壱
絶対だった。
僕にとって、彼女は絶対だった。
彼女がいなければ、僕は生きていけない。
彼女がいなければ、僕が生きる意味はない。
だから、彼女を生かそうと思った。
生き続けて欲しいと思った。
そのためなら、何でもしようと思った。
そう。金にあかせて、汚い事に手を染めて、挙句の果てに、得体の知れない化け物にまですがって……。
けど。だけど。
その果てに、僕が彼女に与える事が出来たのは、終わりのない地獄だった。
生き続ければ、苦しみが続く。
苦しみが途絶えれば、死が訪れる。
そんな、無間地獄の様な悪夢。
分かっていた事だった。
分かりきっていた、結果だった。
それでも、僕は願った。
彼女に、生きていて欲しいと願った。
だから、彼女は受け入れた。
受け入れてくれた。
その、地獄を。
だけど。だけどその結果に。
耐えられなかったのは、僕だった。
何て、愚かな事だろう。
何て、無様な事だろう。
必死に苦しみに耐え、生にしがみつく彼女。その様に、僕は怯え、後悔した。恐ろしかった。おぞましかった。憎らしかった。勝手な望みのために、彼女にこんな地獄を課した自分が。
けれど、どんなに後悔しても。どんなに悔やんでも。時は戻りはしない。苦しむ彼女を腕に抱いて、怯え戦慄く事しか、僕には出来なかった。
そんな僕に向かって、”そいつ”が言った。人の型を成した夜闇の様な”そいつ”が、言った。
――覚悟が足りない――、と。
そして、表情のない仮面の様な顔で、こう告げた。
――全ては、僕の手で終わらせろ――、と。
そして今、僕の手の中には一片の金属片がある。薄く研ぎ澄まされた、冷たい、冷たい、
神金の刃。
”そいつ”から渡されたそれが、キシリキシリと手の中で軋む。
これで彼女の胸を貫けば、全ては終わる。
そう。全ては、終わるのだ。
彼女の苦しみも。
僕の、苦しみも。
手の中で、欠片が笑う。キシリキシリと、軋りながら。
決意は、つかない。
まだ、つかない。
「見た?あれ」
全てを見終わった魅鴉が、僕に訊いた。
「なかなか、いい演劇だったわね」
妙に上機嫌なのは、気のせいだろうか。
事の次第を、呆然と見つめるだけだった僕。そんな僕を見下ろしながら、魅鴉は言う。。
「”あの娘”が見せたのが、本当の覚悟ってやつよ」
指差す先にあるのは、見知らぬ少女を抱き締める”あいつ”の姿。
ほんの数刻前まで、ただの道具としか思っていなかった存在。
化物と恐れ、蔑んでいた存在。
それが今は、とても気高く見えた。
他の連中と同じ様に、あの少女も人間じゃなかった。
それどころか、ここにいる中で一番の怪物だった。あれだけ恐ろしかった”あいつ”を、餌としようとする程の。
そんな存在を、”あいつ”は愛してると言った。言い切った。
そして、その存在にその身を捧げた。
永遠に、その身を糧として与え続けると誓った。
気高かった。
直視出来ない程に、気高かった。
僕に、それは持てるだろうか。
あんな気高いものを。
捧げる事は、出来るのだろうか。
彼女に。
たった一人の、彼女に。
答えを出せない僕に、魅鴉はまた言った。
「あんたの覚悟、しっかりと見せてね」
そして僕の顔をスルリと一撫ですると、魅鴉は踵を返して仲間達の元へと向かった。
僕と梨沙を、酷薄な世界に置き去りにして。
「おや?お守りはもういいのかい?」
「ええ。後は、あの子次第よ」
「荷が、重過ぎはしないかい?」
「お前が言うな!!」
他人事の様に言う煌夜に噛み付く魅鴉。
と、彼らの傍らでつきな達の様子を見ていた、流凪が言った。
「煌くん……魅鴉っち……」
その声に振り向くと、忘我の体にあるあやなから、キラキラと輝く光の粒子が昇り出していた。
「あれは……」
「ああ。成程」
見つめる皆の前で、あやなの懐から何かがポトリと落ちた。
見れば、それは光に包まれた一冊の手帳。それは見る見る輝く粒子となって宙に上がり、溶けて消えていく。
「煌くん……」
「ああ、彼女の術が、成った様だね」
そう。光となって溶けたもの。それこそが、あやなが”あの場所”で手に入れたもの。望みの”術”が記された本だった。
「やれやれ。僕の方はとりあえず一段落かな」
そう言って、煌夜がコキコキと首を回す。まるで、全てが終わりを告げた事を示す様に。
