弐
異変に気づいたのは、文字通り草木も眠る深夜だった。
屋敷の皆が。使用人までもが眠りにつくのを待って、そこに行った。
前の投与から、一週間が経っている。そろそろ、効き目が切れる頃だ。念のため、ストックはしてあるけれど、出来れば少しでも新しいものを飲ませたかった。まあ、時間で劣化するものではない事は承知していたが、それが人情と言うものだろう。
このままの状態を維持出来れば、ひょっとしたら外出も許されるかもしれない。そうしたら、何処かへ遊びにいこう。そんな考えに、心が躍っていた。
だから、その光景を見た時、全身が凍りついた。
扉が、開いていた。何十年も、放置された場所。自分以外、訪れる者などいない筈なのに。
慌てて、中に駆け込む。明らかに、誰かが動いた形跡があった。
馬鹿な。
馬鹿な。
そんな。
そんな。
大きくなる焦りに背押され、走る。
そして、その場にたどり着いた時、
「………っ!!」
焦燥は、絶望に変わった。
◆
夢は、唐突に途切れた。
開かれた瞳に映る天井。それは、見慣れた高い天井ではなかった。
身を起こし、周りを見回す。見た事のない部屋。その中心に置かれたソファ。その上に、彼女は寝かされていた。
身体を見ると、血塗られていた元の服ではない、別の服が着せられていた。
自分の置かれた状況が、分からない。幾度か、目を瞬かせる。
「ああ。目、覚めたんだ?」
「………?」
唐突にかけられた声。ゆっくりと、首だけを巡らせる。
知らない少女が一人、部屋の入り口に立っていた。
「覚めた?目」
虚ろな瞳で自分を見つめる彼女に、同じ言葉で問いかける。
「………」
答える言葉のない彼女。少女はツカツカと歩み寄ると、覗きこむ様に顔を付き合わせた。
「………」
「………」
少しの間、二人の少女は無言で見つめ合う。
「あやな」
唐突に、少女が口を開いた。
「?」
ポカンとする彼女に向って、続けて言葉がかけられる。
「名前。あたしの名前。あやな。神無月あやな」
「……あやな……?」
彼女の口が、初めて言葉を紡ぐ。小さな鈴が鳴く様な、澄んだ声。反応があったのを見て、あやなと名乗った少女は言葉を続ける。
「そ、あやな。あんたが川原で倒れてるのを見つけて、ここまで運んできたの」
「!」
それを聞いた彼女が、軽く目を見開いた。
「で、あんたは?」
「?」
急にふられる話。彼女が、キョトンとした顔になる。
「だから、名前。あたしが教えたんだから、あんたも教えるのが礼儀」
「名前……?」
呟く様な声で言うと、彼女はそのまま黙り込んでしまう。
「どうしたの?」
「………」
あやなの再びの問いにも、彼女は小首を傾げたまま。そんな様子を見て、あやなは少し考え込む。そして、もう一度相手の目を覗き込んだ。
「教えたくない?それとも……」
あやなの目が、間近から彼女を映し込む。
「無いの?名前」
黒い瞳が、無言のまま肯定の光を放った。
◆
部屋の中に、湯気に乗って淡いシャンプーの香が漂う。その中で、彼女はソファに腰を下ろし、香りが漂う方を眺めていた。
視線の先にあるのは、薄く扉の開いたバスルーム。響く水音の中では、人が動く気配がしている。
と、彼女が不意に腰を上げた。スルスルと滑る様な足取りで、バスルームへと近づいていく。ドアノブを掴む、真白い手。ゆっくりと開く、ドア。満ちる湯気の向こうに、あやなの裸身が見えた。壁にかけたシャワーをいっぱいに開き、泡にまみれた亜麻色の髪を熱い流れにさらしている。
「………」
彼女は無言で、バスルームの中に滑り込む。足音はおろか、濡れた床の上で水音すらもしない。そのまま、あやなの背後に立つ。そして――
「?」
振り向くあやな。伸びる手。少女が、細い肩を掴む。そのまま、後ろの壁に押し付けた。
「………」
「………」
降り落ちる水滴の中、絡み合う二つの視線。
「何?」
あやなが、ぽつりと呟くように尋ねる。
少女は答えない。かと言って、掴む手に力を込めるでもない。そのまま、肩に絡まっていた指が肌の上を滑り始める。肩から胸へ。胸から腹部へ。まるで何かを確かめる様に、指はあやなの肢体をなぞる。
「………」
