壱
「もう、この近隣には君の糧となるモノはない」
視界を流れゆく、夜街の光。その中で、彼は言う。
「逃げる術を持っている連中はとっくに逃げてしまったし、地縛されてしまっているものは、食い尽くしてしまっただろう?」
そう。この街は、もう枯れてしまった。
成長したあたしは、自制を身につけた。それは、限られた空間で生きるためには絶対の条件。芽生えた理性で出来る限り空腹に耐え、食事の回数を極力控えた。けれど、それでも限界はある。いつしか全ての獲物が姿を消し、この街はあたしにとっての砂漠と化していた。
「もう、後はない」
淡々と、彼は言う。
「何をためらっているのかは知らないけれど、いい加減覚悟を決めなよ。そもそも君は、そう望んでいた筈だ」
彼の言う通り。あたしは望んでいた。それを。その術を。
「ほら。着いた」
その言葉に、視線を上げる。そこにあったのは、一棟の病院。知っている。この街で、一番大きな病院だ。
「ここに、君が求めるものがある」
顔を、上げる。
その病院は、気配に満ち溢れていた。それは、この世の外の気配。あたしの、糧の匂い。
けど、それは――
全身が、総毛立つのを感じた。あたしは、この気配を知っている。そう、間違え様もない。この、甘い香りは。
「さあ、行くよ」
そう言って、彼はあたしを背負ったまま、病院に向かって歩き始めた。
あたしは、かすれる声を振り絞る。
「待って……!!待って……!!」
「待たない」
「駄目……!!ここは、あの娘は、駄目!!」
「知らない」
聞く耳は、持ってもらえない。逃げようとしても、彼の手はあたしの身体を放してはくれない。
「言ったろ。覚悟を決めな」
彼の言葉は、何処までも無情だった。
「あらら~」
「全くぅ。ウンザリするわねぇ」
梨沙を抱く光貴を守る様に並び立った魅鴉と流凪が、声を揃えて言った。
彼女達の目の前では、床に倒れていたつきながユルユルとその身を起こしかけていた。
たった今、痛打を食らった筈の両腕と身体は、床を転がるうちにつながっていた。破れた服の隙間から覗く腹部には、一筋の傷跡すら残ってはいない。
「分かっちゃいるけど~、メンドイなぁ~」
「ホントォ、泣き喚くくらいして欲しいもんだわぁ。作業みたいでつまらないったら……」
シャアッ
瞬間、身を屈めたつきなが獣の様に飛びかかってくる。
「おまけにぃ、この娘ときたらぁ魅鴉達の事見てないしぃ」
つきなの動きを先読みした魅鴉が、その行く手を遮る。カウンター気味に叩き込まれる膝蹴り。身体をくの字に歪ませたつきなが床を転がるが、両手の爪で床を掴むとそのまま再び跳ね上がる。
ガシィッ
そんなつきなの頭を掴みながら、苛立たしげに魅鴉は言う。
「だからぁ!!」
ゴシャアッ
つきなの頭を床に叩きつけ、そのまま蹴り飛ばす。
「今のぉ、ダンスの相手はぁ魅鴉達でしょう!?チャンとこっち見なさいよぉ!!」
怒鳴りながら、額を流れる紅を拭う。
神鬼と化したつきなの周りは、彼女の髪に繰られる霊剣の欠片が常に舞っている。身を交わすたび、それらが魅鴉達の身体を少しずつ、けれど確かに削っていた。
「ああ~、かったるい~」
頬の傷を着物の袖で拭いながら、流凪がボヤく。
「不覚を取る気は全くしないけど~、長期戦になると面倒だよ~」
「もういっそぉ、頭をぉ踏み砕いてぇやろうかしらぁ?」
剣呑な言葉を吐く魅鴉の周りで、同意する様に八雷達がガチガチと牙を鳴らす。しかし、流凪は気のない返事をするだけ。
「無駄だよぉ~。頭部破壊くらいで止まるなら~、とっくの昔に誰かがやってるって~」