「煌くんは~、これで~お役は御免か~。いいな~。もう~、好きなだけ眠れるんだ~」
「全く。そればかりだな。君は」
「いいの~。煌くんみたいに何で生きてるのか分からない人よりは~、よっぽどマシ~」
いつもの調子に戻って、そんな事を言い合う流凪と煌夜。けれど、そんな同僚の会話に混ざらない者が一人。
「五月蝿いわねぇ。あんた達、少し静かにしてくれない?」
その声に、煌夜と流凪はそろって視線を向ける。そこにいるのは、周りに八体の雷獣を侍らせた少女。魅鴉。
彼女は血に汚れた髪をキュッと絞り上げながら、その視線を少し離れた暗がりへと向けている。
「全く。自分達の仕事が一段落したからって浮かれちゃって……」
妙に潜めた声で、彼女は言う。
「”こっち”はまだ、終わってないのよ」
その言葉に、煌夜が「ああ」と声を上げた。
「そうだね。まだ、”彼ら”がいた」
その場の皆の視線が、”彼”と”彼女”に向かう。
「そう。まだ、”彼ら”がね」
紡ぐ言葉が、酷く興味深げに聞こえたのは気のせいだろうか。
数多の理外れが見つめる中、たった二人の人間は、未だ晴れぬ薄闇の中で震えていた。
何をどうする事も出来ずに。か細く。か弱く。震えていた。
あいつらが見ている。
何も出来ない。何も出来ない僕を、見つめている。
あいつらが、何をしていたか。
ここで、何が起こっていたのか。
僕は全てを見ていた。ひょっとしたら、梨沙も見ていたかもしれない。
死に匹敵する、けれど決して死に逃げられない苦しみの中で、見ていたかもしれない。
それほどに、今夜ここで起こっていた事は異常だった。
得体の知れない化け物に、命を狙われて。夜の中に、世界が閉ざされて。化け物同士が、鍔迫り合って。そいつらよりデカイ化け物が現れて。世界が壊れかけて。けど、そのデカイ化け物をもっと得体の知れない化け物が打ち倒して……。
化け物。化け物。化け物。化け物。化け物化け物化け物ばけものばけものバケモノバケモノバケモノ……
化け物尽くしの、オンパレードだ。もう、笑いの一つも出やしない。
暴風の様に吹き荒れるそいつらの息遣いの中で、僕に出来たのは、梨沙を抱えてすくみ上がる事だけ。
出来なかった。
本当に、何も出来なかった。
ついこの間まで、自分に出来ない事なんてないと思ってた。いや、確かに、自分の手が届かない領域がある事は承知していた。
だけど、それでも手を出すくらいは出来ると思っていた。世界を動かすのは、とどのつまり金と権力だ。
僕の生まれた場所には、偶然その両方があった。幼い頃はそれに身を委ねて、随分と好き勝手をやった。
成長し、明確な自我が生まれてからは、権力争いに没頭し、金繰りに励む親や親族達を軽蔑して、嫌悪した事もあった。
だからこそ、僕はそんな色眼鏡で僕を見ない、本当の僕を思ってくれた梨沙を愛する様になった。
大事だった。
大切だった。
この娘のためなら、親も親族も。それに付随する全てのものを捨てても構わないと思っていた。
それは、本当だ。間違いなく、本当だと言える。
だけど、梨沙が得体の知れない病に倒れた時、すがったのは結局、その”力”だった。
梨沙を今の病院に入れられたのも。それを維持出来たのも。全部は親の権力と金のお陰。
僕自身は、何の力もないひよっこのままだった。幼い頃と、何も変わってやしなかった。でも、構わなかった。梨沙を生かせるのなら。助ける事が出来るなら。どんな嘲笑も、どんな侮蔑も、どんな屈辱も、平然と受け入れる事が出来た。
出来る、筈だった。
でも、そう粋がる僕に立ちはだかったのは、そんな生っちょろいものじゃなかった。僕の前に立ちはだかったもの。それは、絶望だった。
「は……く……ゴボ……」
腕の中で、梨沙が苦しい息を吐く。震える両手が、身体のあちこちを掻き毟る。喘ぐ様に開いた口からは、どす黒い鮮血がゴボゴボと音を立てて絶え間なく溢れ出した。
もう、どれほどこの地獄が続いているだろう。2時間?4時間?いや、もっと……。
梨沙は苦しみ続ける。僕の業を、たった一人で肩代わりして。
「梨沙……梨沙……」
呼びかける声に、答えはない。答える余裕がないのだろうか。声が、届かないのだろうか。それとも、もう壊れてしまったのだろうか。
視線を感じる。”やつら”の視線だ。世界の理から外れた、無色透明の視線。それが言う。
どうする?
