肆
「反応が、あったみたいだね」
大量の血溜りに沈むつきなをそのままに、煌夜は後ろへ向き直る。それを、流凪は冷たい眼差しで迎えた。
「……いいのかな?」
「何がだい?」
「本当に、これでいいのかな?」
流凪の言葉に、煌夜は目を細める。
「全ては“術”の導くまま。行き着く結果は、見届け人には関わりのない事だよ」
「……相変わらずだね。君は……」
「”僕”が情など持っていても、仕方ないからね」
紡ぐ言葉は、あいも変わらず冷淡だった。
倒れたつきなからは、止めどもなく血が溢れる。床は見る見る、血溜りと化していく。
「……傷、消えないなぁ……」
「指輪で封じてるからね。妖力は、発動しないよ」
「このままにしてたら、死んじゃうのかなぁ……」
そう。霊器・『ソロモンの指輪』は、あらゆる妖力・魔力・神力を無条件に抑制する力を持つ。
その力は強大で、かつて大天使ミカエルによってその一部を授けられたソロモン王は、数多の神霊・魔神を束縛し、従わせた。
それが、今まさに証明されていた。指輪に束縛されたつきな。彼女の身に刻まれた切り傷からは大量の鮮血が溢れ出ている。ドクドクと床に溜まっていくそれは、一向に止まる様子を見せない。
つきなは、”時無”。時の流れから外れたその身は、本来”不変”。その身体は変わる事なく、また変える事も出来ない。どんな傷を受けても、それは”不変”の力によって瞬時に無かった事になる。未来永劫、変わる事のない存在。それが、時無。
しかし今、ソロモンの指輪によって妖力を抑制されたつきなは、その不変の力を失っていた。その傷は消える事なく、流れる血も止まらない。恐らくは、死という変化から逃れる術も失っているだろう事は、容易に予測出来た。
「死んじゃうんだろうなぁ……」
そんな事を言いながら、つきなを見つめる流凪。そんな彼女に、煌夜は声をかける。
「辛いのなら、場を離れた方がいい」
けれど、流凪は黙って首を振る。
「これから起こる事は、分かっているんだろう?」
今度は頷く。そして、言う。
「仕事だから。見届ける」
その言葉を聞いた煌夜は、また彼女の頭をクシャリと撫でた。
「……呑気にくっちゃべってる場合じゃないわよ」
魅鴉が、囁く様に言った。
煌夜と流凪が、振り返る。
ピチャン
重い、水音が響く。
真紅だった。
床が、赤一色に染まっていた。
むせ返る様な、金木犀の香。
つきなから流れた血。いつしかそれが、辺り一面を沼の様に浸していた。
そして、その真紅の泉の中で――
あやなが、立っていた。
その身の下にまで広がった、つきなの血溜り。それに、全身を染めて。ユラリユラリと、夢見る様に立っていた。薄く開いた口から、赤い舌がチロリと伸びる。それが、顔を染めた血をペロリと拭う。
コクリ
小さく鳴るおとがい。虚ろな目が、とろける様に潤む。その様は、まるで至上の美酒を飲む恍惚に浸っている様に見えた。
ペロリ
舐める。
ペロリ
何度も。
ペロリ ペロリ
何度も。
ペロリ ペロリ ペロリ
何度も舐めては、飲み下す。その度に、その目に潤む恍惚は深くなっていく。
「始まった、みたいだね……」
「ああ……」
流凪の言葉に、煌夜が頷く。
「へぇ……これはこれは……」
漂い始める気配に、魅鴉が興味深げに目を細める。
「始まるよ。備えておいで」
煌夜の言葉に、二人が身構える。
その時、血の海に浮かぶつきなが、消え入る様な声で呼びかけた。
「……あや、な……」
その声は、届いたのだろうか。
愉悦に歪む、あやなの顔。その瞳が、紅く輝き始めていた。
ユラリ
最初に揺らめいたのは、炎だった。
闇の様に昏く。夜の様に深い。黒い。黒い炎。
それが、熾火の様に這い登る。溶けて弾け、ビチャリビチャリと飛沫を散らす。
地に染みた炎がゴボリゴボリ息を吐き、その中から丸い形が浮かび出る。
ヌラヌラと潤るそれがグチョリと割れて、澱の様な滴りの中から赤濁した瞳孔が覗く。
幾つも幾つも、それが浮かぶ。
幾つも幾つも、それが覗く。
キョロリ キョロリ キョロリ キョロリ。
細い腕は歪に曲がり、幼い足は干割れ、小さな口はズルリと裂ける。
ブツ ブツブツブツ ブチリ ブチ
響き渡る、割れる音。
ズボリ ズボリ ズボリ
長い長い、長い何かがまろび出る。
何本も何本も何本も。もがきのたうち狂い踊る。
濁った火燐を散らし、ゾブリと割れるはその先端。そこから覗く幾重の歯牙が、常夜灯の光の中で、ゾロリと輝った。
「ああ……」
それまであやなだったソレを見て、流凪が声を漏らす。
そう。
そこにあったのは、異形と称するにもあまりにもおぞましい姿。
四足二腕。六耳四眼。
全身を覆うのは、一本一本が毒蛇の様に蠢く漆黒の体毛。
