壱
瞬間、流凪は何が起こったかを理解出来なかった。
彼女が放った麗槍。天牙の心臓を抉る筈だったそれは、黒く蠢く体毛に巻き取られ、微かな波紋となってその身に染み込む様に消えていく。
飲まれていく。
それだけではない。天牙の体毛は槍の作った軌跡を蛇の様に這い上がり、その先にある露羽の本体。そして流凪の手へと絡みついた。
「うぁ……!!」
同時に襲う、強烈な脱力感。膝が、ガクリと落ちる。
「こ……この……」
力を集中して踏みとどまろうとしたその時、
フッ
「!?」
急に落ちた影。
見上げると、天牙の周囲を守る様に浮遊していた眼球が一つ、流凪を見下ろしていた。
……喰イタイ……
怖気を誘う声が響く。
ベリッ
眼球の中心に、割れ目が走る。
グチグチグチッ
おぞましい音と共に、汚らしい濁液が溢れる。ひび割れ、めくれ上がったその奥に、幾重にも並んだ歯牙の群れが現れた。
それが、ガチガチと牙を鳴らしながら、流凪に迫る。
「こ……この……!!」
迎撃しようとするが、込める力は巻き付いた体毛に全て吸われていく。
とうとう、流凪の膝が落ちる。嘲笑う様に、口を開く眼球。喰いかかるそれを前に、流凪は歯噛みする。
(これ……、駄目かも……)
流凪がそう思ったその瞬間、
ヒュンッ
一瞬、空気が揺れる気配。そして、
チリン
響く、鈴の音。
ズバババンッ
今まさに流凪の身体を喰い切ろうとしていた眼球と、絡みついていた体毛が粉々に切り飛ばされた。
「は……」
解放され、息を吐いた流凪が崩れ落ちる。
「大丈夫かい?」
それを成した煌夜が、倒れた流凪を見下ろしながらそんな事を問う。対する流凪は、答える余力もなく荒い息をつく。
「言っただろう?天牙は神や妖魅を喰らう。それに類する力もまた然りだ。無茶をするもんじゃないよ」
「でも……」
「見てごらん」
見れば、血に飽いたのだろうか。天牙が再びその身を進め始めていた。けれど、煌夜が促すのはその先の光景。
血の海に伏していた筈のつきなが、その身を起こしていた。
絡みついたソロモンの指輪は、変わる事なく効力を発している。
その証拠に、袈裟懸けについた傷からは今だ止めどなく血が溢れ、彼女の身を真っ赤に染めていた。
そんな血溜りの中で、彼女は震える手を支えにして身を起こしていた。
その目には、確かに迫ってくる天牙の姿が映っている筈である。けれど、彼女の顔に浮かんでいるのは、恐怖でもなければ絶望でもなかった。
今、つきなの顔に浮かんでいたもの。それは――
「彼女、嬉しそうだね」
「……うん……」
煌夜の言葉に、仰向けに倒れたまま、流凪は頷く。
「まるで、恋人に操を捧げる乙女の様だよ」
「……恋人?」
それを聞いた流凪が、クスリと笑った。
「そうかもしれないよ」
「おや?冗談のつもりで言ったんだけどね」
「……分かってるくせに……」
まだ、立ち上がる力がないのだろう。横たわったまま、流凪は話す。
「つきなは、ずっと一人だったからね」
仰向けにひっくり返ったその眼差しが、少し濡れているのは気のせいだろうか。
「ずっと昔に現に生じてから、同族は一度も生まれてない。近しい存在もない。文字通りの一人ぼっちだよ」
「そうだろうね」、と煌夜は相槌を打つ。
「終わる事もない。朽ちる事もない。永遠不変の存在。それだけで、十分な”理外れ”だ。同族の存在なんて、世界が許さないだろうさ」
それを聞いた流凪が、ふふっと苦笑する。
「何だか、何処かで聞いた話だなぁ」
「確かにね」
「けど」、と流凪は言う。
「あの娘は、それでも求めてたんだ。共に在れる同胞を。想いを共に出来る輩を。だけど、そんなものは見つからなくて……」
そして、ハア、と大きく息をつく。
「とうとう、つきなの心は枯れてしまった……」
ジュルリ……
何かを啜る様な音が響く。
見れば、いつの間にか間近まで這い寄った天牙が、濁緑の唾液をこぼしながら、つきなの頬を愛しげに舐めていた。
それを見て、煌夜は言う。
「果てに行き着いた願いが、あれかい?」
「そう……。きっと、これは必然……。だけど……」
