伍
流凪は思っていた。
目の前の彼女を。
訃世之天牙と言う、存在を。
世界が創ったと言う、今世最凶の調律者を。
よほどその味に魅せられたのか、天牙は床に広がるつきなの血を啜り続けている。
床にへばりつく様にして血を貪る、その姿。
その歪な造形が、流凪にある思いを起こさせる。
「……歪だ……」
「うん?」
流凪の呟きに、隣りに立つ煌夜が視線を向ける。
「歪なんだ……」
「何がだい?」
「天牙に、同胞はあるの?」
その問いに、煌夜が目を細める。
「いや。天牙に同類はいない。今世で唯一無二の存在だ」
その答えを、しかと咀嚼する流凪。そして、もう一つ問いかける。
「じゃあ、天牙に、滅びはあるの?」
その意を察しているのか、煌夜は淡々と。ただ淡々と答える。
「ないよ。死という概念も、滅びという事象も、天牙にはない」
「どうして?」
「天牙はね、強力すぎるんだ。だから、同族の存在も、種を増やす事も、世界は良しとしなかった。かと言って、天牙が滅びれば、事は元の木阿弥だ。だから、世界は天牙に滅びを与える事もしなかった」
「………」
望む答えの、全てを得た流凪。それを理解し、そして、再びその言葉を口にする。
「歪なんだよ。煌くん」
「………」
「種としての保存本能もなければ、死による終わりもない。いつまでも……どこまでも、貪り続けるだけ……。生物と言う位相において、こんなに歪なことはない……」
その言葉を、黙って聞く煌夜。
「あの娘がいたら、そのままでいるのなら、世のバランスは、文字通り壊されてしまう。当たり前だよね。ただ、喰らい続けるだけなんだから。何よりも己の均衡を重んじる世界が、そんなものを生み出すなんておかしいよ……」
それを聞いた煌夜が、わざとらしい顔と声でもって言う。
「いつも寝とぼけてるだけかと思ったら、意外と考えるじゃないか。少し、見直したよ」
「何それ。酷いなぁ」
天牙を凝視したまま、憤慨する流凪。そんな彼女を、煌夜は優しげな目で見やる。
「天牙は間違いなく、世界が生み出したものさ」
「………」
「でもね、一つだけ、計算違いがあったんだよ」
「計算違い?」
それを聞いた煌夜が、ククッと笑う。今までの様な、抽象的な笑みではない。それは彼が見せる、確かな感情の吐露だった。
「世界はね、甘く見てたんだよ」
「何の事?」
途端――
チリン
鈴の音が、鳴った。
――そこに、地獄が広がった。
在ったのは奈落。
上も。下も分からない。
ただ、昏い。昏い。
限りない、奈落。
そこに、響く。
声だけが、響く。
ア゛ァ゛ア゛ア゛ア゛ァ゛ァ゛ア゛ア゛………
ヨクモヨクモヨクモヨクモヨクモヨクモ………
カエシテカエシテカエシテカエシテカエシテカエシテ………
ユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイ………
オ゛オ゛ォ゛オ゛オ゛オ゛オ゛ォ゛オ゛オ゛………
ホロベホロベホロベホロベホロベホロベホロベホロベホロベ………
クラエクラエクラエクラエクラエクラエクラエ………
――ク イ ツ ク セ――
怨嗟だった。
終わりもしない。
途絶えもしない。
途切れる事すらない。
怨嗟の声。
それが、奈落を満たしていた。
夜を、闇が満たす様に。
延々と。
昏い奈落を、満たしていた。
「……煌くん……。これは、何……?」
吹き乱れる、負の叫び。常人であれば、聞き続ける事すら困難であろうその中で、流凪は平然と立っていた。
立ちながら、隣りにいるであろう煌夜に向かって、問いかける。
それに応じる様に、笑みを含んだ声が聞こえた。
「流石だね。この中で、正気を保っていられるなんて」
「おべんちゃらはいいよ。質問に、答えて」
「ここはね、天牙(彼女)の中さ」
「中?」
「そう。彼女の、『訃世之天牙』の腑の中さ」
答える声に、乱れはない。この事象を見せている煌夜自身も、何の負荷も感じていない事は明白だった。
「天牙の中では、常にこの憎悪の嵐が吹き荒れている。これが、天牙の絶えなき飢えを駆り立てているんだ」
「……こんなものを見せて、どうしようっていうのさ?」
「これが、君の問いに対する答えだからさ」
