肆
「……何を、言ってるの?」
「あたしは、死にたくありません」
梨沙に向けられる、底冷えのする様な声と眼差し。けれど、彼女は臆する事なく真正面から受け止める。
「あれあれ……」
つきなが、失望した様に溜息をつく。
「少しは話が分かるかと思ったけれど、やっぱり人間……」
「そうですね。あたしは、人間です。だから、一つしか選べません」
そう言って、梨沙は初めて後ろで呆然としている光貴を見やる。
「光貴は、あたしのために危険を冒し、そして罪を犯しました。なら、あたしは彼の心に応えます」
「梨沙……!!」
光貴が、驚きと歓喜の声を上げる。
「約束したんです。ずっと一緒だって。その約束と、貴女への贖罪との二択なら、問題にはなりません。あたしは、彼を選びます」
強い言葉だった。一切の、迷いのない言葉だった。
「だから、あたしは死にたくありません。死にません。そのために、貴女が必要だと言うのなら……」
そして彼女は、キッパリと言い切った。
「犠牲に、なってください」
それは、とても強い。
どこまでも、強い言葉だった。
「………」
「………」
誰も、何も返さない。返せない。再び下りる、沈黙。やがて、
「……くく……くくくくく……」
その沈黙が、ゆっくりと揺れ始める。
「あは、あはははははははは!!」
つきなが笑っていた。今までの様な貼り付けた笑顔ではなく、心の底からと言わんばかりに。
「あはは、酷い娘!本当に、酷い娘!!でも……」
ピタリと止む、笑い声。つきなが微笑みながら、梨沙を見る。そして、一言。
「とても、素敵な娘」
その口から出たのは、紛う事なき賞賛の言葉。
「どれほどぶりだろう。貴女みたいに、素敵な人間に会ったのは」
ザワリ
闇が騒ぐ。つきなの髪達が、再び蠢き出していた。
その気配に、身を固くする梨沙。そんな彼女に微笑みかけながら、つきなは残念そうに、本当に残念そうに言う。
「御免。もう少し前だったら、付き合ってあげても良かったかもしれない。だけど、今は駄目。わたしにも、譲れないものがある」
その言葉に、梨沙が返す。
「譲れないもの、ですか?」
「そう」
「命をかけても?」
「わたしに、”命”と言う概念はないけれど、人間達に例えるなら、きっとそう」
「じゃあ、あたしと同じですね」
「そう。同じ」
互いの魂をぶつけ合う様な会話。それに呼応する様に、つきなの髪が踊る。
「惜しいよ。本当に惜しい。貴女みたいな、綺麗な花を手折るのは。でも、わたしが”今”を在り続ける為には、やっぱり貴女は不安要素」
「言ったでしょう?あたしは、死にません」
「なら、その想いを抱いたまま、逝かせてあげる」
鎌首をもたげた髪達が、梨沙を引き裂こうと躍りかかる。逃げようとする梨沙。しかし――
ズキン
「―――っ!!」
一瞬、時が止まった様に感じた。
全身に走る、異様な違和感。それはみるみる肥大し、引き攣る様な激痛へと姿を変える。
発作。
その言葉が頭を過ぎった途端、かろうじて踏ん張っていた足からガクリと力が抜けた。体制を崩す梨沙。そこに殺到する、髪の群れ。そして、
「梨沙!!」
響く叫び。傾ぐ梨沙の身体に、ぶつかる様に飛びつく光貴。彼は梨沙を抱え込み、その勢いのまま床を転がる。幾筋かの髪が身体をかすめ、赤い飛沫が散るが、構うことなく強引に髪の籠から抜け出した。
「は、はぁっ!!」
「……みつ、き……」
「馬鹿野郎!!無茶しやがって!!」
怒鳴りながら、腕の中の彼女を抱き締める。
「梨沙……、ありがとな」
「……光貴こそ、ありが、とう……」
梨沙は蒼白な顔のまま、ニコリと微笑む。
「あたし、負け、ないから……ね」
「ああ、俺も、負けない」
腕の中の、代え難い存在。その温もりをもう一度、決意と共に抱き締める。その時、背後で闇が揺れる気配がした。
振り返れば、光る双眸でこちらを見つめるつきなの姿。
「話は、終わった?」
黒い刃の群れを揺らしながら、つきなは笑う。
「良い娘。本当に良い娘。そして、強い。貴方には、もったいないくらい」
「だろ?自慢の嫁なんだよ!」
痛みに苦悶する梨沙を抱きしめたまま、光貴はズリズリと後ずさりする。横目で、”あるもの”の位置を確認しながら。
「その娘、渡して。そうしたら、さっき言った通り、貴方は見逃してあげる」
「馬鹿か?お前」
「そうね。”うん”なんて言ってたら、貴方から刻んでた」
「は、ヒデェ奴……」
「酷いのは、貴方達も一緒」
言いながら、スルスルと近づいてくるつきな。それから逃れる様に後ずさりながら、光貴は片方の靴を脱ぐ。
それを見たつきなが、問う。