あやなは、抵抗しない。声を、上げるでもない。ただ、されるがままにまかせる。二人の肌が交わる中、迸るお湯が少女の身体もしとどに濡らしていく。やがて、彼女の指があやなの下腹部をなぞった時、
「んっ!!」
流石に堪えかねたのか、あやなが小さく声を上げて身を震わせた。
少女が、ビクリと手を離す。
「……もう、変な所弄らないでよ……」
一瞬の羞恥を誤魔化す様に、濡れた髪をかき上げながらあやなは言う。
「何?あんた“そっち”の気があるの?だったら、お生憎様。あたし、ノーマルだから」
そんな言葉に、少女は何も返さない。ただ、その瞳があやなを間近から見つめる。何を思っているのかも分からない、空虚な眼差し。けれど、その奥にあやなは確かに何かの意思を見る。
と、
鎖骨に感じる、わずかな衝撃。見れば、首を傾げ彼女がその頭をあやなの胸に埋めていた。
「ちょっと。だから、あたしにはその気はないって……」
鬱陶しそうに、その身体を押しのけようとしたあやなの手が止まる。少女の腕が、あやなを抱きしめていた。それは、先にあやなが言った様な劣情に満ちた抱擁ではない。
そこには、何の感情も感じられない。少女はただ、あやなを抱きしめていた。まるで、赤子が無心で母にすがりつく様に。
「……もう、無理だと思ってた」
声が、聞こえた。
「無駄なんだって、思ってた」
淡々と紡がれる言の葉。首を傾げるあやな。彼女は構わずに続ける。
「でも、“あなた”は存在た」
想いのこもった声だった。それまで、何の感情も見せなかった彼女。それが、確かな想いを晒していた。
俯いていた顔が、ゆっくりと上がる。
「存在て、くれた」
微笑んでいた。微かに。けれど、綺麗に。彼女は、微笑んでいた。
そして、最後に紡ぐ言葉は、たった一言。
「ありがとう……」
そう言って、彼女はもう一度抱きしめる。あやなの身体を。先よりも、より確かな想いを込めて。
そんな彼女を、黙って抱きとめていたあやな。
しばしの間の後、その手が動く。
「………?」
あやなが、彼女の顎をもって顔を上げさせた。
ポカンとする彼女。その視界に、自分を見つめるあやなの顔が映る。
「あんた、面白いねぇ?」
そう言って、今度はあやなが微笑む。
「前言撤回。趣味じゃないけど……」
するりと上がった手が、彼女の肩を掴む。
「あんたなら、付き合ってあげる」
言葉と共に、傾ぐ視界。
水音が、響く。
床に倒れこむ、二人の身体。
シャワーから流れ続ける湯。それに流され、長い黒髪が妖しく広がる。
押し倒した彼女の頬を撫でながら、あやな問う。
「あんた、帰る場所はある?」
少女が、首を振る。否定。
「待ってる人はいる?」
首を振る。また、否定。
「やっぱり」
組み伏せた少女を愛でながら、あやなはほくそ笑む。
「名前がない。帰る場所もない。待ってる相手も、いない。なら、あんたは野良猫といっしょ」
あやなが、少女の耳に口を寄せる。
「なら、あんたをどうするのも、拾ったあたしの自由」
互いの息遣いを感じ合う程の距離で、あやなの唇が吐息と共に言葉を紡ぐ。頬に寄せられた指が、愛撫する様に肌を這う。降り注ぐ湯雨の中、ほんのりと桃色に染まった肌。歳に似合わない艶を感じさせる。濡れそぼった亜麻色の髪から香る、甘いシャンプーの香。滴った水滴が、少女の目元を濡らす。
「野良猫には、まず名前をあげなくちゃね」
そして、あやなはしばし考え込む。
「……つきな……」
「?」
その口から紡ぎ出された、聞きなれない単語。少女は、首を傾げる。
「つきな。月の夜に、あやなが拾ったから、“つきな”」
「つきな……?」
「そう、“つきな”。それが、たった今からあんたの名前」
「わたしの、名前?」
呆けた様に呟く彼女に、あやなはまた微笑みかける。
「これでもう、あんたはあたしの所有物」
あやなは笑う。妖しく、笑う
「もう、何処に行くのも、許さない」
笑いながら、彼女の額の髪をかき上げる。
ゆっくりと寄せる、顔。
額に、唇を押し付ける。
まるで、証の刻印を押す様に。
抵抗は、なかった。
少女――つきなは、その全てを受け入れた。
◆
いつしか、月は西の空に消えていた。深海色の空を染め上げ始めた白光が、二人の在る場をゆっくりと照らし始めていた。