壱
「この……化物……!!」
光貴は呟く。絞り出す様な、怨嗟の声。けれど、それもつきなには届かない。
「そうだよ。わたしは化物。でも、それがどうしたの?」
「ちく……しょう!!」
堪えていた疲労が、ドッと噴き出した。震えていた足から力が抜け、その場に崩れ落ちる。腕の中の梨沙が落ちない様に支えるのが、精一杯だった。
その様を見た、つきなが言う。
「そう。さっきも言ったけど、じっとしていれば、痛くない様に終わらせてあげる」
ザワリ ザワリ ザワリ
つきなの髪が、再び蠢き出す。
「片割れだけ残すと、可哀想だね。ずっと一緒に、いられる様にしてあげる」
それが、彼女にとって最高の憐憫の現れなのか。髪は、二人を一緒に巻き込む様に取り囲んでいく。このまま刻まれれば、二人の身体は微塵となって混じり合い、二度と分かれる事はないだろう。
それも、いいか。
疲弊しきった思考の中で、光貴はそんな事を考えていた。もう、どんなに足掻いても、逃れる術が思いつかなかった。どうせ、最後には殺される。それならいっそ……。
幸い、”あれ”は自分たちに復讐としての苦しみを与えるつもりはないらしい。梨沙と共に、穏やかに逝けるのなら、それもいい。
そして、彼が全てを諦めようとしたその時、
「―――っ!!みつ、き……!!」
苦痛に満ちた声と、腕に走る痛みが彼を我に戻した。
思わず下ろした視線の先。苦悶に喘ぐ梨沙が、震える手で彼の腕を掴んでいた。痛みをこらえる故か、掴んだ指は、その爪先を光貴の腕に深く深く食い込ませていた。まるで、必死に生にしがみつく様に。まるで、自分はまだここにいたいと訴える様に。
それを見た瞬間、彼の中で何かが弾けた。
ガシャンッ
突然響いた音に、つきなが軽く目を見開いた。
光貴が、傍らの窓を拳で叩き割っていた。砕けたガラスに裂かれ、その手からは鮮血が流れている。しかし、それを気にかける様子もない。そして、
バキンッ
そのまま、ひび割れたガラスの一片を掴み、むしり取る。ガラスの破片と血の滴が飛び散り、キラキラと夜闇の中へと消えていく。
「………」
つきなが凝視する中、梨沙の身体をそっと床に横たえると、光貴はユラリと立ち上がった。
「梨沙……少しの、辛抱だからな……」
そう言うと、鮮血の滴るガラス片の切っ先をつきなに向ける。
「……何のつもり?」
「……分かるだろ……?」
色の消えた顔で見つめるつきなに向かって、光貴は言う。
酷く、底冷えのする声だった。
「血が、いるんだよ……」
ギラギラとした双眸が、つきなを凝視する。先刻までの、疲れ果て、絶望した眼差しとは全く違う光。そこには、狂気の色さえ伺える。
「お前の血がいるんだ……。梨沙のために……」
しゃがれた声で呟きながら、光貴が前に出る。それに威圧される様に、つきなが一歩下がった。
「……怖いね……」
つきなは言う。その声音には、今までにない緊張が見て取れた。
「そうなった人間は、怖い……。よく、知ってる……」
つきなの記憶が巡る。長い、永久とも言える彼女の生涯の中で、幾度かあった危機。
それをもたらしたのは、永劫に目の眩んだ権力者でも、名誉を求める武人でもなかった。
誰かの為、守る為に、己を捨てた者。彼女を追い込んだのは、いつもそんな人間だった。
「そうなったら、もう駄目……。便宜は、図れない」
「うわぁああああああ!!」
ガラスの刃を構えた光貴が突っ込むのと、無数の髪が彼に襲いかかるのとは同時だった。
最初から、戦うという選択肢が浮かばなかった訳ではない。ただ、理性と本能の両方が拒絶した。
件の存在は、自分が宿ったプロ五人を返り討ちにしている。ただの小僧でしかない自分が立ち向かった所で、意味のない事は明白だった。
自分が死ねば、梨沙を守る者はいなくなる。そう思っていた。けれど――
そんな事は所詮、言い訳に過ぎなかった。ただ、怯える自分を肯定するための口実に過ぎなかったのだ。今、目の前で、この腕の中で、梨沙が戦っていた。己を蝕む病魔のもたらす苦痛と、己を殺めんとする存在への恐怖と。
それに比べれば、自分の抱く恐怖など、幾ばくのものでもなかった。今はただ、梨沙の苦痛を取り除きたかった。せめて、病魔の戯れから開放したかった。
そして、そのためのものは、そこにあった。
つきなは、冷静だった。
残酷な程に、冷静だった。
今、自分に向かって突っ込んでくる人間。
先刻まで、取るに取らないと思っていた存在。それの豹変と、危険さを正確に把握していた。
自分を見つめる、狂気と、そして強い決意に満ちた瞳。それが、つきなの記憶を呼び起こす。
それは、初めて彼と会った時の記憶――
その夜、つきなは人の気の失せた街中を歩いていた。
何か、明確な目的があった訳ではない。ただ、そうすべきである事を、彼女は知っていた。教えられていた。
それが、己が求めるものを手に入れる唯一の”術”であると。
曖昧な結果を求め、月明かりの下を歩く。
どれほどの刻を彷徨ったのか。彼は、彼女の前に現れた。
彼は努めて穏やかに話しかけてきたが、その心が怯えている事は明白だった。自分が、何者かを知っている。
ああ、これか。
確信した。
彼の目は、ギラギラと燃えていた。
