弐
煌夜のかけた声に対する返事は、ない。
「ご機嫌よう」
もう一度声がけるが、やはり返事はない。聞こえるのは、梨沙の浅くて速い、苦しげな呼吸だけ。
その様を見た煌夜が、やれやれと溜息をつく。
「全く。皆揃って、手間のかかる事だなぁ」
そんな言葉と共に、夜色の外套が揺れる。
チリン
細く、涼やかに鳴る鈴の音。それが耳に届いた瞬間、光貴の身体がピクリと動く。俯いていた顔がゆっくりと上がり、疲れきった眼差しが初めて煌夜を映した。
「三度目の正直だね。ご機嫌よう」
そう言う煌夜に向かって、光貴は胡乱げな声を向ける。
「何、だよ……?お前……」
答える煌夜の声は、あくまで平淡。
「何、大した者じゃない。”彼女”達の同輩だよ」
「”あいつら”の……仲間……?」
光貴の表情が、目に見えて強張る。
「お前も、化け物なのか……?」
煌夜の、能面の様に表情の薄い顔。前髪の隙間から覗く左目が、キュウと細まる。
「まあ、否定はしないけど……」
言いながら親指を立てると、肩越しに背後の二人を指差す。
「もう少し、言い様を考えた方がいいんじゃないかな?理由はどうあれ、君らが生きてられるのは彼女達のお陰だろうに」
「生きてる……?ああ、そうだな……。これが、生きてるって言えるならな」
吐き捨てる様に言いながら、抱きしめる腕。その中で、梨沙が苦しげに喘いだ。
「ああ、なるほど」
その様を見た煌夜が、光貴の腕の中の少女を覗き込む。
「この状態で、時を留めたのか。無茶をしたね」
その額の汗を拭おうとするかの様に、梨沙に向かって手を伸ばす。
と、
グイッ
その手から遠ざける様に、光貴が梨沙を抱き寄せた。
「……触るな……」
静かな、けれど強い口調で拒絶する。
「心配される様な事をするつもりは、ないんだけど」
「関係ない。梨沙は、俺だけのものだ。もう、誰にだって触らせない。お前らが、人だろうと、化け物だろうと、たとえ、神様だろうと」
世間話の様な調子で語りかけてくる煌夜に向かって、光貴は言い捨てる。
「そんな、大層なものじゃないけどね」
返る言葉の色は、相変わらず薄い。まるで、対峙する光貴の心を映す様に。そして、その言葉に応じる事なく、彼はただただ少女を抱き締める。
そんな光貴を、煌夜はしげしげと見つめる。
梨沙の苦悶のもがきによるものか。あちこちについた爪痕から、血が滲む。身体はボロボロ。そして、それ以上に心が枯れかけていた。
煌夜は問う。変わらずに、淡々とした口調。けれど、その中に微かな憐憫が聞いて取れたのは気のせいか。
「随分と、萎れたものだね。そんなに、疲れたかい?」
「疲れた……?だな……。疲れたよ……」
ぶつぶつと呟く様に言いながら、光貴は己の腕の中で浅い呼吸を繰り返す梨沙の髪を撫でる。
そんな彼を色の無い目で見下ろしながら、煌夜はもう一度問う。
「形はどうあれ、時は留まってる。時間は十分過ぎる程あるだろうに。出来る事はないのかな?」
「出来る事……だって……?」
それを聞いた光貴が、もう一度顔を上げる。そこには、自嘲と諦観の色がベッタリと張り付いていた。
「そんなもの、もうあるかよ……」
「ないのかい?」
「……ない……」
こぼす様に、漏らす言葉。その瞳から、雫が落ちる。
「やったんだ……。どんな事だって、やったんだ……」
力の無い激情。それが、カラカラの喉を引き裂く様にして溢れ出す。
「……金にあかせて、汚い事にも手を染めて、挙句の果てに、お前らみたいな化け物にまですがって……けど、だけど……」
枯れた喉から、嗚咽が漏れる。溢れた涙が、喘ぐ梨沙の頬を濡らす。
「その結果が……これだよ……」
ビクンッ
身体を走る激痛に戦慄く様に、梨沙の身体が跳ねる。それを抑える様に、強く強く抱き締める。
「最初は、それでもいいと思ったんだ。生きてさえいてくれるなら……。ずっと、傍にいてくれるならって……だけど……」
