壱
母はいない。
死んだ。
あたしを、生んで。
父はいない。
消えた。
あたしを、忌んで。
闇がある。
あたしの前に。
あたしの後ろに。
あたしの内に。
何も無い。
誰もいない。
あるのは闇。
いるのは闇。
何も無い。
誰もいない
◆
そこは、とても普通の街だった。
大都会と言う程の規模はなく。
さりとて、田舎と言う程寂れてもいない。
現代の日本なら、それこそ掃いて捨てる程ある様な。
酷く普通の街だった。
それは、酷く暑い夜の事。
昼間の熱は日が暮れても薄れる事なく、空気の中に澱み込んでいる。
小川は干上がり、その上を熱い夜風が流れていく。
御世辞にも快適とは言い難いそれが、すっかり色を無くした河原の草を揺らしていた。
そんな枯色をした草むらの中に、神無月あやなは立っていた。
街の明かりはすでに消え、辺りはひっそりと静まり返っている。
遠く離れた都心と違い、この辺りは夜の眠りを忘れてはいない。
けれど、あやながその深淵に怯える事はない。
前髪の間から覗くのは、幼さの残る顔に彫り込まれた大きめの瞳。どことなく虚ろな色をたたえたその双眸は、焦点を自らの足元へと合わせていた。
先に言った様に、草むらは日に焼かれて色をなくしている。その中に、一つだけ、酷く目を引く色があった。
一瞬、それが何かは分からない。
ただ、鮮烈な朱。それだけが、酷く目を焼いた。
しばしの間。ようやく“それ”が朱染めのワンピースである事を把握する。
少女が一人、横たわっていた。
15歳のあやなと、さほど変わらない年恰好。膝頭のあたりまで伸びた、烏の濡羽の様な黒髪。無造作に投げ出された、華奢な肢体。その肌の色は不自然なほどに生白く、まるで蝋細工の様に月の光を照り返す。
けれど、その白い肌の所々には不自然な朱色の模様が見て取れる。
あやなは少女の傍らに膝まずくと、無遠慮にその足に指を伸ばす。カリカリと、微かな音を立てて朱い模様を掻く。爪が動く度、模様は朱い粉末となって削れ落ちていく。
血だった。
よくよく見れば、少女の纏うワンピースにも、その朱地の所々に不自然な白の模様が浮かんでいる。手を触れてみると、かすかに湿っているのに、妙にゴワゴワとしている。生乾きの血が染み込んだ布、特有の手触りだった。
そう。そのワンピースを染め上げていたのは、大量の鮮血。
ここに来て、事態はハッキリとその形を成す。
深夜の河原に、全身を血に染めて倒れ伏す少女。
普通なら、忌避感を覚えずにはいられない異常な光景。
けれど、そんな状況にあやなは眉一つ動かさない。冷めた目付きで手を伸ばすと、今度は少女の顔にかかる髪をかきあげる。血に塗れ、べっとりと張り付いていた前髪が剥がれる。露になるのは、その奥にあった少女の顔。
綺麗な顔だった。
その身体と同様、血に汚れてはいる。けれど、白い肌の上に整って刻まれたそれは、「美しい」という形容詞がこれ以上ない程にふさわしかった。
しばしの間、そんな少女の容貌を見つめる。けれど、それもほんの一時の事。
ふと我に返ると、彼女の顔に自分の顔を近づける。血特有の、強い鉄錆の臭いはしなかった。代わりに香ったのは、甘い甘い、金木犀の香り。
「!!」
一瞬、心臓がドキリと跳ねた。
慌てて胸に手を当て、深呼吸をする。跳ねるそれを無理矢理押さえ込むと、改めて少女の様子を確かめる。
呼吸が、あった。
見る限り、出血の量は致死に値する。にもかかわらず、少女は確かに生きていた。
けれど、少女は相変わらず目を閉じたまま動かない。そんな彼女に向かって、あやなはおもむろに手を伸ばした。細い少女の体を抱き起こし、大きく息をついてそのまま一気に自分の背に担ぎ上げる。
