弐
「随分、追い込まれたみたいねぇ」
周囲に満ちる毒気を八雷で張った結界で防ぎながら、魅鴉は足元の二人を見下ろした。
「ねぇ。ちょっと、聞いてる?」
自分の声に一向に反応しない二人に、些か苛つきながら、魅鴉は言う。
否。正確には二人ではない。二人の内の一人、梨沙は今文字通り地獄の苦しみの中にある。人の話など、聞ける状態ではない。
魅鴉が語りかける相手は、ただ一人。梨沙を掻き抱く少年、光貴だった。
ガンッ
苛立たしげに、光貴の前の床を踏み砕く。けれど、いつかは効果のあったその行為も、今の彼には届かない。
己の腕の中で、苦痛に喘ぎながら戦慄く梨沙。それを抱き締める光貴の右手には、鋭く光る刃の欠片が握られている。
それを見た魅鴉が、やれやれと言った調子で溜息をつく。
「そんなもの後生大事に持って、何考えてんのよ」
答えはない。光貴はただ、刃が手に喰い込むのも構わずに、それを握り続ける。
その様に、もう一度溜息をつくと、魅鴉は腰を屈める。
「あんた」
俯く光貴の顎を掴むと、強引に上を向かせる。そして、どこか虚ろなその瞳に向かって話しかける。
「煌夜に、何を吹き込まれたのか知らないけどね。馬鹿な考え起こすんじゃないわよ。こんだけ手間かけさせて、つまんない終わり方したら許さないからね。それと……」
言いながら、その身を少し逸らして光貴の視界を広げる。
「煌夜が言うにゃあ、これから何か、面白いモノが見れるそうよ。事を決めるのは、それ見てからでも、遅くはないでしょうよ」
「………」
その言葉に導かれる様に、光貴の視線が流れる。そこに映るのは、巨大な異獣と一人の少女の姿だった。
……その日も、あたしは獲物を求めて夜を彷徨っていた。けれど、人の、それも子供の足で移動できる距離なんてたかが知れている。足で行ける範囲の獲物は、すでに狩り尽くしていた。
チョロチョロと飛び回る雑霊や精霊をかき集め、貪りながら彷徨う。そんな事をしているうちに、あたしは見知らぬ場所に入り込んでいた。
そこは、とても奇妙な空間だった。
一切の光が無くて。
一切の音が無くて。
周囲を見渡すと。沢山の棚が目に入った。
一つ一つが馬鹿馬鹿しい程に大きな、黒塗りの棚。
全部が書架らしくて、中には微塵の隙間も無くギッシリと本が詰め込まれていた。
あからさまにおかしな場所だったけれど、そんな事はどうでも良かった。
辺りに満ちる香気。それが、あたしの心を捉えていた。
食べ物の匂いだった。この上なく香ばしい、食べ物の匂いだった。あたしの糧に相応しい妖気、神気。それを、ここの本達は持ち合わせていた。
魔道書の類だろうか。よく分からなかったけど、そんな事はどうでもいい。あたしが、舌なめずりをする思いで手近の本に手を伸ばそうとしたその時、
「ちょっと、お待ちを」
突然、静寂が揺れた。
食事に水を差されて、苛つきながら目を向ける。その先に見えたのは、丸い大きな机。
そして、その中心に座る男の子の姿だった。
彼は、柔和な顔に少し困った様な表情を浮かべてこっちを見つめていた。
「流石に、食べられては困りますね。ここにある本達は、皆誰かに必要とされているものですから」
そう言う彼自身も、魅力的だった。当然、人としてではなく、食べ物として。
「邪魔しないで。じゃないと、君から食べるよ」
彼に視線を止めたまま、あたしはそう言った。
クスクスクス
彼は、恐れる様子もなく笑う。
「それも困りますね。僕は、この娘を守らなければいけないもので」
そう言って、チラリと後ろを見やる。そこには、寝椅子に横たわって昏々と眠る、髪の長い女の子の姿。
あたしは、言う。
「美味しそうだね。その娘も」
「光栄ですね。でも、やめておいた方がいいですよ。過ぎた行いは、身を滅ぼします」
身を滅ぼす?あたしが?望むところだ。この苦しみを引きずって在り続けるくらいなら、いっそ消してもらいたい。
興味が、湧いた。あたしは、彼らに向かって近づいていった。
「おや?来ますか?怖い怖い」
少年が笑う。
本気で怖がっていないのが、バレバレだった。彼らの前に立ったあたしは、問うた。
「君達は、何?ここは、何なの?」
「そうですね。貴女のためのビュッフェでない事は確かです。」
さっきからの言動を聞いてると、どうやらあたしが何かを知っているらしい。それなのに、怯える様子が全くない。それを察した途端、彼らに対する食欲が少し萎えた。
「だいぶ、追い詰められている様で」
「そうだね。正直、どうにかなりそうだよ」
知っているのなら、気を遣う必要もない。あたしも、普通に話す。
「でしょうね。だから、“ここ”に来たのでしょうし」
「……どういう事?」
「お教えしましょう」
聞いた話に、あたしは内心驚喜した。あたしの望みを叶える術。ならば、この空虚な苦しみを終わらせる事が出来ると言う事なのか。あたしは、念を押すように彼に顔を近づけた。
「その話、本当?」
「嘘は言いません。言っても、僕に得はないでしょうし」
