参
「動きが、止まった……?」
目の前で起こっている事を信じられないと言う様に、流凪が呟いた。
今まさに、つきなを呑み込もうとしていた天牙。その動きが、あと一歩のところでピタリと止まっていた。
流凪も。そして、全てを受け入れようとしていたつきなも。皆が、その挙動に戸惑う。
そんな中、煌夜だけが何かを得心した様な眼差しでその様を見ていた。
「そうかい。それが、君の本当の望みかい……」
彼が、呟いた瞬間――
ジュウァアアアァアアアッ
耳をつんざく様な声を上げ、天牙がつきなから身を逸らした。
「あやな!?」
後を追う様に、叫ぶつきな。そんな彼女から目を逸らす様に顔を振ると、天牙はその四眼を煌夜達の方に向ける。
「こっちを、見た!?」
今まで、餌であるつきなにしか興味を示さなかった天牙。その行動の変化に、流凪は驚きの声を上げる。けれど――
「驚く事じゃないよ」
平坦な声が、混乱する流凪の心を凪ぐ様に響く。
声の主は、煌夜だった。
彼は、息を荒げてこちらを睨めつける天牙を、真正面から見つめていた。
その眼差しが、妙に満足げに見えたのは、気のせいだろうか。
「これでいいんだ。彼女は、本当の願いを掴んだ」
「煌くん……?」
「この先、彼女が狙うのは僕さ」
「……何故?」
威嚇する様に身体を震わせる天牙を見つめながら、流凪は彼に問う。そして、その答えは至極簡単。
「お膳立てをしたのが、僕だからだよ」
煌夜が、平然と言ったその時、
『煌夜……』
大気を震わせる様な声が、辺りに響いた。昏い、昏い、奈落の底で呻く呪詛の様な声。
『アンタ……ヨクモ、アタシ二つきなヲ……』
「否定はしないよ」
背筋を凍てつかせるその響きに、しかし煌夜は平然と答える。
「君の真の願いが何処にあるのか、確かめたかったからね」
どこまでも平々然とした声音。それに苛立つ様に、天牙は唸る。それは、獣の怒りではない。大事なものを壊されかけた、純粋な人としての怒り。
『許サナイ……!!』
「許してもらおうとは、思ってないよ」
『ソウ……。ソレナラバ……』
ズル……ズルリ……
天牙の背後から、十本の尾が巨蛇の群れの様に蠢き出る。
ピキ……ピキキ……
尾の先に開いた口が、ひび割れる様な音を立てる。そして、
ゴブゥアァアアアッ
洞窟の様な口腔が仄昏く染まり、漆黒の炎が溢れ出した。
「――――っ!!」
まだ、腰の立たない流凪。彼女を庇う様に、煌夜が迫る十本の炎閃の前に身を晒す。彼を飲み込む、漆黒の炎の群れ。しかし――
キュバッ
黒衣の中からまろびでた白蛇の群れが、黒炎の巨蛇を絡め消した。
「ソロモンの指輪……!!」
指輪を繰る煌夜を、黒い影が覆う。宙を舞った天牙が、彼に向かって踊りかかる。迎え撃つ様に伸びる、ソロモンの指輪。
ガギギッ
ぶつかり合う、破界の獣と制魔の宝具。しばしの拮抗。そして打ち勝つのは、破界の力。
バチィッ
指輪を蹴散らかした巨体が、煌夜に襲いかかる。四本の前肢の爪が、少年の身体を引き裂こうとしたその時――
「言っただろ。一張羅なんだ。破かれると困るんだよ」
床に突き刺さる爪をすんででかわした煌夜の身体が、宙を舞う。目で追う天牙。その視線の先で、煌夜が外套の下に隠れていた右腕を引き抜いた。
ザワ……ザワザワ……
細い右腕の先にあったのは、蠢く白帯――ソロモンの指輪の塊。細長く、鞘の様な形で蠢くそれを、煌夜がブンと振るった。途端、千々に解れ散る指輪。そして、
――チリン――
響く、鈴の音。それと共に、指輪の群れの中から現れたのは――
「抜いた……!!」
息を呑む様に声を上げる、流凪。
彼女達の目に映るのは、煌夜の右手に握られた”それ”。
