弐
「……あれが、あの子の行き着いた覚悟?」
事を見つめていた魅鴉が、何処かつまらなそうにそう呟いた。
「不満そうだね」
「まぁねぇ。悲哀劇は大好物だけど、この終わり方は、ちょっと消化不良かしら?」
煌夜の言葉に、辺りを飛び交う八雷の喉を撫でながら、魅鴉はぼやく。
「死にネタなんて、一番安直だしね」
そう言う魅鴉の目の前で、光貴が手にした欠片を振り下ろす。その先にあるのは、梨沙の胸。その心臓。
「あ~、やった~」
くたびれた様に腰を下ろしていた流凪が、眠そうな声でそう言った。
世界はゆっくり動いていた。酷くゆっくり、動いていた。
力いっぱい振り下ろした筈の手が、スローモーションの様に見える。止めようと思えば、止められそうだった。
でも、そんな事はもう出来ない。分かってる。それに、例えやめたとしても、それは梨沙の苦しみを長引かせるだけ。
ごめん。
ごめんな。梨沙。
結局、こんな形でしかお前を救えなくて。
でも、大丈夫だから。絶対、大丈夫だから。
僕も、逝くから。
すぐに、逝くから。
お前だけに、痛い思いさせないから。
お前だけに、寂しい思いさせないから。
だから。
だから。
欠片の切っ先が、梨沙の胸に吸い込まれる。そして――
ガツッ
「痛っ!!」
振り下ろした手が、床に叩きつけられた。
見ると、朱いシューズを履いた足が、僕の手を握った欠片ごと踏みつけていた。
「おや?」
「ありゃ~?」
「あらぁ?」
見ていた連中が、一斉に驚きの声を上げる。
「貴方は、何処まで愚かなの?」
かけられた声に見上げると、そこには長い黒髪を揺らす、朱染めの少女の姿。
僕を見下ろす目が、淡い蛍緑に輝いている。
”あいつ”だった。
つきなと呼ばれていたあいつが、嘲る様に僕を見つめていた。
白と朱に彩られる、仮面の様に整った顔。それに、亀裂の様な笑みを浮かべている。
「本当に、愚か」
また、言った。
「どう言う……つもりだよ……」
痛みに顔を歪ませながら言うと、”そいつ”はその亀裂の様な笑みをますます深めた。
「自分の番の想いさえ、察する事が出来ないなんて」
「……え……?」
戸惑う僕に、”そいつ”は言う。
「見てみなさい。貴方の、伴侶を」
言われて、視線を下向ける。
向けて、固まった。
屍蝋の様に白い手が、僕の胸元を握り締めていた。
力なく、だけど精一杯の力を込めて。
「……梨沙……?」
彼女の目が、僕を見つめる。虚ろだった筈の瞳が、ハッキリと僕の姿を映していた。。
「ゴポ……グッ」
口にこみ上げる鮮血を、飲み下す音がする。引き絞った口の端から血が一筋流れて、彼女のパジャマの襟を汚した。
「り……さ……?」
「……馬鹿……」
かすれているけれど、ハッキリとした言葉で梨沙が言った。
「あたしを……終わらせて、それで……光貴は、どうする……つもり……?」
「それは……」
怖かった。物凄く、怒った顔だった。長く傍にいた僕が、見た事のないくらいに。
「死ぬ、気……なんで、しょう……?」
「梨沙……」
ギリ……
僕の胸ぐらを掴む手に、力がこもる。今まで、今際の際同然だったとは思えない程の力。まるで、残された命の全てを込めた様なそれに耐えかねて、僕はゲホリと息を吐いた。
「ゆる……さない、から……」
掠れる声で、梨沙が言う。
「あた、しの……ために、死んだりしたら……絶対に、許さない!!」
「梨沙……でも……」
「あたしは、生きる……」
「!!」
「あたしが、死んだら……光貴も死ぬって……言うなら、あたしは、生きる!!」
絶句する僕。梨沙は、続ける。
「例え、”これ”が……ずっと、ずっと続くとしても……あたしは、生きるから!!」
梨沙の目が燃えていた。ギラギラと燃えていた。生きる決意に、燃えていた。それは、強い。とても強い光。怖気が来る程に強い、生命の光だった。
その光が、爛れかけていた僕の心をぶん殴った。
ああ。そうだ。
僕は、何をしていたんだろう。
どうして、忘れていたんだろう。
