余計な手を出してこないなら、わたしにもこだわる理由はない。お互い、想いは叶った様だし。もう、終わりにしてもいい」
「ああ。そう言ってもらえると助かるよ。やはり聡明だね。年の功と言うやつかな?」
「口には気をつけて。刻むよ?」
そう言って笑う、二人の理外れ。と、つきなの髪がザワザワとざわめき始める。
「おや?何処へ行くのかな?」
シュルシュルと渦巻く髪を身に纏っていくつきなとあやなを見て、叉夜が問う。
「わたし達の家に帰る。病院は、人の匂いが濃すぎて好きじゃない」
そう答えながら、つきなは光貴と梨沙に視線を向ける。
「それなりの付き合いだったね。鬱陶しかったけど、貴方達の在り方は嫌いじゃなかった」
シュルシュルシュル
髪が舞う。
「人間の一生はほんの一時だけど、貴方達なら相応の生を送れると思う。せいぜい、大事にして」
そして、笑みを含んだ声で彼女は言う。
「さようなら」
その瞬間、渦巻く髪の隙間からあやながチラリと後ろを見た。その視線の先にいるのは、煌夜。助けを求める様な眼差しが、彼に絡む。けれど、それは無駄な事。煌夜は軽く、手を振るだけ。あやなの目が、絶望に潤む。そして、つきなの声が一言。
「さあ、帰ろう」
そして、二人の姿は霞の様に薄れて消えた。
「やれやれ、これで一段落と言った所か」
そう言うと、叉夜は梨沙達に向き直って言う。
「さあ、梨沙。君の術も成っただろう?”あれ”を、返しておくれでないかい?」
その言葉に「はい」と頷くと、梨沙はパジャマの胸ポケットに手を入れる。取り出されたのは、たった一枚のメモ用紙。それを、叉夜に向かって差し出す。
「確かに」
メモを受け取ると、叉夜は薄く微笑んだ。
「さあ、お行き」
その言葉にのる様に、叉夜の手の中のメモ帳が光に変わる。天に昇るそれを見送ると、叉夜は同僚達に振り返る。
「さて。これで皆の役目も終わりだね。私達も、帰るとしよう」
総締めをする様に、叉夜が言った。
「最後に出てきといてぇ、仕切るなっつぅのぉ」
「でも~まぁ~、もう~やる事ないのも~確かだけどね~」
起き上がった流凪は、う~んと伸びをしながら露羽を抜く。
「じゃあ~、崩すよ~?いいね~?」
流凪の言葉に、煌夜が頷く。
「ああ、頼むよ。外の時間も、頃合だろう」
「はいよ~。じゃあ、行っくよ~」
そして、露羽が大きく一閃。
ビキンッ
空間に入る、一筋の断ち筋。そこから、ゆっくりと世界が崩れ始める。
「お、おい!!何したんだよ!?」
抱き合いながら狼狽える、光貴と梨沙。そんな彼らに向かって、煌夜が言う。
「隠里世……仮初めの世界を崩すだけだよ。君達が、君達の世界に戻れる様にね」
その言葉の間にも、崩れ続ける世界。やがて、煌夜達の姿が崩れる風景の向こうに消え始める。
「お、おい!!お前ら!!」
「何。心配する事はない。私達は、私達の居場所に戻るだけさ」
呼びかける光貴に、叉夜が答える。
「ボク達は所詮~、理外れだからね~。現世に居場所はないんだよ~」
「かと言ってぇ、”あっち”は退屈に過ぎるんだけどねぇ……」
流凪と魅鴉の姿も、崩れる世界に消えてゆく。
「お前ら……」
「叉夜さん!!」
「うん?」
咄嗟に呼びかける梨沙に、叉夜が応じる。
「あの、ありがとうございました!!」
「お礼は筋違いだね」
感謝の意も、崩れる世界に阻まれる。
「私達は、自分の仕事を成しただけさ。役目は終わり。後は、君達で勝手にやってくれ給えよ」
「お二人共~。お幸せにね~」
流凪の声を最後に、仮初めの世界は崩れて消えた。
気づくと、光貴と梨沙は抱き合って病院の廊下に横たわっていた。辺りには、かの騒ぎの痕跡は微塵もなく、明るい朝日だけが静かに彼らを照らしていた。
「悪夢か……。そう言ってしまえば、そうかもね」
「悪夢以外の、何だって言うんだよ」
そうぼやくと、僕は最後の一口をあおって、空になった缶を屑カゴに放った。クルクルと弧を描いた缶が、スポリとカゴに収まる。
「ストライク。お見事」
そう言って、梨沙が笑う。釣られて、僕も笑った。
「さて、そろそろ行くか?」
「う~ん。もうちょっと」
腰を上げかけた僕を、梨沙がそう言って引き止める。その顔は、涼やかにさざめく梢
と、降り注ぐ陽の光を見あげていた。
「素敵だね」
彼女が言う。
「世界って、本当に素敵」
その目尻に涙が浮いているのを見て、僕はもう一度ベンチに腰を下ろした。
見上げれば空は真っ青に澄み渡り、さんさんと輝く光に満ちている。そう、これから僕達は歩いていく。この光の中を。
真っ直ぐな道じゃない。歩きやすい道でもない。僕には、家の柵がある。今まで、好き勝手やった責任も取らなくちゃならない。
梨沙は、今まで止まっていた時間を取り戻さなくちゃいけない。彼女がなくした時間は、決して短くはないのだから。きっと、これからの生活で同じ時を共有していく事は難しくなる。
でも、そんな事は何でもない。この一年間、歩き続けた真っ暗な道。あの日に見た悪夢。僕らには、それをくぐり抜けた絆がある。ちょっとやそっとじゃ、切れやしない。
あの夜、去り際に”あいつ”は言った。皮肉たっぷりに。
――人間の一生はほんの一時だけど、貴方達なら相応の生を送れると思う。せいぜい、大事にして――
上等だ。その通りの、いや、それ以上の一生を送ってやる。何処かで、見ていればいい。僕達の、人間の底力を。その力が、生命力が、今の僕達には満ちているんだ。
横を見る。梨沙はまだ、潤んだ眼差しで空を見上げている。僕も習う様に空を見る。そこには、真っ青な大空が広がっている。ああ、綺麗だな。本当に、綺麗だ。何だろう。僕まで、視界が滲んできた。梨沙は、一心に空を見ている。僕はバレないように、こっそりと目を拭った。