その形は、細身の刀。しかし、その形を構成するものは金属ではない。それは、黒く蠢く漆黒の塊。闇と言うにはあまりに黒く、夜と言うにはあまりに深く。その様は、例えて言うなら混沌。正しく、刀の形を成した混沌だった。
ゴバァッ
上向いた天牙が、濁流の様に黒炎を吐き出す。しかしそれは、形を成した混沌の前にあえなく散り消える。
「―――ッ!?」
それを見た天牙の四眼が、驚きに見開く。
『オ前……ソレハ……マサカ、オ前ハ!?』
驚愕の色を見せる天牙に向かって、煌夜は言う。
「用は済んだからね。またしばらく、大人しくしておくれ」
何でもない事の様に、煌夜は言う。
――チリン――
混沌の柄につながれた鈴が、囁く様に鳴る。
迫る天牙の形相が、憎悪に歪む。
そして――
ズガンッ
混沌の刃が、天牙の身体を貫いた。
グガァアアアアアアアアン……
建物全体を揺らす振動と衝撃。もうもうと立ち込める灰塵の中から、大きく凹んだ床と、その中心に横たわるあやなの姿が現れる。
「ゲホゲホ……ホント、無茶苦茶ねぇ……。煌夜……」
落ちる埃を払いながら、魅鴉は煌夜の足元に伏すあやなを見る。。
「さて。こっからか……。どうなるか、見せてもらうわよ」
そう言って、魅鴉はその顔に薄笑みを浮かべた。
「殺しちゃったの?」
フラフラと近寄ってきた、流凪が訊く。
「この程度で死ぬなら、とうの昔に滅ぼされているさ」
言いながら、煌夜は横たわるあやなの向こうを見やる。
ズル……ズル……ズル……
聞こえてくる、何かが這いずる様な音。床に真っ赤な跡を残しながら、つきなが血染めの身体を引きずってきていた。
「あやな……あや、な……」
鮮血の滴る口からうわ言の様な声を絞り出し、あやなに向かって履い寄っていく。その鬼気迫る様子に、流石の流凪も一歩下がる。けれど、そんな彼女とは反対に、つかつかとつきなに近づいていく者がいる。
煌夜だった。
彼は這いつくばるつきなの前に立つと、彼女を見下ろす。
「流石に、世の理の外に立つ存在の一柱だね。指輪の拘束を受けた身で深手を負って、まだそれだけ動けるなんて」
そんな煌夜を、つきなは昏く燃える眼差しで見上げる。
「……どいて……。あやなの所に、行かなくちゃ……」
「そんなに大事かい?君を、餌として求めていた娘だよ?」
「貴方には……分からない……」
床にギリリと爪痕を残しながら、つきなは言う。
「あの娘は……初めて、わたしを必要としてくれた……。”時無”としてのわたしじゃなく、”つきな”としてのわたしを、必要としてくれた……」
カハッ
その口から血の塊を吐き出しながら、煌夜の足を掴む。
「……どいて!!どうせ消えるなら、わたしはあやなのために消える!!」
足にギリギリと血染めの爪が食い込むも、煌夜は動じない。ただその半分だけの眼差しをつきなに向ける。
と、
ヒタリ
煌夜の首に、冷たい刃が触れた。見れば、いつの間にか近寄った流凪が、背後から露羽を煌夜の首に突き付けていた。
「……行かせてあげてくれないかな?煌くん」
ククッ
その言葉に、顔を微かにほころばせて煌夜が笑った。
「やれやれ。想いに変わりはなしかい?本当に、今回の事案は面白いなぁ」
「そうだね。ボクもそう思う。でも、自分に嘘はつかないよ。これが今の、ボクの気持ちだから」
言いながら、流凪はその刃を煌夜の首に立てる。
「君に勝てるとは思わないけれど、せいぜい抵抗させてもらうよ」
クククッ
煌夜は笑う。その顔を微かに、けれど確かにほころばせて。嬉しそうに。楽しそうに。煌夜は笑う。
「別に、邪魔する気なんてないよ」
そう言うと、煌夜はフワリと外套を揺らす。途端――
シュルルッ
つきなに巻きついていたソロモンの指輪が解けて、煌夜の外套の中へと戻った。
