弐
「何!?」
突然の事に、つきなが驚きの声を上げる。それが、隙になった。
「キャアッハハハハァ!!いっただきぃ!!」
ゴキャアッ
甲高い笑い声と共に、米神に鋭いつまさきがえぐり込んだ。
「―――っ!?」
予想だにしていなかった痛打。小柄な身体は軽々と吹っ飛ばされ、廊下を転がる。
「―――っ、ゲッ、ゲホッ!!」
掴まれていた咽喉を押さえながら、咳き込む光貴。そんな彼の前に、人影が立つ。
「ほらほらぁ。しっかりしなさいなぁ。お坊ちゃん」
酷く、聞き慣れた声。思わず上げた視線の先で笑む、黒衣の少女。
「魅鴉……どうして……?」
「どぉしたもぉ、こうしたもぉ、ないでしょう?助けに、来てあげたんじゃなぁいぃ」
いつものちゃらけた声で言いながら、足元で蠢いている髪の毛をザスッと蹴り飛ばす。
「まぁねぇ。あんたとぉ、お姫様のお話ぃ、こぉんなつまんない形でぇ、終わらせるのもぉ、癪だしねぇ」
「魅鴉……」
「ったく。いつまでも、呆けてんじゃないわよ」
突然、ガラリと変わる口調。その視線の先には、ユラリと立ち上がるつきなの姿。
「まだ、終わった訳じゃないのよ。早く、お姫様ん所に行ってあげなさい。でないとあの娘、マジで逝っちゃうわよ」
「!!」
魅鴉の言葉に、我に返る光貴。振り返った先では、身体に巻きついた髪もそのままに、苦しげに息をつく梨沙の姿。
「梨沙!!」
痛む身体を無理に起こすと、梨沙の元へと駆け寄る。絡みつき、今だに蠢く髪を取り払って抱き起こすと、真っ青になって震える顔が顕になった。
「梨沙!!梨沙!!しっかりしろ!!」
必死に呼びかけるが、声が返る事はない。限界が近いのは、明らかだった。
光貴は、魅鴉に向かって懇願する。
「魅鴉、頼む!!血を、あいつの血を採ってくれ!!じゃないと、梨沙が!!」
その言葉に、魅鴉はチッと舌打ちする。
「そんな余裕、あればいいけどねぇ」
その視線の先では、完全に起き上がったつきなが、蛍緑に輝く瞳でこちらを睨みつけていた。
「……貴女、何……?」
つきなが、問う。
この一瞬の間に、断ち切られた筈の髪は、もう元の長さにまで戻り、米神に穿たれた傷も消えている。あれだけの攻撃を食らっても、ダメージは、残っていない。
それでも、彼女から漂う気配には、今までにない警戒の色が強く出ていた。
魅鴉は、呆れた様に溜息をつく。
「嫌になるわねぇ。どうせ、死にゃしないんだから、もう少し呑気に構えてもいいでしょうに」
そんな魅鴉の愚痴に構わず、つきなは問いかけ続ける。
「貴女、何?……どうやって、ここへ……?」
「質問は一つにしてくれない?」
鬱陶しそうに髪をかきあげながら、魅鴉は言う。
「隠里世への侵入なんて、初歩の初歩よ。こんな仕事やってりゃ、嫌でも身につくわ」
その言葉を聞いたつきなの目が、キュウと細まる。
「仕事……?貴女、まさか……」
カッ
彼女の言葉を遮る様に響く、床を蹴る音。
瞬間、魅鴉がつきなに肉迫する。
「!?」
「あんまりお喋りに付き合うつもりないのよね!!悪いけど!!」
つきなの髪が追いすがる様に襲いかかるが、それよりも早く、魅鴉の蹴足が彼女の腹に突き刺さる。
再び吹っ飛ぶ、つきなの身体。しかし、こんどはその途中で体勢を整え、伸ばした腕で床を掴む。
ガギギギギッ
鋭い爪が床に食い込み、滑る身体を固定する。
「もう!!悲鳴の一つくらい上げなさいよ!!面白くないわねぇ!!」
ギュンッ
愚痴る魅鴉に向かって、無数の髪の束が槍の様に伸びる。途端、
バチンッ
魅鴉の周りで光が弾け、殺到する髪を尽く焼き散らす。
髪が焼ける匂いの中で、魅鴉は叫ぶ。
「大雷!!火雷!!黒雷!!」
バチンッ バチンッ バチンッ
その声に応じる様に、魅鴉の周りに三つの黒い光球が現れる。
ガチガチ…… ガチガチ…… ガチガチ……
渦巻く光の中から響く、怪しい音。それは、漆黒の雷火に包まれた獣の頭骨。鋭い歯牙を噛み鳴らしながら、昏い眼窩で獲物たるつきなを睨めつける。
「……式神……!?」
「抉れ!!貪れ!!喰い散らせ!!」
交錯する、二人の声。三つの雷獣が走り、つきなに襲いかかる。
