参
殺意の黒流に囲まれて、それでも光貴と梨沙は互いの身体を離さなかった。互いの温もりを抱きしめ合いながら、彼らは誓う。
「絶対に、守るからな。梨沙」
「光貴も……生きて……」
互いを守るために、腕に力を込める二人。
つながる想いの時は一瞬。けれど永遠。そして、冷たい閃が二人を切り裂いて――
――否、その時は、訪れなかった。
いつまでも訪れない、今際の苦痛。それを不信に思った光貴が、目を開ける。
「な……?」
思わず、息を呑む。
視界が、真っ赤に染まっていた。ただし、血の紅ではない。
それは円。煌々と輝く、複雑な模様を内包した朱い朱い真円。それが、クルクルと回りながら、殺到する髪の群れを阻んでいた。
「これは……!?」
突然の事態に当惑するつきな。その耳に聞き覚えのない声が響く。
「悪いがね。それをさせる訳にはいかないんでね。引いてもらうよ」
瞬間、朱明かりの円陣が回転を速める。
「ちぃっ!!」
咄嗟に飛びずさるつきな。しかし、間に合わない。回転する円陣が、真紅の旋風となってつきなにぶち当たる。
「ぐぅっ!!」
巻き込まれたつきなはクルクルと宙を舞い、そのまま床に叩きつけられた。
「おや?」
「ありゃ!?」
「嘘!!今の術って!!」
その様を見た魅鴉達が、目を丸くする。
一方、訳が分からないのは光貴。呆然とするその背後から、もう一度かの声が響く。
「ふむ。危機一髪とは、まさにこの事だね」
思わず振り返った光貴は、言葉を失った。
いつの間にか、彼らの背後に見た事のない少女が立っていた。
透き通る様に白い肌に、白銀の髪。静かに細められた瞳の色は深紅。
全身をゆったりと包む闇色のローブと、目深に被ったつば広帽子。
その姿はまるで、昔話に出てくる魔法使いを思わせる。
手からキラキラと朱色の燐光を散らしながら、少女は深紅の瞳を光貴……否。”梨沙”へと向ける。
「どうやら、持ちこたえている様だね。よく、頑張ったじゃないか」
「……光貴が、いてくれたから……」
語りかける少女に、梨沙はか細い笑みを向ける。それを聞いた少女は、その眼差しを光貴へと向けてフフッと笑う。
「……だ、そうだよ。男冥利に尽きるね。色男君」
「……誰だよ……?お前……」
呆気に取られて問う光貴に、少女はまたフフッと笑う。
「私の事なら、彼女達が知っていると思うがね」
そう言って、指差す先には魅鴉達の姿。彼女達も、光貴と同様呆気に取られた顔。もっとも、例によって煌夜だけは平然としているが。
「叉夜お姉さま……」
「何で、さやりんまで……」
問いかける魅鴉と流凪に、叉夜と呼ばれた黒衣の少女はトントンと頭をつつく。
「おいおい、少しは頭を使い給えよ。私は君達の同僚だ。なら、答えは一つじゃないか?」
「ああ、なるほど」
そこで、合点がいった様に入る相槌。見れば、煌夜が一人納得した様な顔をしている。
「”その娘”も、うちの客だった訳だ。そして担当は貴女だと。ねえ、姉さん」
「そう言う事さ。煌夜、久しぶりだね。息災だったかい?」
「そんな事、訊かなくても分かるだろうに。相変わらずだね。姉さんは」
淡々と交わされる会話。おいてけぼりを食った全員が、忘我の状態。だから、気付かなかった。
――”彼女”が、動いた事に――
「梨沙……お前……」
混乱した状態のまま、光貴が梨沙に問う。当の梨沙は、苦しい息の下で微笑んでペロリと舌を出す。声の出ない彼女の代わりの様に、叉夜が言う。
「誇りに思い給えよ。彼氏君。この娘は病床の身ながら、君への想いだけで我らが宇への道を開いたのさ。君の彼女への想いも賞賛に値するが、こちらも大したものさね。だから……」
光貴を見つめていた朱い眼差しが、スウと細まる。そして、薄い唇がこう囁いた。
「最後まで、信じ給えよ」
「……え?」
と、
フッ
光貴と梨沙の上に、影が落ちた。
思わず視線を上に向ける。少女が一人、彼らを見下ろしていた。ユラユラと揺れる、亜麻色のショートカット。それは、さっきまで向こうで座り込んでいた筈の少女。
あやな、だった。
「え?」
「あの娘、いつの間に!?」
驚く魅鴉達を他所に、あやなは虚ろな瞳で光貴達――否、梨沙を見つめていた。
微かに開いた口が、ブツブツと呟く。
「……食べ物が……いるの……」
「……え?」
「……食べないと……何かを、食べないと……」
うわ言の様に続く言葉。その意図は、分からない。
「食べなくちゃ……食べなくちゃ……食べなくちゃ……」
「あやな……?」
異常に気がついたつきなが呼びかけるが、反応はない。あやなは、呟き続ける。
「食べなくちゃ……食べないと、食べないと……」
「……お前……」
「……あたしは、つきなを食べてしまう……」
漂い始める異様な空気に、光貴は梨沙を抱いたまま後ずさろうとする。しかし、
トンッ
背中が、何かに当たる。
振り返ると、退路を断つ様に叉夜が立っていた。
何してるんだよ?