軽い。そして冷たい。
その異様なまでの軽さと冷たさに目を細めながら、ゆっくりと立ち上がる。
救急車など、はなから呼ぶつもりはなかった。
分かっていたから。
そんな事は、無意味だと。
知っていたから。
"これ"は、自分のものだと。
人通りは皆無に等しい。けれど、必ずしもそれが続くとは限らない。見咎められるのは、得策ではなかった。
あやなはゆっくりと踵を返すと、少女を背負ったまま歩き始める。
その時、
チリン
どこからか、鈴の音が聞えた。
振り返る。けれど、当然の様に誰もいない。ただ、月明かりに照らされた川原の風景が広がっているだけ。
少しの間、立ち止まって耳を澄ます。聞こえるのは、流れる風の音だけ。
と、あやなが口を開いた。
「いいんでしょ?」
放った言葉に、答える声はない。けれど、構わずに続ける。
「”あれ”が正しいなら、”これ”が約束のもの。文句は、ないよね?」
やはり、答えはない。
けれど、その沈黙を肯定と受け取ったのか、息をひとつきすると再び前を向く。
そのまま歩き出すあやな。やがて、その姿は、夜の帳の中へと溶けていった。
誰もいなくなった川原を、再び静寂が包む。
チリン
その静寂の中に、今度は確かに鈴の音が響く。
誰もいなくなった筈の川原に、いつの間にか人影が一つ、佇んでいた。
闇よりも深い、夜色の影。長い外套でも身に着けているのか、その輪郭は風の中でユラユラと揺れている。
影はしばし、その顔をあやなの去った方向に向ける。けれど、そこにすでに少女達の姿はなく、ただ夜の帳だけが延々と広がるだけ。
「……さて、どうなるのかな?」
不意に、そんな声が聞こえた。そして、
チリン
また、鈴の音が一つ。
そして夜闇に溶け込む様に、影はその場から消えていった。
◆
戸を開けると、中にあるのは真っ暗な廊下だった。
「ただいま」
空間を満たす暗闇に向かって、あやなは声をかける。
返事はない。在る筈も、ない。
いつもの事。
部屋に入ると、後ろ手で戸を閉める。
「よいしょっと……」
柔らかいソファの上に、眠ったままの少女の身体を横たえる。ホッと息を一つき。そのまま、傍らに座り込む。
部屋の灯りは点けない。
差し込む月明かりの中で、改めて少女の顔をしげしげと眺める。整った顔が、苦しげに歪められていた。悪い夢でも、見ているのかもしれない。
ふと、薄い唇が微かに動いているのに気がついた。うわごとでも、言っているのかもしれない。もっとよく聞き取ろうとして、少女の口元に耳を寄せる。
途端、
強く香る、金木犀の香り。
狂おしい衝動と共に、体中を熱い血液が逆流する。
「―――っ!!」
慌ててソファから離れると、そのままベランダへ飛び出す。夜の空気に身を晒すと、まとわりついていた甘い香りが散っていく。生温かい夜風が沸き立つ血を静めるのを感じながら、荒くなった息を整える。
――駄目!!駄目!!――
己にそう、言い聞かせる。
ベランダの床に座り込みながら、あやなは大きく息をついた。ふと空を見上げると、天頂には淡く浮かぶ半の月。それが、まるで彼女をあざ笑うかの様に、静かに輝いていた。
◆
それは、突然に見つかった。
幾千とも幾億とも思える本の群れの中、まるで呼ばれたみたいに。いつの間にかその一冊は手の中にあった。
「見つけました様で」
円卓の前に戻ると、男の子が妙に嬉しそうな顔でそう言った。手にした本を見せながら、彼に訊く。
「ええ。お持ちいただいて、結構ですよ」
当たり前の様に、そう答えられた。