決めたじゃないか。誓ったんじゃないか。
僕は。僕達は生きるって。何をどうしたって。どんなものを犠牲にしたって、一緒に生き続けてみせるって。誓ったじゃないか。
「ゲボッ!!」
梨沙が、咳き込んだ。彼女の口の中に、真っ赤な血が込み上がるのが見えた。
「!!」
次の瞬間、僕は僕の口で梨沙の口を塞いでいた。
口の中に溢れる、生温かい液体と鉄錆の匂い。僕はそれを力いっぱい吸い取って、床に吐き捨てた。
「はあっ」
気管を塞いでいた血を取り除かれた里香が、水から上げられた水難者の様に大きく息を吐いた。そんな彼女を、僕は力いっぱい抱き締めた。
「ごめん!!梨沙!!」
「光貴……?」
耳元で、梨沙が呟く。血臭の混じる吐息が、とても甘く感じられたのは気のせいだろうか。
「俺、生きるよ!!梨沙と一緒に!!」
見えない梨沙の顔が、微笑むのが分かった。
「だから、梨沙も生きてくれ!!どんなに苦しくても!!どんなに辛くても!!俺と一緒に、生きてくれ!!」
「……そのつもりだよ……」
梨沙が言う。
「……ずっと前から、決めてたよ……」
今まで聞いた中で、一番尊い告白だった。
梨沙の腕が、強く僕を抱き締める。
そして僕も、彼女を力いっぱい抱きしめ返した。
「本当に、貴方の様な愚物には過ぎた伴侶ね」
僕達を見つめていた“そいつ”が、言った。
「覚えておきなさい。死ぬなんて、易い事この上ない。本当に試される覚悟は、全ての業を背負って、なお在り続ける事……」
そう。さっき、こいつが見せた覚悟。
それは、相手の糧になりながらも、共に生き続ける事だった。
それは、とても気高くて。
そして、とても眩しかった。
だから、僕は逸らした。
その、気高さから。
その、眩しさから。
そして、逃げ出そうとした。
一番簡単な、その道へ。
だけど、許されなかった。
梨沙はそんな事、許さなかった。
彼女が選んだのは、業の道。
”あいつ”らと同じ、苦しみと共に生きる業の道。
でも。
それでも。
梨沙が望むなら。
彼女が、それでも生き続ける道を選ぶなら。
僕は、それに従おう。
彼女は、僕の世界。
僕の、生きる意味。
梨沙が、決意するのなら。
彼女が、その覚悟を持つのなら。
僕もまた、決意しよう。
その道を、歩もう。
梨沙と、共に。
そして僕と梨沙は、もう一度しっかりと抱き締めあった。
「うふふふふふふ……」
薄闇の中に、笑い声が響く。
魅鴉が、笑っていた。
光貴と梨沙を見て、酷く嬉しそうに笑っていた。
「そうよねぇ。そうこなくっちゃあ」
けれど、
「でもぉ……」
喜色に満ちたその声は、次の瞬間にはこの上ない剣呑さがこもるものへと変わる。
途端――
ギュガァアン
空を切る、漆黒の稲妻。
それを、神金を纏った黒髪が弾いた。
「うわっ!!」
頭の上で響いた轟音に、梨沙を抱き締めた光貴が身を竦める。
つきなに向かって黒雷を走らせた魅鴉が、その顔に悪鬼の如き表情を
浮かべる。
「そうなると話は振り出しよねぇ。やっぱりぃ、あんたには囚われの身でいてもらわないとぉ」
それを向けられたつきなも、やはり壮絶な笑みを浮かべて答える。
「酷い方。この子を思い止まらせたのは、わたしなのに」
「そうね。でも、その後がいけないわ。その子達に、何をしようとしてたのかしら?」
「あら?ばれてた?」
「当然」
バチバチバチッ
魅鴉の周りで、八雷が猛る。それを愛でながら、光貴達に向かって彼女は言う。
「あんた達、動ける?動けるなら、逃げなさい。その娘、まだ諦めてないわよ!」
「え!?」
思わず見上げた光貴の目に、鋭い爪を構えたつきなの姿が映る。
「――――っ!!」
声を出すよりも先に、身体が動いた。
梨沙を抱えたまま、咄嗟に転げ逃れる。
一瞬の間をおいて、彼らのいた場所をつきなの爪がえぐった。
「ちっ!!」
小さく響く、舌打ちの音。それをかき消す様に、八雷をまとって魅鴉が走る。
「はっ!!諭すフリして隙狙うなんて、姑息な真似してくれるじゃない!!