瞬間、発動するつきなの”不変”。
袈裟懸けに身体を割っていた傷が瞬時に消え、流れて続けていた血も止まる。
「!!」
自分の身体が元に戻ったと見るや、つきなは床を蹴ってあやなへと走り寄る。
「うわぁ、早ぁ」
遠くで揶揄する魅鴉の声も、その耳には入らない。倒れるあやなの元にたどり着くと、その身を抱き起こす。
「あやな!!しっかりして!!ねえ、あやな!!あやな!!」
必死に搖するが、ダラリと下がったあやなは目を閉じたまま微動だにしない。咄嗟に胸に耳を当てるが、感じる鼓動は酷く弱い。
「まさか……そんな、そんな!!」
生まれてから、初めて感じる心の揺れ。身体の底から、震えが来る。それが恐怖と言うものだと知る由もなく、つきなはただただ、乱れる。
「嫌だ!!逝かないで!!お願いだから!!お願いだから!!置いていかないで!!」
あやなの身体を抱きしめ、泣きじゃくる。そんな彼女に、近づく人影。
ギッ
その気配に、射殺す様な視線を向ける。立っていたのは、煌夜だった。
シャアァアア……
あやなの身体を守る様に抱き締めながら、威嚇音を放って身構える。そんな彼女に向かって、煌夜は言う。
「心配しなくていいよ。もう、何をする気もないから」
「それを、信用しろと言うの?」
つきなの懐疑は晴れない。”あの場所”にいた者達と同じ。考えが、心が読めない。ならば、この場で一番警戒すべきはこの少年。先のやり取りで、力が及ばないのは分かっている。けれど、それでも引く訳には行かなかった。
ザワリ
つきなの髪が、騒めく。白い肌が蒼白く染まり、その表面に無数の梵字や呪禁が浮かび始める。
先にも見せた、神鬼化が始まっていた。
しかし、それにも煌夜が動揺する事はない。
「う~ん。もう少し柔軟になってくれないかなぁ。それじゃあ、落ち着いて話も出来ない」
今までの所業を、引っ絡めて棚に上げる様な言葉。つきなはますます、警戒を濃くする。けれど、そんな彼女に声をかける者がもう一人。
「大丈夫だよ。煌くんは酷いぶっきらぼうだし、考えてる事は分からないけど、嘘だけはつかないから」
煌夜の後ろに立った流凪が、そう言った。
「褒めるか貶すか、どっちかにしてくれないかな?」
辟易した様にぼやく煌夜に、つきなは問う。
「……貴方は、一体、何……?」
「僕かい?僕は”僕”さ」
はぐらかす様な答えに、しかしつきなは誤魔化されない。
「あやなは、訃世よ。この世の理の外にいる存在。それを、一方的に打ち倒すなんて、普通は考えられない」
そして、つきなは改めて問う。
「”貴方”は何?」
その言葉に、煌夜は目を細めて言う。
「……答えは、出てるんじゃないのかい?」
ザワリ……
途端、一変する辺りの空気。つきなの髪が、一層大きく騒めく。
「そう……。そうだね……」
昏く光を放つ、つきなの双眸。蛍緑の眼差しが、煌夜を映す。
「”理外れ”を害せるのは、”理外れ”だけ。なら、貴方も理外れ。そして、そんな存在、いくつもありはしない……なら……」
そう。物質は、同じ位相の物質にしか干渉出来ない。
つきなは時無と言うなの理外れ。故に、世の理の内に在るもの達に、彼女を殺める事は出来ない。
あやなも、訃世之天牙と言う名の理外れ。
だから、彼女は同じ理外れのつきなを喰う事が出来る。ならば、そのあやなを容易に打ち倒す、煌夜と言う名の存在は?
「……あやなをこんな形に押し込んだのは……封じたのは……」
そして、つきなと言う名の理外れはたどり着く。目の前の、少年の姿をした”それ”の真理に。
「煌夜、だね……?」
長い髪に覆われた煌夜の半面。漆黒の髪の奥で、見えない筈の左目が、淡く光った様に見えた。