参
「………」
発する言葉もなく、ただ立ち尽くす光貴と梨沙。
手を汚す眼球の欠片と粘液を弾きながら、つきなは言う。
「そんなに、怖い顔しなくても大丈夫。大人しくしてくれれば、二人共痛くない様に送ってあげる」
その言葉に応じる様に、長い黒髪がサワリと蠢く。
恐怖と緊張で強張る声音を絞り、光貴が叫んだ。
「梨沙は、関係ないだろ!!」
「関係ない?」
もう一度、小首を傾げるつきな。黒い瞳が、ポウと蛍緑の光を放つ。
「どうして?貴方がわたしを求める理由は、その娘でしょう?」
「!!」
途端、返す言葉を失う光貴。
「……何……?何の、事……?」
戸惑う梨沙。しかし、光貴は答える事が出来ない。
そんなやり取りを見て、つきなは瞳を細める。
「知らないんだよね。教えてあげようか?」
「………?」
「よせ!!」
つきなの意図に気づいた光貴が叫ぶが、彼女の口は止まらない。
「貴女、その子に飲まされてたものがあったでしょう」
「………!」
唐突に向けられた言葉。けれど、それに梨沙は覚えがあった。
数ヶ月前から、光貴が滋養をつけるためのものだと言って、週に一回、特製のドリンクを持ってくる様になっていた。
味はエナジードリンクの様だったが、花の様な甘い香りがキツくて、正直あまり好きではなかった。ただ、飲んでくれという光貴の顔がひどく真剣だったので、何か大事なものなのだろうと思って口にしていた。
何処か親しげな声で、つきなは言う。
「どうだった?あれ飲んで、身体、楽にならなかった?」
確かに。あのドリンクを飲む様になってから、身体の不調は鳴りを潜めていた。
失った健康が戻る事こそなかったが、日に何度も襲ってきていた苦痛からは開放されていた。
件のドリンクの効果かと思い、あれは何なのかと幾度か光貴に訊ねた。けれど彼は笑って言葉を濁し、答える事はなかった。
「あれは……」
梨沙の思考を読み取る様に、つきなは言葉を紡ぐ。
「時を、留める」
「……時を……留める……?」
「そう」
苦しそうに息をつきながら声を発する梨沙と、それを労わるように優しい声音で応じるつきな。
二人が会話をしている間、光貴は必死に退路をさがしていた。つきなの目的を知っている事もあるが、今は何より、彼女に真実を明かされる事が怖かった。
梨沙は心根の優しい娘だ。自分がしてきた事を知れば、軽蔑し、嫌悪するだろう。光貴は、彼女にそんな目で見られる事が怖かった。何よりも怖かった。だから、つきなが真相を口にする前に、隙を見つけて逃げようと試みていた。けれど、相手はそう易くはなかった。
光貴が少しでもその素振りを見せれば、つきなの身体がユラリと揺れた。注意を逸らしてはいない。その事が、酷く明確に分かった。もし、光貴が動けば、その瞬間につきなは自分達を八つ裂きにするだろう。
動く事は、出来なかった。
そして、成す術もないまま、会話は続いていった。
「――あれは、飲んだ者の時を止める。飲んだ者は、その時の状態のまま時が止まる。老いる事もなくなるし、容姿が変化する事もない。当然――」
つきなの指が上がり、梨沙を指差す。
「患う病が、進行する事もなくなる」
「……そんな事……!!」
ある筈がないと言おうとして、梨沙は言葉を呑み込んだ。
目の前の少女が言う事は、自分の身に起こっていた事を如実に表現していた。
思えば、初めて光貴にあれを飲まされたのは、珍しく小康状態が続いている時だった。彼女が言う通りなら、自分の身体はあの小康状態のまま、時が止まっていた事になる。
そんな絵空事の様な話、ある筈がない。
ある筈のない事だけれど――
それが真実だと、自分の身体が証明していた。
ならば、認めるしかない。
「………」
「……賢しい娘」
梨沙が己の言葉を受け入れた事を察した様に、優しげに笑むつきな。けれど、その笑みはすぐに酷薄なものに変わる。
「ご褒美に”あれ”が何だったのか、教えてあげる」
「!!」
その言葉に、光貴の身体が強張る。
「よせ!!」
たまらず叫ぶが、つきなが聞く道理もない。彼女は左腕を上げると、手首に右手の人差し指を添え、素早く引いた。
パッ
鋭い爪が肌を切り裂き、赤い滴が散る。瞬間――
フワリ
金木犀の様に、強く甘い匂いが漂った。
「!!」
その香気に、梨沙が息を呑んだ。
「どう?覚え、あるでしょう?」
一瞬で消え去る傷痕。それを撫でながら、つきなが言う。
「そう。貴女が飲んでいたのは……」
「梨沙!!聞くな!!」
悲鳴の様な声を上げる光貴。それをせせら笑い、つきなはその言葉を口にした。
「わたしの、血」
ドクン
梨沙の中で、何かが蠢いた。
ウッ……
背中で、梨沙がえずく気配がした。絶望に近い恐怖が、光貴の足を震わせる。
こみ上げる嘔吐感を、必死の思いで呑み込んだ梨沙。震える声で、問う。
「……光貴、どう言う事、なの……?」
光貴に返す言葉はない。震える唇。噛み締めた口内に、鉄錆の味が染みる。
「……その子はね……」
代わりに、つきなが口を開いた。
「わたしに嘘をついた。わたしの探してる”もの”の場所を知ってるって、わたしを騙して、わたしを捕まえた」
「………」
背中で、梨沙が身を固くするのを感じる。光貴には、もうどうする事も出来ない。それを嘲笑う様に、言葉は続く。