――危険な人間――
即座に理解した。
本来なら、出来うる限り接触を避けるべき存在。けれど、今ばかりはそうすべきではない。そう、知っていた。
――欲しい”モノ”が、あるんだろ――
震えを堪えながら、彼はそう言った。
肯定する。それも”術”。すると、彼は畳み掛ける様に話し出した。
――俺は、お前の欲しいモノを知っている――
――頼みを聞いてくれれば、それの在り処を教える――
嘘だった。
命あるものの思考を見通す彼女の目は、如実にそれを教えていた。
けれど。
あえて、それに乗った。
何の事はない。そうするのが“術”だと、知っていたから。
その答えに、彼は狂喜した。表面は平静を装っていたが、彼女の前では無意味だった。
それでも、彼女は知らぬふりをした。それが、示された“術”だったから。
彼は、ついて来てほしい欲しいと言った。言われるがままに、ついて行った。
道程は、長い様にも短い様にも思えた。途中、タクシーに乗ったりもした。運転手は、二人の組み合わせに不審げな様子を見せたが、彼が少し多めの金を見せると、それ以上詮索する事はなかった。
タクシーを降り、またしばらく歩いた。
やがて、大きな豪邸と隣接する倉が見えてきた。彼が彼女を誘ったのは、古びた倉の方。促されるまま、中に入る。それを見届けた彼が、扉を閉める。瞬間、
バチンッ
空間が途切れる感覚。結界が張られた事を理解すると同時に、意識が遠くなる。堪える事はしなかった。それも、教えられている“術”だから。
それから、どれほど経ったのか。気が付くと、部屋の中心に鎖で縛られ、横たわっていた。
普通の鎖でない事は、すぐに分かった。自分の膂力や髪を使っても切れない。まあ。それもどうでもいい。見上げる先にある格子の間から、月が見える。それが、まだ時ではない事を教えていた。
囚われの身になってから、数ヶ月が過ぎた。放置されても、飢えも渇きもない彼女にとって問題はない。加えて、時間に対する概念も曖昧な身。さしたる苦痛も感じず、ただ横たわって月を数えた。
時折、件の少年が来ては注射器で血を抜いていく。最初の頃こそ、手が震えていたが、慣れたのだろう。そのうち、平然と作業を済ませるようになっていった。一度、好奇心から記憶を覗いてみたが、さして珍しい理由でもなかった。
いつの世でも、人間の死に対する恐怖は変わらない。自分に対するものでも。他者に対するものでも。
それから、また幾つかの月齢を数えた。そして、月が6度目の下弦を数えた時、彼女は行動を起こした。
自由になっている髪を使い、自身の表面を削り落とした。体積の減った身体を、血の滑りを利用して鎖から抜き出す。その辺りに積んであった荷物から古着を引っ張り出し、身にまとう。
大量の血が白い服を染めるが、気にもしない。蔵を覆う結界は粗雑で、ちょっと力を込めるだけで切れた。そのまま倉を抜け出し、敷地を出ると、遠くの方に川が見えた。
――ああ、あれか――
そこに向かって、歩き出す。あとはそのまま、”そこ”で眠ればいい。眠るのは嫌いだったが、今回ばかりは仕方ない。
そう。全ては、与えられた“術”の導くままであるべきだから。
ザグゥッ
鋭利な物体が、肉に食い込む音が響く。飛び散った赤い滴が、白い肌に模様を描く。突き出されたガラスの刃を、手の平で受け止めた。鋭い切っ先が肌を破り、手の甲まで突き抜けるが気にしない。そのまま、ガラス片ごと光貴の手を握り込んだ。
「――――っ!!」
その痛みに、光貴が声にならない悲鳴を上げる。
「あの時はね、特別だったの。必要だったから、黙って貴方に従っただけ」
もう一方の手を伸ばし、光貴の首を掴む。そのまま、もがく彼を仰向けにねじ伏せた。
「はな……せ……よ……!!」
「放さない。貴方は、もう終わり」
必死で抵抗する光貴に、冷酷に言い放つ。
「貴方には、感謝してる。貴方がいてくれたから、わたしは求めるものに行き着けた。でも、それとこれとは、話が別」
ミシリ
手の中で、彼の骨が軋む。無意味に苦しませるつもりは、なかった。一息に首の骨を握り潰そうとしたその時、
グィッ
床に広がっていた髪が、急に引かれた。
手を止め、視線を上げる。床に伸びる髪を掴む、白い手が見えた。
梨沙だった。
彼女は動かぬ身体を引きずり、つきなの髪を掴んでいた。鋼線にも等しい切れ味を持つ、つきなの髪。握り締め、引き絞る手からは鮮血が滴っている。
苦しい息をつきながら、梨沙は言う。
「みつ……き、を……放して……!!」
病魔に侵され、生気を失っていた筈の瞳。それが、ギラギラとした輝きを放っていた。
「貴女も、同じ……」
その輝きに、つきなは明確な脅威を感じる。
「……貴女達は、やっぱりいては駄目……」
ザワァ
伸びた髪が蠢き、梨沙の身体に巻きつく。
「あぅ!!」
「り……さ……!!」
苦しい息の下、光貴が手を伸ばすが、どうにか出来る筈もない。このままつきなが髪を引けば、梨沙はズタズタに切り裂かれるだろう。
「おやすみ。楽になりなさい」
梨沙に巻き付いた髪が、ギュルルッと締まる。光貴が思わず目を閉じた、その瞬間――
ズバンッ
黒い閃光が走り、梨沙に巻きつく髪を断ち切った。