「何してるの?まさか、それでわたしと戦うつもり?」
「……んな訳ねぇだろ。これは……」
言いながら、それを大きく振りかぶる。
「こうするんだよ!!」
言葉とともに、壁に向かって投げつけた。先にあるのは、薄闇の中で明るく光る警報器。投げた靴は、それに向かって叩きつけられた。
ジリリリリリリリリ
けたたましい警報音が鳴り、病院の中の空気を揺らす。
「!?」
つきなが一瞬、それに気を取られる。それが、隙。光貴は渾身の力で梨沙を抱き上げると、脱兎の如く走り出した。
エレベーターや階段は、つきなによって塞がれている。非常口は、動けない梨沙を抱えて走りきるには距離があり過ぎた。だから、光貴はそれらとは別の方向へと走った。
目指す先は、先刻通り過ぎたナースステーション。そこに飛び込み、助けを求めるつもりだった。
もとより、そこにいる看護師達に”あれ”がどうこう出来るとは思っていない。それでも、戸を締めて篭城すれば、幾ばくかの可能性はあると踏んでいた。
警報音を聞いた人々が騒ぎ始めるまでの、時間稼ぎ。発作を起こしている梨沙の、緊急処置。警察や、消防への連絡。出来る事は、ある筈だった。
おそらく、集まる人々にも”あれ”を止める事は出来ないだろう。防具を持った警備員でも、銃器を装備した警察でも。それでも、多数の人の波は”あれ”の足を多少は鈍らせる。その間が得られれば、好機はあるかもしれない。
出来る限りの思考を巡らせながら、光貴は走る。病で痩せているとは言え、人一人を抱えての全力疾走。その負荷に、腕や足が悲鳴を上げる。しかし、そんな事にかまってなどいられなかった。今、自分の腕の中にある存在。自分の罪を知り、それでなお共に生きると言ってくれた少女。彼女を守るためだったら、他に何を犠牲にしても構わなかった。他の人間も。自分さえも。
追撃はなかった。
突然の事態に狼狽したのか、つきなは彼らを追って来なかった。
その事に、微かな希望を覚えた。自分でも、”あれ”を出し抜く事が出来る。それならば、きっと可能性はあると。
「……あ、くぅ……」
腕の中で、梨沙が苦しげな声を上げて身をよじる。
「梨沙、頑張ってくれ!!もう少し!!もう少しだから!!」
息の切れる咽喉から、必死に励ましの声を絞り出す。二人の流す汗が混じり合い、廊下に点々と跡を残す。ガクガクと震える足を振り上げ、最後の角を曲がる。その先に、目指す場所がある筈だった。そして――
「――貴方、本当に愚か」
「……え?」
つきなが、いた。
「え……な……?」
そこは、目指していた筈のナースステーションの前ではなかった。
ジリリリリリリ
すぐ横の壁で、警報器が鳴っている。その下には、片方だけの靴が落ちている。そう。そこは、紛れもなく――
「……うるさい」
つきなが、辟易した様に呟く。途端、
バキンッ
硬質な音が響き、警報器が壁から弾き飛ばされる。
ガシャッ ガシャンッ
大きな音を立てて床に転がった警報器は、そのまま沈黙した。
「……静かに、なった」
警報器を叩き落とした髪をかき上げながら、つきなはホゥ、と息をつく。その彼女を、光貴は混乱と恐怖が混じり合った目で凝視していた。
「お前……どうして……ここは、そんな……」
そんな彼を冷めた目で見やると、つきなはもう一度言った。
「貴方は、本当に愚か」
また、言った。
そこには嘲りの色はない。ただ、淡々と話す。
「警報器も何も……」
小さな足が、床に転がっていた警報器をグシャリと踏み潰す。
「そもそも、さっきから大騒ぎしてるのに人が来ない。おかしいと、思わない?」
その言葉に、光貴はハッとする。目の前のつきなと梨沙のやり取りに気を取られて考えが向かなかったが、確かに。
先刻からの自分達のやり取りは静かなものではなかった。病院には、夜でも大勢の人間がいる。この騒ぎに誰も気づかないのは、あまりにも不自然だった。
「……何を、したんだ……?」
戦慄く声で、問う。
「この階を、”隠里世”で包んだ」
その疑問に、つきなはあっさりと答える。
「かくり……よ……?」
「そう、隠里世。人間達が、神隠しとか隠れ里とか呼ぶ現象」
言いながら両手を広げ、踊る様にくるりと回る。
「この空間を。わたし達を。現世とは別の空間に隔離したの。わたし達の声も所業も、外の人間には感じられない。届かない。つまり……」
一回りしてピタリと止まると、光貴達に向かって手を伸べる。
「助けは来ないし、逃げられもしない」
「………!!」
絶句する光貴。その顔を、つきなは優しく見下ろす。
「だから、ね。大人しく、していなさい」
告げる言葉は、何処までも穏やかだった。