天牙が、ゆっくりと口を開ける。文字通り、耳まで裂けた口。吐息と共に、黒い燐火を散らしながら、その中につきなを収めようと首を伸ばす。
「これは、間違いなくつきなの願い……。でもね、煌くん……」
流凪は呟く。独りごちる様に。
「これで、いいのかな……?」
けれど、答えを求める様に。
「他に、道はなかったのかな……?」
紡ぐ言葉は、違う事ない憐憫に満ちている。
けれど――
「”他”は、ないよ」
彼は言う。冷たく、冷静に。
「全ては、”術”の、導くままさ」
その言の葉だけを、繰り返した。
流れた血の量は、知り様もない。霞む視界の中で、つきなは遠い記憶を想起していた。
初めて己の存在を認知した、どことも知れぬ谷の底。
満ちる硫黄の臭いと、幾重にも重なる白骨の山。
地獄の如き世界で踏み出した、一歩の感触。
幾度も見た繁栄。
幾度も見た滅び。
数多に在った生。
数多に在った死。
蘇る記憶に、取り留めはない。
ああ。自分は何で、こんな事を。
揺らぐ意識の中で、つきなは自問する。
答えなど、出る筈もない事を知りながら。
永い時の間には、同胞を求めた事もあった。
獣に。
神に。妖魅に。
そして、人間に。
けれど、その想いは叶わなかった。
知恵のない獣には、恐れられる。
心ない神妖には、拒絶される。
そして、知恵も心もある人間には、裏切られた。
どれほどの時を、彷徨ったか。
どれほどの地を、巡ったか。
けれど、見つからない。
共に生きれる同胞も。
生き続けるその意味も。
その夜、一つの文明が滅んだ。大きな、戦火に焼かれて。
焼き尽くされ、廃墟となった国跡。そこに立ちながら、いつしか彼女は求め始めていた。
自分が滅びる、方法を。
天牙が、近づいてくる。ゆっくりと。酷く、ゆっくりと。
ギシギシと、無数の口の歯牙を軋ませながら。
煌々と輝く、濁赤の眼光を揺らしながら。
つきなは逃げない。逃げられない。否。逃げる気など、起こりもしない。
彼女は待つ。その時を。永久に等しき時間、描き続けた想いの時を。
目の前で、歪んだ亀裂の様な笑みが広がる。
ガチリ ガチリ ガチリ
ゆっくりと開きいく、訃世の奈落。
招き手の様に伸びてくる、蒼白い舌。蛇のそれの様に二股に分かれた先端が、つきなの頬を舐めさする。
怖気を呼ぶ生温いその感触。頬を滴る唾液のぬめり。けれどそのどれも、彼女に忌避の思いを呼び起こしはしない。そう。これこそが、自分の望み。
会いたかった。ずっと、ずっと。求めていた。この世界の。存在の全てを見限った、あの時から。
いつしか立った、あの場所。丸い机の中心に座した少年は、穏やかな笑顔でこう言った。
――望む術が、ありますよ――
そして今、望みはまさにここにある。
それも、悠久の中で初めて出来た愛しいと思う者として。
確かに、今の姿にはその面影は微塵もない。それでも、分かる。
初めて出会った晩。直に触れた、あの娘の内。そこに感じたのは、無限の奈落。ヒョウヒョウと空風の様に泣く、広大な虚。
それを知って、理解した。
ああ、同じだと。
何もなくて。
誰もいなくて。
泣いている。
たった一人で、泣いている。
――わたしと、同じ――
そう。自分は、異端。
この娘も、異端。
心を満たせず。
身体を満たせず。
寒い、寒いと泣いている。
悟っていた。この娘もまた、あの場所へと行ったのだ。
持っていった願いは、ただ一つ。
己の虚ろを、埋める事。
だから、この娘は自分を欲した。自分が、この娘を求めた様に。
尽きる事なき、不変の異端。
満たされる事なき、虚ろの異端。
自分を食べれば、この娘の虚ろは満たされる。
この娘に食べられれば、自分の不変は終わる。
そう。互いの願いは、互いの存在によって成就される。
だから、呼び合った。
だから、巡りあった。
ねえ。そうだよね。
そうなんだよね。
あやな。
もういいよ。もういいんだよ。
あなたの苦しみは終わる。
わたしが、終わらせてあげる。
だから、貴女も。
――わたしを、終わらせて――
そしてつきなは、救いを求める様に両手を掲げた。