光貴がそう言おうとした時、
「だから……」
最後の言葉が、囁いた。
――食べさせて――
次の瞬間、あやなが光貴の腕の中の梨沙に、倒れ込む様に襲いかかった。
「―――――っ!!」
悲鳴はなかった。
ただ、無音で飛び散る血飛沫が、目を見開く光貴の視界を紅く染めた。
忘我の時は、一瞬だった。
我に帰った光貴の目の前では、あやなが梨沙の首に喰らいついている。
「―――――っ!!」
悲鳴を上げる暇さえも、惜しかった。
光貴は咄嗟にあやなの髪を掴み、引き剥がそうとした。しかし、離れない。あやなの牙は、梨沙の喉笛深く食い込んだまま。目を見開いた梨沙が、喘ぐ様に開けた口からヒュウヒュウと空気が漏れる音がする。光貴は咄嗟に、落ちていた神剣の欠片を拾い上げる。鋭利な刃が皮膚に食い込むのも構わず、振り上げる。しかし、
パシッ
振り上げた手の、動きが止まる。
「!?」
振り向くと、叉夜が欠片を握り締める手首を掴んでいた。やれやれと言った顔をしている彼女に向かって、怒鳴りつける。
「何してんだ!?離せよ!!」
しかし、叉夜は離さない。強引に振りほどこうとしたが、ビクともしない。少女とは思えない力だ。困った様な声で、叉夜は言う。
「やれやれ。どうも君は直情的過ぎるな。言っただろう?最後まで信じろと」
「何言ってんだよ!!このままじゃ梨沙が!!」
ペシ
猛る光貴の額を、叉夜の掌が軽く打った。途端――
「う……!?」
身体から、潮が引く様に力が抜けた。振り上げていた腕が落ち、握っていた欠片が床に転がった。
「情熱的なのは結構だがね、あまり過ぎると伴侶の身が持たないぞ」
そんな事を言いながら、叉夜は喘ぐ梨沙に視線を向ける。
「梨沙、あと少しだ。耐え給えよ。そうすれば……」
酷く穏やかな声で、彼女は言った。
――「術は、成るぞ」――
次の瞬間、
ブチィッ
あやなが、大きく身を逸らした。
飛び散る鮮血の中で、光貴は見る。
悲鳴を上げる様に引きつる梨沙の喉笛から、何かが引き出されるのを。
血に塗れ、青白く脈打つそれ。光貴は最初、梨沙の内蔵が引きずり出されたのかとおもった。しかし、違う。
それは、終わらなかった。
ブチュリブチュリと蠢きながら、絶える事なく引きずり出されてくる。出る程に膨張し、連なる風船の様に膨れ上がる。
「……何だよ……?これ……」
呆然と見守る光貴の前。膨れ上がるそれの体積は、すでに梨沙の身体のそれを超えている。そして――
「グゥッ!!」
呻く様に力を込める声。端をあやなの牙に捕らえられたそれが、ついに梨沙の身体から引きずり出された。
ビチャアッ
「はっ……はぁっ!!」
それが湿った音を立てて床に落ちるのと、梨沙が大きく息を吐くのは同時だった。
「梨沙!!梨沙!!大丈夫か!?」
「み……光貴……」
呼びかける光貴に、咳き込みながら答える梨沙。その様子に、光貴は違和感を覚える。
「梨沙……お前、何ともないのか……?」
「え……?あ、う、うん。何ともなっていないみたい」
自分の喉元を撫でながら、そう答える梨沙。確かにあやなの牙が食い込んでいた筈のそこには、少しの傷も残っていない。けれど、光貴の違和感はそんな所ではなかった。
「いや、梨沙……。お前、身体の方……」
「え?」
そう指摘され、梨沙本人もようやく自身の異変に気づく。
――発作が、止まっていた――
つきなの血によって、固定されていた筈の発作が止まっていた。
否、それだけではない。
発病して以来、常に身体に潜んでいた病の気配が消えていた。痛みもなければ、不快感もない。それは、梨沙が久しく忘れていた、健常な身体の感覚だった。
「おやおや。これはなかなか。見事な大物が憑いていたものだ」
困惑する光貴と梨沙の後ろで、叉夜が感心した様に言う。その言葉に視線を向けた光貴と梨沙が見たもの。
それは、床の上でビチビチと蠢く巨大な怪異だった。
その姿は、まるで巨大な蛆虫。長さは4m、太さは2m程もあるだろうか。牛脂をパンパンに詰め込んだ、ソーセージの様に膨らんだ身体。ギトギトとぎらつく白蝋の様な肌。その表面を縦横に走り、ビクビクと脈打つ蒼白い血管。身体の先端には大きな穴が空き、そこには無数の眼球がギョロギョロと蠢いている。その下に開くのは、粘液に塗れた洞穴の様に大きな口腔。それがクウワァアと開き――
ヴゥウオロロロロロ……
怖気立つ様な叫びが、大気を揺らした。