つきなは咄嗟に飛びずさるが、雷獣の群れは文字通り雷光の速さ。あっという間に追いすがり、そして――
ガシュッ ガシュッ ガシュッ
鋭い牙が、つきなの足を噛みえぐった。
ガクリ
肉の焼ける匂いと共に、体勢を崩す。見逃す筈は、なかった。
「柝雷!!若雷!!土雷!!鳴雷!!伏雷!!」
バチッ バチチッ バチィッ
「縛れ!!」
新たに顕現する、五つの雷獣。主の命に従い、牙を鳴らしながら獲物へと殺到する。何とか傷の再生を間に合わせたつきなが、迎撃しようと身構える。しかし――
「遅いわよ」
視界を覆っていた雷光の影から、怪鳥の如く躍り出る魅鴉。死神の鎌の様に構えていた手を、袈裟懸けに振り下ろす。
ザキュキュキュキュキュッ
猛禽のそれの如く研ぎ澄まされた爪が、つきなの胸を5重に引き裂く。再び体勢が崩れるのと、別の衝撃を感じるのは同時だった。
ガガガガガッ
「―――っ!!」
首。両手。両足。牙の群れがつきなの五体に食い込む。目まぐるしく揺れる視界。電熱を伴った牙が喰い込む感触と、四方に引っ張られる感覚。
「………!!」
気が付けば、つきなの身体は四肢と首をくわえられ、宙に磔になる様にぶら下げられていた。
「やれやれ。やっと大人しくなったわね」
身動きのとれなくなったつきなを見上げ、息をつく魅鴉。
ザワッ
唯一、自由のきく髪が襲いかかる。しかし、魅鴉の周りを飛び回る三つの雷獣が牙を剥き、その全てを焦がし散らす。
「あんた、意外と馬鹿ね。今更そんな手、喰らう訳ないでしょうが」
つきなはその身を捻るが、喰い込んだ牙の枷は、人間を遥かに超える彼女の力をもってしてもビクともしない。
「にしても、しぶといわねぇ。その子達、ずっと電流流してるのよ?全身麻痺しても、おかしくないのに。」
そう言って、パチンと指を鳴らす。
バチィッ
喰いこんだ牙から一際眩い閃光が流れ、つきなの身体を貫いた。
流石に効いたのか、グッタリとするつきな。それを確認すると、魅鴉は傍らで見守っていた光貴に声をかける。
「済んだわよぉ」
「………」
返事はなかった。
無言の彼の目に浮かんでいるのは、恐怖。先刻まで、自分達を蹂躙していたつきな。それを、圧倒した魅鴉。そんな彼女に対する恐れが、ありありと現れていた。
「あらあらぁ。ちょっと刺激強すぎたぁ?」
しかし、そんな事は気にもとめない。魅鴉は飄々と言う。
「まあねぇ。このくらいの荒事はこなせないとぉ、やってけない世界に住んでますんでぇ」
自分達を見つめる眼差しの鋭さ。思わず光貴が後ずさろうとしたその時、その腕の中で梨沙が震えた。
「!!」
我に帰った光貴は叫ぶ。
「魅鴉!!血を!!」
「はぁーいよぉーっと……言いたいとこだけどぉ……」
光貴の訴えに、魅鴉が首を振った。
「今は、ダメね」
「な……!?」
思いもよらない言葉。光貴は愕然とする。
「何言ってんだよ!!早くそいつの血を飲ませないと、梨沙が……」
「アンタ、ホント馬鹿ね」
憤る光貴を、魅鴉の冷淡な声が押しとどめる。
「忘れたの?あの娘の血はあくまで時を留めるもの。苦痛を癒すものではないわ」
「あ……」
光貴は、自分の身体から血が引くのを感じる。
そう。つきな――時無の血は、癒すものではない。時を、留めるもの。時の流れを、止めるもの。それが意味する事は一つ。
今、発作に苦しむ梨沙にそれを与えれば、発作を起こしたまま、彼女の時を止める事になる。
終わりのない苦しみに、彼女を閉じ込める事になるのだ。
「分かるでしょ?分かるわよね?」
冷たい眼差しで見下ろしながら、魅鴉は問う。その問いに、光貴は無言で答える。
「せめて、今の発作が治るまではお待ちなさいな。それからでも、遅くはないでしょう」
その言葉に、光貴はしかし頷く事が出来なかった。そう。彼には分かっていた。今、梨沙を襲っている発作は――
「……構いません……」
不意に聞こえた声に、魅鴉と光貴の視線が彼女へと集まる。梨沙が苦痛に潤む眼差しで、二人を見上げていた。
「構いません……。あたしに、血を……ください……」
「梨沙……お前……」