救いを求める様に、梨沙の手が背を掴む。食い込む爪の痛みに耐えながら、光貴は話す。まるで、罪を告白するかの様に。
「結局、全部……全部、俺の勝手な思い込みだったんだ……。自己満足だったんだ……。ただ、俺の願望に付き合わせて、追い込んで、梨沙にこんな苦しみを背負わせちまった……」
「まあね。考えは甘かったとは思うけどね」
何の飾り立てもない言葉。煌夜のそれに、光貴は「クッ」と嗚咽とも笑い声ともつかない声を上げる。
「全く、容赦ないよな……。お前らは……」
「慰めて欲しかったのかい?」
「……馬鹿言え」
そう嘲る様に答えると、光貴は梨沙を見下ろす。
意識が混濁しているのだろう。虚ろに潤んだその眼差しは、彼を捉える事はない。汗と涙で濡れた顔にソっと口づけをすると、光貴はハァと息を吐いた。
「もう、いいんだ……」
冷え切った声で、呟く。その目からは、全ての想いがあせていた。退廃したその瞳は、ただただ、苦悶する梨沙の姿だけを虚しく映し描く。
「もう、放っておいてくれよ……。もう、終わりにするから……」
「終わり?」
「ああ、終わりだ……」
光貴の視線が、煌夜の向こうを見る。そこには、白の帯に縛られて固まる、つきなの姿。
「あいつ、生きてるんだろ……?」
「ああ、ちょっと止まってもらってるけどね。あの娘には、どんな形だろうと死と言う事象は追いつけない」
予想通りの答えだったのだろう。光貴の顔に、皮肉げな笑みが浮かぶ。
「不公平だよな……」
「羨ましいのかい?」
「冗談じゃない。ウンザリだ……」
ククッと言う笑い声。それは、分かりきった事を訊く少年への皮肉か。それとも自分に向けての嘲笑か。しばし続く笑い声。そして、光貴はその枯れた視線を煌夜に向ける。
「頼みがあるんだ……」
その言葉に続く言を察しているのか。煌夜は黙ったまま目を細める。返らない返事。けれど、光貴は構わず続ける。
「”あいつ”、自由にしてやってくれ」
刃の様に細めた眼差しで、煌夜は言う。
「そして、”俺達を殺させてくれ”かい?」
その言葉に光貴は一瞬身を固め、また苦笑する。
「分かるのかよ」
「君の言動は、単純だからね」
「何だよそれ。ヒデェな」
旧知の友と話す様な調子。見下ろす煌夜に向かって、親しげな笑みを向ける。
「なら、頼むよ。梨沙を、楽にしてやりたい」
「その娘のため?」
「ああ、俺も一緒に逝く。寂しい思いは、させないよ」
「寂しい思い、ねぇ……」
煌夜の声が、一変した。口調はあいも変わらず、淡々としたもの。けれど、そこから感じられるのは、酷く冷ややかな気配だった。
「それ、本当にその娘のためかい?」
「え……?」
思わずポカンとする光貴。けれどそんな彼に構わず、煌夜は言う。
「その娘は、そんな事望んで無い様に思えるんだけど」
「!!」
「君は、どうも覚悟が足りなかったみたいだね」
言葉と同時に、外套が揺れた。途端、
カッ
不意に響く、風を切る音。固まる光貴の顔をかすめ、何かが床に突き刺さった。見ると、光貴の目の前の床に鋭く光る金属片が突き刺さっていた。
「何だよ……。これ……」
「つきなが身に纏ってた霊剣の一つだよ」
「!!」
驚いて顔を上げる光貴。そんな彼を冷めた目で見下ろしながら、煌夜は続ける。
「その娘を縛ってる血の呪縛くらいなら、それで絶てる」
「……どう言う、事だよ……?」
「決まってるだろ」
煌夜は告げる。冷淡に。淡々と。
「全ては、君が成した事。それを悔いるなら、君自身で終わらせるべきだろう」
その言葉に、光貴は全身の血が引くのを感じた。戦慄く目で凝視すると、それを肯定するかの様な眼差しが受け止める。
「お前……俺に、梨沙を……!?」
「さあ。それは君次第だね」
答えは、与えない。あくまで、在りうる可能性だけを示す。
「彼女は覚悟を示した。君も、相応のものを示すんだね」
そして、彼は踵を返す。少年の抱く戸惑いも、迷いも、絶望すらも置き去りにして。夜色の彼は、自分の為すべきものの場へと戻っていった。