「ああ、もおぉ!!じゃあぁ、どうしろって言うのよぉ!!」
苛立たしげに地団駄を踏む魅鴉を無視して、流凪は後ろをチラリと見る。そこには、苦しげに身を震わせる梨沙と、彼女を抱き締める光貴の姿。
「まぁ~、この子らが殺られない様にするのがせいぜいの手かなぁ~。あの娘の標的はこの子らだから~、この子らが健在なら外には出ていかないっしょ~」
「そんな消極的な手しかないのがぁ、余計に苛つくわぁ」
「でも~、そもそもの魅鴉っちの目的はそれっしょ~?」
「否定はぁ、しないけどねぇ」
ブツブツと言い合いながらも、彼女達の目はつきなから離れない。そんな二人の視線の先では、すでに再生を終えたつきながユラリと身を起こしている。
シャアァアアアアアアア……
蛇の様に咽喉を震わせながら、身構えるつきな。舞い踊る剣片の向こうで、虚ろな蛍緑の炎の様に揺れる眼差しは、違う事なく光貴達を見据えている。
「ほんっとぉ、ぶれないわねぇ。あの娘ぉ」
「一途なんだよね~」
「ヤンデレって言うのよぉ。あーゆーのはぁ」
真顔で軽口を叩きながら、魅鴉と流凪も構えをとる。
シャアァアアッ!!
「ほらぁ、来るわよぉ!!」
「ああ~、めんどい~」
身構えるつきなに向かって、魅鴉の八雷達が迎え撃つ様に牙をむく。次の瞬間、地を這う様に疾走するつきな。
「何度やったってぇ、同じなのよぉ!!」
向かってくるつきなを、魅鴉が蹴り飛ばそうとしたその時、
チリン
不意に響く鈴の音。同時にユラリと歪む空間。
「げ!?」
「あれ~?この音って~……」
それまでつきなの狂態を前にしても平々然としていた二人が、初めて戸惑いの色を見せる。そして、
「ああ、いたいた」
そんな声と共に揺れる、深い夜色。その中から伸びた白い手が、突進してきたつきなの頭を掴む。それだけで、彼女の動きは止まった。
「随分と乱れているなぁ。よっぽど、腹に据えかねる事でもあったのかい?」
ザワァッ
つきなの髪がざわめき、無数の剣片が襲いかかる。しかし――
チリン
再び響く鈴の音。静かに、けれど鋭く空気が揺れる。
カカカンッ
不可視の何かが走り、全ての剣片を弾き返す。弾かれた剣片はキリキリと宙を舞い、そのままキラキラと砕けて散じた。
『!!』
明確な意志を喪失している筈のつきな。その目が、確かな驚きに見開かれる。
次の瞬間――
ブンッ
つきなの身体が、軽々と宙を舞って転がる。
「少し、大人しくしてておくれ」
そんな言葉と共に、夜色の外套がユラリと揺れる。その中からシュルリと伸びる何か。それは、表面に奇妙な模様が書き刻まれた、包帯の様な白い帯。
「あ~!!」
「『ソロモンの指輪』……!!」
魅鴉と流凪が、そろって声を上げる。
『ソロモンの指輪』と呼ばれた帯は、生き物の様に宙を泳ぐと、つきなの身体に巻きつく。
途端――
「!!」
ガクンッ
つきなの身体から力が抜け、その場に崩れ落ちた。後を追う様に、髪に繰られていた霊剣の欠片達もガシャガシャと地に落ちる。その身を覆い蠢いていた無数の呪字や魔法陣は動きを止め、肌に染み込む様に消えていった。
「取り敢えずは、これでよし、と」
元の姿に戻り、力なく座り込むつきな。彼女を一瞥し、単純な作業でも終えた様な調子で呟くのは、夜色の外套を纏った少年。その姿に、魅鴉と流凪が素っ頓狂な声を上げる。
「煌夜!!」
「お~。煌くん~、久しぶり~」
「ああ、久しぶり」
己にかけられる声にそう答えながら、煌夜は辺りを見回す。
「それにしても、酷い有様だね。いくら隠里世の中と言ったって、限度というものがあるだろうに」