「………?」
怪訝そうな顔をする流凪に、煌夜は言う。
「言っただろう?天牙は、歪だと」
「……うん」
「それはね、天牙が既に理から外れているからだよ」
ピクリ
それまで微動だにしなかった流凪の肩が、ピクリと揺れた。
煌夜は話す。ゆっくりと、けれど確かな嘲りの意を込めて。
「確かに、天牙に滅びはない。その代わり、世界はある理を架していた」
「プログラム?」
「神や妖魅の数を適当に減らしたら、天牙は眠りにつく筈だったんだ。次にバランスが崩れるその時までね。だけど、天牙は止まらなかった」
「何故?」
「簡単な話さ」
答える煌夜の声が、微かに揺れた。それが、笑みの気配だと気づける者はどれほどか。
「言っただろう?天牙は、神や妖魅に対する憎悪を純化して生まれたと」
「そうだね」
「それが、仇になった」
「どういう事?」
「天牙の身を成す、人々の憎悪。それが、世界の組み込んだ理を凌駕した」
「!!」
軽く目を見開く流凪。
煌夜は言う。嘲りを微塵も隠さない声音で。
「とどのつまり、世界は甘く見てたのさ。心ある存在。人間の想いの怖さって言うものを」
オ゛ォ゛オ゛ア゛ァ゛ア゛ア゛ア゛ァ゛ア゛ア゛ア゛
夜を象る少年の言葉に呼応するかの様に、怨嗟の意思達が狂喜の叫びを上げた。
気付くと、流凪は元通り、常夜灯の照らす夜の廊下に立っていた。
隣りには変わらずに、煌夜が立っている。
目の前では変わらずに、天牙が血を貪っている。
「説明は、これで終わりだよ」
煌夜が問う。
「納得は、出来たかな?」」
「うん、ありがとう。煌くん」
スラリッ
言葉と共に、流凪が鞘に収めていた露羽を抜き放つ。
「何をする気だい?」
「分かるでしょ」
愛刀を構えながら、流凪は言う。
「天牙は、すでに“理外れ”。理から外れたものに殺められれば、その魂は転生の流転から引き剥がされてしまう」
「だから、止めるのかい?つきなが、喰われる前に」
頷く流凪。その髪が、ザワリとざわめく。その気配の昂ぶりに答える様に、露羽の刀身が微かに鳴り始める。
リィイイイイイ……
ザザザザザ……
露羽の鳴き声に呼応する様に、周囲の大気が揺らめく。
揺らめきは波となり、水流と化して露羽の刀身に絡みついていく。
その様を見ていた煌夜が、ククッと笑った。
「らしくないね。魅鴉と言い、君と言い。今度の案件は、随分と面白い」
「……あんな快楽主義者と同類に扱われるなんて、甚だ不本意だよ」
クシュンッ
少し離れた所で、小さくクシャミの音が響いた。
「“同類”かい?」
クククッ
珍しく、声を出して笑う煌夜。酷く愉快そうに、言う。
「それを言うなら、ここに在る皆のほとんどがそうじゃないのかな?天牙も。つきなも。そして、僕達も」
「………」
流凪は答えない。
ただ、その意思を表する様に、露羽は透麗な水の衣を纏っていく。
「もし、君の手で天牙が倒れれば、さっき君が言った事が、今度は天牙に降りかかる事になる」
「………」
「担当者としては、天牙にもつきなに比肩する程度の思いは持って欲しい所なんだけどね」
ギュルルルルルル……
流凪の手の中で、集まった水は凝縮し、先鋭し、形を成していく。その様は、まるで麗水に模られた長槍の様に見えた。
「駄目だよ。煌くん」
心なしか、苦しげな声で流凪は言う。
「ボクは一人だ」
渦巻く麗槍の切っ先が、天牙に向けられる。
「二つの事は、抱えられないよ」
「……そうかい」
煌夜が、溜息をつく。
「邪魔、しないでね」
「しないよ」
流凪の懇願にも似た言葉に、煌夜は返す。
「どうせ、それもまた……」
研ぎ澄まされた麗槍が、引き絞られる。
向けられる先は、天牙の脇腹から斜め。恐らくは心臓の位置。
「ごめんね……」
小さく、紡ぐ言の葉。そして――
ズボァッ
大気を抉る音と共に、渦巻く麗槍が打ち放たれる。
血に魅せられ、気づかないのだろうか。天牙は、振り向きもしない。
解き放たれた槍は、キラキラと輝く水滴を散らしながら、狙い外さず、天牙の急所へと抉り込んだ。
それを見届けながら、煌夜は最後の言葉を呟く。
「”術”の導く、ままだから」
瞬間、澄んだ水滴と朱い珠が、同時に夜の闇を飾った。