どうする?
どうする?
ああ、うるせぇ。うるせぇよ。
分かっているのだ。術なんてはない事は。この苦しみから。この地獄から。梨沙を救う手段は、もう、ただ一つだけ。
震える手の中で、冷たい刃がキシリと泣いた。
最高の医療設備に、最高の医師達。
それが親親族に頭を下げ、使える力全てを動員して、僕が梨沙に与えたものだった。
僕は確信していた。これで、梨沙を救えると。これで、梨沙を助けられると。だけど、現実は違った。梨沙を蝕む病には、最高の医療は全くの無力だった。
厳選された薬剤は何の効果も示せず、選び抜かれた医師達は一つの病巣を取り出す事も出来なかった。
無様に焦る僕達を嘲笑う様に、病は梨沙を蝕んでいった。
ゆっくりと。
だけど確実に。
子供が飴玉をしゃぶる様に、梨沙を苛んでいった。
絶望だった。
もう、絶望しかなかった。
世界の、そして自分の無力さに打ちひしがれて、いつしか僕は自分も死ぬ事を考え始めていた。梨沙は、僕にとって世界の全てだった。彼女がいなくなる事は、僕にとって世界が無くなるに等しい。世界が死ぬのなら、そこにいる僕も死ななければいけないのだ。終わりは、近い筈だった。
けれど、僕は”術”を手に入れた。
発作に苦しむ梨沙から逃げ出した夜、あの不思議な空間で、僕は望んでいた”術”を手に入れた。
そこで出会った、奇妙な少年は言った。
「――あなたの望みが、良き形で叶う事を期待します――」
そこから来たと言う、見届け人の少女は言った。
「――せいぜぃ、面白い劇をぉ、演じてねぇ――」
望む所だった。相手が神だろうが悪魔だろうが、関係なかった。”術を。梨沙を救う”術”を得るためならば、どんな相手の手だって握るつもりだった。
示された”術”はおぞましいものだったけれど、何の問題にもなり得なかった。
梨沙のためなら、化け物なんていくら犠牲にしたって構わない。いや、犠牲の対象が人間だったとしても、僕は迷わなかっただろう。
全ては梨沙のため。
梨沙を、苦しみから救うためだった。
なのに。
それなのに。
最後に残ったのは、その梨沙の苦しみだけ。
どうして、こうなったのだろう。
どこで、間違ってしまったのだろう。
全て、”術”の示す通りにした筈なのに。
所詮は、化け物に与えられたものだったと言う事だろうか。
ゴポ……
梨沙が泣く。
言葉じゃない。声じゃない。自分の吐く血で、気管を鳴らして。
ああ。そうだ。
そうなんだ。
結局は、全てが最初に戻っただけ。
梨沙は死ぬ。
そして、僕も逝こう。
それで、全ては元通り。
「梨沙、楽にしてやるからな……」
そして、僕は欠片を掲げる。
「ずっと、一緒だから……」
そして僕は、冷たく光るそれを梨沙の胸へと振り下ろした。