彼が、あたしの背後を指差す。その先にあるのは、暗がりに延々と伸びる書架の群れ。
「探してごらんなさい。貴女なら、すぐに見つけられるでしょう」
「………」
促されるまま、あたしは本の群れの中へと向かった。
「摘み食いは、しないでくださいね」
後ろでそんな声が聞こえたけど、そんな事はどうでも良かった。
そして、あたしは見つけた。あたしの願いを叶う、その術を。
それは、掌に収まる程の小さな手帳。あたしは、それをそっと胸にかき抱いた。
「……見つけた様ですね」
薄暗い書架の奥を見つめながら、少年は言う。
「あの娘の担当には、君に付いて貰いましょうか」
何処に放ったかも分からない言葉。けれど、それに応じる様に傍らの闇が動いた。
「やっぱりね。そうなると思ったよ」
そんな言葉と共に、闇の中からスルリと抜け出て来たのは夜色の外套を纏った少年。長い後ろ髪が、黒い蛇の様に揺れる。
「おや?何の事でしょう?君が手近にいたから頼んだだけですよ?煌夜」
「白々しいね。君なら、全て承知の上だろうに。“切人”」
煌夜の言葉に、切人と呼ばれた少年はクスクスと笑う。
「訃世を宿した少女ですか。どんな夢を、見せてくれましょうかねぇ……」
言いながら、切人と呼ばれた少年は傍らの少女の髪を梳る。その様を見て、夜色の少年が溜息をついた。
「やれやれ。本当に貪欲なのはどっちかな?ねえ、天姫」
昏々と眠る少女の顔が、微かに笑んだ様な気がした。
手にした本に記されていた方法は、至極簡単だった。
本当に、こんな事であたしの願いが叶うのかと思うくらい。でも、あそこでの出来事をあたしは疑ってはいなかった。
それに何よりも、証になるのはこの手の中にある本。それが発する香気。堪らなく食欲を刺激する香りが、この本が決してまやかしではない事を如実に証明していた。何度も湧き上がる、齧りつきたくなる衝動。それに耐えながら、あたしは本を読みふけった。
そして、示された時はさほど待つ事なく訪れた。
求めるモノは、すぐに見つかった。夏風に枯れた草の中で、その朱い色がとても綺麗に映えていたから。
初めて見た時、その姿に見とれた。素敵だと思った。とても素敵だと思った。
思っていた。見つけたら、きっと我を忘れてむしゃぶりついてしまうだろうと。
だけど、その姿を見た瞬間、そんな事しちゃ駄目だと思った。絶対に、駄目だと思った。
獲物を前にして、理性が本能を押さえるなんて、普段のあたしからは絶対に考えられない事なのに。
でも、その時のあたしは確かに思った。この美しさを壊しちゃいけない。この至高の造形を、失っちゃいけないと。
それと同時に、怖くなった。この娘を、このままにしておく事が。このままここに置いておいたら、別の誰かがこの娘を見つけてしまう。そしたらきっと、この綺麗さに魅せられて連れて行ってしまう。
それは嫌だった。絶対に嫌だった。
この娘はあたしのもの。そう。絶対にあたしのものなのだ。だから、あたしは持って帰った。彼女を背負って、持ち帰った。抱き上げた時、漂う金木犀の香りと密着する身体に、心臓がドキドキした。
そう。あの時の感情。感じた事もなくて、最初は戸惑ったけれど。今なら分かる。あたしは、恋をしたのだ。この娘に。獲物である筈のこの娘に、あたしは、恋をしたのだ。
その日の深夜。その娘は目覚めた。目覚めて、あたしの所から去ろうとした。
だから、あたしは彼女に鎖をつけた。
名前と言う名の、鎖をつけた。つけた鎖の名は”つきな”。あやなと月の様なあの娘を絡める鎖。
もう、逃がさない。逃がしは、しない。抱き締めた腕の中で香る、金木犀の香り。
食べる以外の喜びを、あたしは初めて知った。
それでも、飢餓が収まる訳ではない。
否、身近につきながいる分、その衝動は強くなった。
極上のご馳走を前にしながら、終わりのないお預けをくらっている様なものだ。
だから、夜の街を漁りまくった。
必死に。無我夢中で。
それでも、飢餓は収まらない。いつしか、意識が霞む様にすらなってきた。駄目だと思った。このままでは、いつかつきなを食べてしまう。
そんな事は、あっちゃ駄目だった。絶対に、あっちゃいけない事だった。
その夜、一際大きな衝動があたしを襲った。物凄い餓えが、意識を、理性を揺さぶる。
マズイ。
マズイ。
マズイ。
あたしは気遣うつきなの手を振り払って、夜の街へと飛び出した。胃袋がめくれ上がる感覚の中、えづきながら獲物を探し迷った。
目に付いた雑霊や小霊を、片っ端からかき込んだ。でも、止まらない。
疼く飢餓が、止まらない。
駄目だ。
駄目だ。
このままでは、つきなの元に帰れない。いつまでも。永遠に。そんな恐怖に戦慄きながら、ひたすらに漁り続けた。
何処をどう彷徨ったか、明確には覚えていない。
最後に見たのは、外灯の光の中で揺れる夜色の外套。
千々に途切れる、意識。
そして、次に目覚めた時。
あたしの口の中は、金木犀の香りに溢れかえっていた。