「あんた、何言ってるか分かってんの?」
冷えた声で、魅鴉が言う。
「今の状態であの娘の血を飲んだら、その苦しみが固定される。血の効力が尽きるまで、一秒たりとも途切れる事なく苦しみ続ける事になるのよ」
淡々と紡がれる、冷淡な言葉。
けれど、梨沙は揺るがない。
「分かってます……けど……」
強い光を放つ、少女の瞳。
「死ぬ事も……ないん、ですよね……?」
「!!」
目を見開く光貴。魅鴉は、その瞳をキュウと細める。しばしの沈黙。そして、魅鴉は言う。
「そうね。時が止まる以上、死ぬ事もないわ。でも……」
魅鴉が、グイッと梨沙に顔を寄せる。
「それは、地獄よ」
漆黒の瞳孔が、梨沙を映して冷たく光る。
「時による終わりもなければ、死による解放もない。ただ、ただ、今の苦痛が延々と続くだけ。耐えられるのかしら?貴女みたいな、小娘に」
「……耐えます……!!」
一拍の躊躇いもなく、梨沙は答える。
「口だけなら、何とでも言えるわよ」
間も置かず、魅鴉は言う。そんな彼女の心を挫く様に。
けれど、彼女は揺らがない。苦痛にひくつく肺に精一杯の力を込めて、震える唇で決意を紡ぐ。
「……この発作は、もう……治りません……」
「!!」
その言葉に、光貴はビクリと身体を震わせる。それは、彼が感じていた事そのもの。長く、梨沙の発作を見てきた彼にも、分かっていた。
この発作は……。
魅鴉は、今度は何も言わない。ただ黙って、次の彼女の言葉を待つ。
そして、そんな二人に向かって梨沙は続ける。
「……分かるんです……この発作は、いつもと違うって……」
紡ぐ言葉は、途切れ途切れ。それが、彼女の苦痛と疲弊をものがたる。そして、
「きっと……これが、最後……。これが終わる時は、あたしが、終わる時……」
彼女は弱々しく、けれど逸らす事なく、己の運命を言い切った。
「――っ」
咽喉が引き攣る様な声を上げ、震える光貴。そんな彼をいたわる様に、梨沙はその頰にそっと触れる。
そんな二人を見下ろしながら、魅鴉は言う。
「ホントに、賢しいわね。でも、それだけ悟れるなら、分かるでしょうに。」
告げる言葉は、何処までも冷淡。
「さっさと死んだ方が、楽って事よ?それ」
「お前……!!」
怒りにまかせ、食ってかかろうとした光貴を、梨沙の手が制する。そして、虚ろに揺らぐ瞳が真っ直ぐに魅鴉の目を見つめた。
「分かってます……でも……約束、したんです……」
「約束?」
喘ぐ口が、「ハァ」と大きく息をつく。今にも途切れそうなそれを振り絞り、決意の形を具現する。
「光貴と、ずっと一緒にいるって……」
「!!」
「……へえ……?」
わざとらしく声を漏らす魅鴉。嘲る様に問う。
「そんな事?そんな事のために、終わりのない苦しみを背負うっていうの?」
「貴女にとってはそんな事でも、あたしには……あたし達には、全てです……。だから……」
心を試す問い。梨沙は揺らぐ事なく、言い放つ。
「どんな事をしても、どうなっても、あたしは、生きます!!」
「………」
「………」
しばしの沈黙。魅鴉は梨沙の顔をジッと見つめ、そして――
「クフッ!」
破顔した。
「アハ、ハハハ、ハハハハハ!!」
この上なく、楽しそうに。そして嬉しそうに笑う魅鴉。
「前言撤回!!」
笑いながら、唖然としている梨沙達に言い放つ。
「賢しいどころの話じゃないわ。あんた、大馬鹿。そんで、大概イカれてる」
白い手が伸び、血の気の失せた梨沙の頬をなでる。
「でもね」
頬を嬲る、冷たい手。主の心根を表す様なそれが、今は熱を持った身体に心地良い。
「好みよ。そーゆーの」
そう言うと、魅鴉はすっくと立ち上がる。
「待ってなさい。今、持ってきてあげるわ」
「魅鴉……」
踵を返しながら、自分を見つめる光貴に言い放つ。
「あんたには勿体無いくらいの上玉ね。そんなんじゃなければ、寝取ってやりたいくらい」
「な、何言って……!?」
慌てる彼を、楽しそうな声が笑い飛ばす。
「最期まで、見せてもらうわよ。貴方達の演ずる、とびっきりの悲哀劇」
そして、孕凶の姫は時無き少女へとその足を向けた。