鼬の様に長ひょろい身体から伸びるのは十本の尾。一本一本は先端が大きく裂け、その間からは無数の牙が覗く。
数メートルはあろう巨躯の周りには、幾つもの眼球の様なものが浮遊し、黒い血の様な涙を零す。
滴った血涙は落ちる途中で黒い燐火となって燃え上がり、巨獣の身体を包み焼く。
毛の生えた蛇の様な顔に、ビキリと開いた口が紅く染まった呼気を吐く度、濃密な硫黄の臭いが空気を犯す。
前腕が掴む床はシュウシュウと音を立てて溶け沈み、そこに深い跡を刻み残した。
「へえ……。結構なものじゃない。煌夜、これが……」
「そう」
成れ果てた”彼女”。それを見つめながら、煌夜が頷く。
「破界の化生、『訃世之天牙』さ」
ジュウアラァアアアアアアアアアアッ
その言葉に呼応する様に、訃世の魔獣は世を震わせる咆哮を上げた。
「すっごいわねぇ。立ってるだけで、ビリビリする。確かにこりゃ、そこらの妖魅とはモノが違うわ」
吹き出す瘴気が、火箸を当てる様に肌を焼く。その感触を楽しむ様に、魅鴉は己の身体をかき抱いた。
シュウゥウウウ……
天牙の呼気に合わせる様に、空気が硫黄の色に染まっていく。それを見とめ、煌夜は魅鴉に告げる。
「魅鴉。”彼ら”を守りな。この毒気をまともに受けたら、人間はひとたまりもない」
「あらあら。そりゃ、大変」
それを聞いた魅鴉が、少し離れた場所にいた光貴達の元へと跳ねていく。
と、その動きを追う様に、天牙が首を巡らせた。
「煌くん……」
そう呟きながら、流凪が露羽に手をかける。けれど、煌夜は動かない。
「心配いらないよ」
煌夜が言うと、
ユルリ
その言葉に従う様に、天牙はその視線を魅鴉達から逸らす様に動かした。そのまま、別の方向へシュルリシュルリと歩み始める。
先の割れた舌を出し入れしながら進むその様は、巨大なトカゲを思わせる。
自分目の前を過ぎていく巨体を見送りながら、煌夜は露羽を構える流凪の手を下ろさせる。
「煌くん……」
「今の状況なら、僕達は選ばれない。遥かに魅力的な餌があるからね」
そう。かの存在の目は、煌夜達を映してはいなかった。
その昏い熾火の様な眼窩。そこに捉えられるものはただ一つ。
己の血溜りに崩れる、つきなだけだった。
その行方を見守りながら、流凪は問う。
「煌くん……」
「何だい?」
「この娘は、神無月あやなは、一体どうゆう存在なの……?」
「見ての通りだよ。『訃世之天牙』。それが彼女の本当の姿さ。君も、知っているんじゃないのかい?」
「真名だけだよ。ボクは知らない。”あれ”の真意も。どういう存在なのかも」
「そうかい……。そうだろうね……」
懇願にも似た、流凪の問い。
それに答える様に、煌夜は語り始めた。
「天牙は、遠い昔、まだ神や妖の類が人間のすぐ傍にいた頃に産まれたモノだよ。当時はまだ人外の力が強くて、人間を駆逐しかねなかった。それによるバランスの崩壊を防ぐために発生した、調律者だ」
「調律者?」
「コレが、人外を喰うと言う事は、承知しているだろう?」
「それくらいは、知ってる」
「そうやって、妖魅と人間のバランスを保つ。それが、世界が天牙を生んだ理由さ」
「……世界が、生んだ?」
「そう。世界が、生んだんだ」
何かか、解せない。そう思う流凪の前を、黒い巨体がゆっくりと通り過ぎていく。ちろつく舌の先に、確かな獲物の香気を感じながら。
「昔は、神や妖が世にはびこり過ぎていたから。何せ人や動物は毎日死ぬのに、神妖は存在の期間が長すぎる。バランスが崩れるのは、必然だった。だけど……」
天牙が、ふと歩みを止める。
毛の生えた蛇の様な頭が、ゆっくりと下がる。
食前酒のつもりだろうか。長い舌が、床に溜まった血を舐めずる。
ギュルルルル
甘い香りの漂うそれを啜り、天牙は愉悦に咽ぶ様に喉を鳴らす。
その音に耳を委ねながら、煌夜は語り続ける。
「世界は巧妙で精密。それに対して、新しいシステムを作り出したんだ」
例えて言おう。
いかに大魚が小魚を食い荒らそうと、小魚の種が絶たれる事はない。それは、小魚が喰い尽くされる前に、大魚が空飛ぶ大鳥に狩られるから。
喰らい喰らわれ、万物はその均衡を保つ。
その理に倣い、世界はかの存在を創り出した。
最凶の調律者。『訃世之天牙』を。
「依代は、いくらでもあったからね」
それは、人。
想い人を、神への生贄として捧げられた者。愛し子を、妖の玩具として奪われた者。そんな人間達の、悲しみと憎悪。
尽きる事なく、そして絶える事のないその想い。世界はそれを集め、凝縮し、純化した。
やがてそれは意を持ち、個となり、産声を上げた。
「結局、闇を呑むのは光じゃない。より巨大な闇という事さ」
そう言って、煌夜はその顔に薄く笑みを浮かべた。