その言葉に、飛びずさりながらつきなが笑う。
「だって、やっぱりあの娘達は怖いんだもの!!このままじゃあ、わたしだけじゃなく、あやなにも害が及ぶかも!!」
「知ったこっちゃないわよ!!そんな事!!」
追いすがる魅鴉を、踊る髪で牽制しながらつきなは身をかわす。
「邪魔しないで」
「あんたこそ、いい加減大人しくなさい」
弾け合う、雷と黒髪。それを見た煌夜が、流凪に問う。
「止めないのかい?」
「う~ん、こっからは~どっちかって言うと~魅鴉っちの仕事だしね~。手を出すのも~、筋違いかな~って~」
そう言って大あくびをすると、ゴロンと寝っ転がる流凪。その様子を見た魅鴉が笑う。
「いい娘ね。あんたのそう言うとこ、好きよ」
「どういたしまして~」
やる気なく答える同僚に笑いかけると、魅鴉は改めてつきなに言う。
「という訳だから!!助けはないわよ!!」
「元から、あてにしてない」
「じゃあ、あきらめなさい!!」
言葉と共に、猛禽のそれの様に開いた爪がつきなの両足を刈り取るために一閃。
しかし――
トンッ
「んべっ!?」
「んみゃ!?」
一瞬早く宙に舞ったつきなが、魅鴉の背中を一踏み。バランスを崩した魅鴉は無様に床に突っ込み、寝っ転がっていた流凪にぶち当たる。
「いったいなぁ!!何すんのさ!?」
「何よ!!こんな所で寝てんのが悪いんでしょうが!!」
ギャアギャアと姦しい二人。そんな彼女達に、煌夜が呆れ切った声をかける。
「いいのかい?」
「何がよ!?」
「彼女、行ってしまったよ」
見れば、つきなは光貴達の間近まで迫っていた。端から、魅鴉の相手などする気がなかったのは見え見えである。
「あ、やば」
思わず声を上げる魅鴉。慌てて八雷達を繰る。しかし、つきなの髪に絡んだ霊剣の欠片に尽く弾き落とされてしまう。
「ちぃっ!!」
即座に追撃するが、伸びてきた髪と欠片が行く手を遮る。
「こ、この!!」
「貴女の手の内は、承知してる」
冷ややかな声で、つきなが言う。
彼女の最大の武器は、その学習能力にある。先刻からのやり取りで、魅鴉の戦い方や性格は完全に把握されていた。
もともと、つきなには魅鴉を倒さなければならない理由はない。
彼女がつきなにこだわるのは、あくまで光貴の件があるが故。なら、彼を亡き者にしてしまえば、魅鴉がつきなを狙う意味はなくなる。理屈は、単純だった。
魅鴉が本気で挑めば、髪と欠片の障壁を押し切る事は簡単だろう。けれど、それを成すにはつきなと光貴達との距離が近過ぎる。もう、間に合わないのは明白。そして、それもまたつきなの目論見通りだった。
死が、近づいていた。迫るつきなを見据えながら、光貴は腕の中の梨沙を抱き締める。
「梨沙、生きるぞ。絶対に」
「……うん……」
光貴の視線が、床に散らばる欠片に向く。その一つに手を伸ばし――
ガシッ
「――――っ!!」
一瞬早く伸びてきた足が、光貴の手を踏みつけた。
「諦めなさい」
最後の宣告をしながら、光貴の足を踏み躙るつきな。そんな彼女を、光貴と梨沙がそろって見上げる。強い目だった。生への渇望に、ギラギラと燃える目だった。
「……怖い目……」
万感の賞賛を込めて、つきなは言う。
「貴方達は、よくやった」
主の言葉に沿う様に、剣の閃きを抱えた髪が騒めく。
「貴方達の事は、忘れない。覚えておく。永遠に。だから、安心して」
うねる髪の群れが、獲物を狙う蛇の様に鎌首をもたげる。そして、最後に一言。
「お休みなさい」
そして、鋼線の如き細髪の群れが、光貴と梨沙に殺到した。