それを見た魅鴉と流凪が、目を丸くする。
「ちょっと、あれって……」
「『病蟲』だ……。大きい……」
同じモノを前にする光貴達も、当惑の色を隠せない。
「何なんだよ……。あれ……?」
「あれはね、『病蟲』と言うのだよ」
光貴の問いに答える様に、叉夜が言う。
「疫神の一種でね。見初めた人間に憑いて病に堕とし、その苦痛と絶望に塗れた魂をしゃぶる代物さ」
それを聞いた光貴と梨沙は、一斉に息を呑む。
「それじゃあ……」
「梨沙の病気は……」
「そう」
そして、何でもない事の様に叉夜が言った。
――「”アレ”のせいさ」――
「………」
「………」
しばしの沈黙がおりた。やがて、光貴が梨沙に問う。
「……梨沙、離しても、大丈夫か……?」
「え?あ、うん」
「……よし」
その答えに頷くと、光貴は抱いていた梨沙をそっと床に下ろす。
「光貴……?」
「待ってろ、梨沙。落とし前、つけてくる……」
そして、落ちていた神剣の欠片を三度手に取ると、目の前の異形に向かって走り出す。
「お前が!!梨沙を!!」
「光貴!!」
梨沙が叫ぶが、構わない。そのまま、真っ直ぐに刃を突き出して――
「待ちたまえよ」
グイッ
「グエッ!?」
唐突に襟首を掴まれて、盛大に引っ繰り返る光貴。仰向けに倒れた彼を、叉夜が呆れた顔で覗き込む。
「全く。本当に君は鉄砲玉だな。そんな事では、近く早死にするぞ?」
「うるさい……。あいつが……あんな化け物が梨沙を……」
絞り出される呪詛の言葉を聞きながら、それでも叉夜は諭す様に言う。
「気持ちは分かるがね。飢えた獣の獲物に手を出す様な真似は、やめておきたまえ。それこそ、命がいくらあっても足りないぞ」
「飢えた……獣……?」
「見てごらん」
言われて、身を起こす。向けた視線の先にいたのは、かの異形と対峙するあやなの姿だった。
「あいつ……」
言いかけた口が、絶句する。
何故なら、あやなの顔を見たから。
笑っていた。
凄絶な顔だった。
餓欲。狂気。殺意。数多の負の感情を内包した、魔物の如き笑みだった。
その笑みを前にした病蟲が、ズルリと蠢く。
其は、知恵を持たない。ただ、本能のままに人の魂を貪るだけ。今、住み慣れた巣から引きずり出された彼は、むき出しの肌を刺激する外気を不快に感じながら、新たな巣を求めていた。ヒクヒクと蠢く触覚。それが、目の前に立つ少女の身体を感知する。愚かな知能には、その正体を察する術はない。ただ愚直に、その身を彼女に向かって進め始めた。
ズル……ズル……
粘液に塗れた這い跡を引きずりながら、近づいてくる巨体。
それを前に、あやなはその笑みを深めていく。
病蟲が、ゆっくりと身体を持ち上げる。
ボォオオオオオ……
おぞましく響く咆哮。
そのまま、蒼白い巨体があやなに向かって雪崩落ちる。
あやなは動かない。ただ、その唇を紅い舌で舐めずるだけ。
迫る、病蟲。
そして――
ボゥッ
辺りを照らし出す、昏い光。
それは、あやなの回りに浮かび上がった黒炎と無数の眼球。
ベリベリィッ
浮かぶ眼球が割れて、そこから現れるのは鋭利な歯牙の群れ。それが、雪崩来る其を迎え撃つ様に襲いかかった。
ガシュッ グチュッ ブチュッ
巨体に喰い込む、幾百、幾千の牙。
ボォウォオオオッ
悲鳴を上げて仰け反る病蟲。噛み弾けた巨体から、青い体液が汚らしく飛び散る。それを、降り注ぐ雨の様に身に受けながら、あやなはまた凄絶に笑う。笑いながら、頬を濡らす体液を紅い舌で拭う。
白い巨体が苦しげのけ反り、喰らいつく眼球と纏いつく黒炎をふるい落とそうとのたうち回る。しかし、猛る餓欲の化身達はひるまない。そのまま、ガシュガシュ、グチュグチュと喰い込んでいく。体液を啜り、肉塊を呑み込み、臓物を引きずり出す。
ガツガツ グチャグチャ ジュルル……
いつしか、其の抵抗は止んでいた。力なく横たわった巨体は無数の眼球達に喰まれ、みるみる形を失っていく。
「梨沙。光貴。よく見ておくといい」
その様を見つめる二人に、叉夜が言う。
「これが、君達を苦しめた災いの末路さ」
そんな彼らの目に映るのは、憎悪か哀れみか。
狂える宴は、ほんの一時。程なく、おぞましい虫体は、跡形もなく破界の獣の臓腑へと収められていく。
やがて、体液一滴残さず消えた、床の上。飛び交う眼球の中で、あやながゆっくりと舌を舐めずる。
「ごちそうさま」
満足気な声が、薄暗い世界の中に鈴の音の様に転がった。