彼は言う。
「“それ”は、あなたの呼びかけに応えたのでしょう。ならば、それは間違いなく、あなたの望むモノです」
言いながら、自分の後ろの空間を指し示す。
「どうぞ。お帰りはあちらです。”対価”は、後ほどいただきますので」
対価?何かを払わなきゃいけないらしい。心配になって聞いてみると、男の子は気にしなくて良いと返してきた。
「ご心配なく。大したものではありませんよ。決して、支払いに困るものではありませんので」
そう言って微笑む顔には、悪意は感じられない。もっとも、何を対価に求められても、もう腕の中の本を手放す気はなかった。
不思議だけど、この本を手にした途端、それまであった疑う気持ちは跡形もなく消えていた。今あるのは、確信。この本が、望むものへと導いてくれると言う、確固たる確信だった。
それを見透かすかの様に、男の子は言う。
「すっかりご理解いただけた様で、何よりです。あなたの望みが、良き形で叶う事を期待します」
そして、彼はもう一度自分の後ろの空間を示す。
「お行きなさい。その”術”は、己の具現を待っています」
そう。早く行かなきゃならない。そして、望みを叶えなければ。
男の子の横を通り過ぎ、薄闇の向こうへ向かう。
闇の中へ踏み入ろうとした時、後ろからこんな声が飛んできた。
「そうそう。言い忘れましたが、一人”見届け人”を就けさせていただきます。何、基本干渉はいたしませんので、ご心配なく」
何を言っているのかよく分からなかったけど、もうそんな事はどうでも良かった。
◆
静かになった空間で、少年は一人クスクスと笑っていた。
笑いながら、傍らで眠る少女の頬を撫でる。
「さて。かの人の紡ぐ夢。お気に召すといいんですが」
少女の頬を愛しげに撫でながら、少年はいつまでも笑っていた。
◆
気が付くと、もといた場所に佇んでいた。
見慣れた風景。いつもの場所。
だけど、違う事が一つ。
腕の中には、確かに手に入れた”術”があった。
◆
チャポチャポチャポ……
ひっそりと静まりかえった居間に、細い水音が響く。
甘い金木犀の香りで満たされた部屋の中、あやなは洗面器に揺れる湯で手拭いを濡らしていた。
ソファの上には、香りの根源である少女。彼女は、まだ目を覚まさない。
少女の服は、すでにあやなの手によって脱がされていた。血染めの服の下から現れた肢体は、顔と同様に美しい。血が通っている事すら疑いたくなる程の、蝋のように白い肌。柔らかな曲線を描くラインは、酷く細い。それは、その肌の白さと相俟って繊細な硝子細工を思わせた。
しかし、その一種芸術的ともいえる造形も、今は乾いた血に汚されて見る影もない。
あやなは少女の身体を見つめながら、濡らした手拭いで張り付く血糊を落としていく。
チャプ ゴシゴシ
乾きかけた血糊は手強い。拭く手に力が入る度、少女の肌がしなやかな弾力をもって手応えを返してくる。
ゴシゴシゴシゴシ
血紛を溶かし込んだ湯が、朱色の水滴となってソファに染みる。
ゴシゴシゴシゴシゴシ
少女は、目を覚まさない。
ゴシゴシゴシゴシゴシゴシ
血汚れを落としながら、あやなは奇妙な事に気づいていた。
血の下から見えてくる、少女の裸身。その肌は温かな湯の染みた手拭いを当てられても少しも朱に染まらず、抜ける様に白いまま。
そう。少女の肌は、綺麗過ぎた。
一筋の切り傷も。
一握の痣も。
その身には、付いていない。
けれど、それならこの少女を染め上げていた血糊。それは、何処から来たのだろう。
「何処で、何してたんだか……」
あやなはそう呟くと、指に付いた赤い雫をチロリと舐めた。