「好きでやってんじゃないわよ!!”あれ”見りゃ分かるでしょうが!?」
呆れ顔をする煌夜に向かって噛み付きながら、魅鴉はつきなを指差す。
「大した事じゃないだろ?あれくらい、対処出来なくてどうするんだい?」
表情一つ動かさず、そんな事を言う煌夜。その言い様に、魅鴉が金切り声をあげる。
「ムキー!!何よ、その言い方!!こっちの苦労も、知らないで!!」
「悪いけど、愚痴に付き合うつもりはないよ」
にべもなくそう言うと、煌夜は外套を翻す。
バサァッ
一瞬、視界を覆う夜の色。その向こうから現れたものに、魅鴉は目を丸くした。
「この娘……!?」
そこには、煌夜の片腕に支えられるあやなの姿があった。
その身体は力なくぶら下がり、血の気のない顔はうつむいたまま目を閉じている。
「何?死んじゃったの?」
覗き込む魅鴉に向かって、あやなを床に下ろしながら煌夜は言う。
「生きてはいるよ。ちょっと、ガス欠を起こしてるけど」
「ガス欠ぅ……?」
「切羽詰るほど、空腹って事さ」
「はぁ?」
その答えに、魅鴉が呆れた声を返す。
「なら、連れてくる場所が違うんじゃない?お腹減ってるなら、ファミレスにでも連れてくのが道理でしょうが?悪いけどここ、米粒一つないわよ?」
それを聞いた煌夜が、馬鹿でも見る様な視線を魅鴉に向ける。
「間違えちゃいないよ。そもそも、この娘の空腹はそんなものじゃ満たされない」
「あん?どういう……」
「……何で、連れてきたの?」
そこに、声を挟む者が一人。
流凪だった。
ただ、先刻までとは様子が違う。彼女特有の、眠たげな間延びした声が鳴りを潜めていた。
「この娘、つきなの”望み”じゃない。何で、連れてきたの?」
やはり、先までとは違う鋭い眼差しで煌夜を見つめる。
「教えてよ。どういう事?」
魅鴉やつきなとやり合っていた時でさえ見せなかった、その様子に、煌夜が感心した様に言う。
「おや?ただ惰眠を貪っているだけかと思ったけど、どうしてどうして。ちゃんと勉強している様じゃないか?」
「茶化さないでよ」
皮肉を言う煌夜。その眼差しが妖しく光るが、、流凪は臆する事なく近づいていく。
「知ってるよ。あやなが何なのかも。つきなの望みがなんなのかも」
そんな事を言う彼女に、煌夜は薄笑みを浮かべる。
「……笑ってるね」
流凪の顔が、険しさを増す。
「君がそんな顔をする時って、ロクな事がないんだ」
ヒュン
鋭く、空を切る音。
流凪が、露羽の切っ先を煌夜の喉元に突きつけていた。
「さあ、教えて。何を企んでるの?」
「企んでるなんて、人聞きが悪いね」」
そう言うと、煌夜はその顔に苦笑いを浮かべる。
「僕は、あやなが望みを叶えられる場に連れてきただけだよ。他意はない」
「過剰干渉は駄目だって、言ってるくせに」
「僕が、そう言う衝動に駆られたんだ。なら、これも術道の一つなのだろうさ。そして、それは……」
煌夜の指が突きつけられる露羽を摘み、クイと逸らす。
「ここにこうして在る事も、つきなの望みへの術道と言う事なんじゃないのかい?」
「………」
一拍の間。
そして、流凪は刃を下ろす。
「……なのかな」
そう呟く彼女の顔には、強い諦観の色が浮かんでいた。
「理解してくれて、ありがとう」
そう言って、流凪の頭を撫でる煌夜。そして彼は、スタスタと歩き出す。
「何処へ、行くの?」
「別に。ただ、挨拶はしておこうと思ってね」
流凪の問いに答える、その足の向かう先は――
「初めまして……と言うのもおかしいかな?ご機嫌よう」
言いながら見下ろす視線の先。そこには、俯いたまま梨沙を抱き締める光貴の姿があった。