「捕まえたわたしを、縛り付けたの。動けない様に、逃げられない様に」
夢でも思い出す様に、つきなが宙を仰ぐ。
「暗くて、狭くて、寒かった……」
「………」
梨沙は、何も言わない。ただ、その身が微かに震えているのが感じられた。彼女が今、何を感じ、何を思っているのか。それが、光貴にはただただ恐ろしかった。
「そんな所で、毎日血を抜いてたの。動けないわたしに、何回も何回も針を刺して」
「………」
「貴女に、飲ませるために」
淡い蛍緑の光が流れ、梨沙を見つめる。そして――
「酷いね。ねぇ、酷いよね」
同意を求める様に、語りかけた。
「………」
梨沙は、何も答えなかった。ただ沈黙だけをもって、それに返す。
光貴もまた、何も言わない。ただ黙りこくったまま、審判を待つ罪人の様に立ち尽くす。
誰も、何も言わない。
動かない。
常夜灯だけの、薄暗い空間。窓から差し込む月明りだけが、ユラリユラリと時を刻んでいた。
しばしの間。
そして、動いたのは”彼女”だった。
「光貴……」
光貴に背負われた梨沙が、彼に向かって呟いた。その声の透明さに、光貴はビクリと震える。
「降ろして」
梨沙が、言った。
「け、けど……」
「いいから。降ろして」
静かな。けれど、強い意志の篭った声だった。光貴に、止める術はない。深い絶望を感じながら、彼は背に負っていた梨沙を降ろした。
床に足を着いた途端、ガクリと傾ぐ細い身体。光貴が咄嗟に支えようとするが、梨沙は顔を振って拒む。震える足に、なけなしの力をこめて身体を支える。そして、光貴とつきなが見守る中、梨沙は己の足でしかと立った。
「梨沙……」
「光貴、黙ってて」
厳しい声音で制され、言葉を失う光貴。そんな彼を置き去りにする様に、彼女は一歩前に出る。真っ直ぐに見つめる、視線の先。その先には、つきながいた。
ハア……
かすれる息を、もう一度強引に束ねる。一拍の間を置いて、梨沙は問うた。
「……さっきの話は、本当、ですか……?」
「嘘は、つかない」
その問いを知っていた様に、つきなは間を置かずキッパリと答える。その言葉に、ほんの一瞬悲しげに目を伏せると、梨沙はもう一度視線をつきなに戻す。
「……そうですね……。そう思います……。そして、酷いとも、思います……」
光貴が、ビクリと震える。
「本当に、賢しいね。手間が省けて助かる」
つきなが、声だけで笑う。
「貴女は、人間じゃないんですね……?」
「『時無』と言うの。人間達が、勝手にそう呼んでるだけだけど」
言葉と共に、蛍緑に光る瞳が揺れる。それに見つめられる度、強い目眩が襲う。それを必死にこらえながら、梨沙はその瞳を見つめ返す。
その様を見たつきなが、光貴を示しながら言う。
「辛そうだね。その子に支えてもらったら?」
光貴が思わず梨沙を見るが、彼女は身を寄せようとはしない。つきなが、わざとらしく問いかける。
「どうしたの?貴女達は番じゃないの?それとも、愛想でも尽きた?さっきの話で」
「さっきの……」
梨沙の顔が悲しげに歪む。身体の痛みではない。心の痛みで。
「……光貴が、やったんですよね……?」
「そう」
「……あたしの、ために……?」
「うん。貴女の、ため」
「………」
幾度かのやり取りの後、またしばしの沈黙が下りる。そして、梨沙がゆっくりと口を開く。
「……ごめんなさい……」
そこから出た言葉に、つきなは苦笑する。
「謝ってるの?」
「……光貴が……貴女にそんな事をした、のは……あたしの、ためです……。なら、罪は……あたしにあります……」
それを聞いたつきなの瞳が、よりいっそう強く輝く。
「よく、分かってる」
言葉と共に、漆黒の髪がザワリと蠢く。
「だからわたしは、元凶を無くしに来たんだよ」
数本の髪がシュルルと伸びて、梨沙の頬をサワリと撫でる。鋭い刃で触れられる様な感覚に、細い肩がビクリと震えた。
「な……!?」
静かな声音で呟かれた宣告に、光貴が血相を変えて叫ぶ。
「何言ってんだよ!!梨沙は関係ない!!俺が、勝手にやったんだ!!」
言いながら、梨沙とつきなの間に割って入ろうとする。しかし――
ドンッ
「ぐっ!?」
突然強い力に突かれ、もんどり打って転がる。
「わたしはこの娘と話してるの。少し、大人しくしていなさい」
光貴を突き飛ばした髪の束を蛇の様にうねらせながら、つきなは言う。
「……光貴に、酷い事しないでください……」
血の気のない顔をさらに青ざめさせながら、けれど悶絶する光貴をかえりみる事なく、梨沙は言う。
「そうだね。貴女がいなくなれば、その子がわたしを求める理由もなくなる。だったら、後は放っておいてもいい」
ザワリ ザワリ
無数の髪が、蠢きながら梨沙に這い寄る。
「やめろ!!やめてくれ!!」
光貴が懇願するが、つきなが聞く耳を持つ道理もない。
「動かない方がいいよ。動くと、余計に痛いから」
髪の群れが、獲物に食いかかる様に鎌首をもたげる。光貴が、絶望の悲鳴を上げようとしたその時――
「……貴女は、人を殺せるんですね……」
梨沙が、呟いた。
その言葉に、髪の群れの動きが止まる。
「うん?」
小首を傾げるつきな。彼女に向かって、梨沙は続ける。
「人を、殺せるんですね……。簡単に……」
「何が言いたいの?」
その問いには答える事なく、理沙は問いをかける。
「光貴は、知っていましたか……?その事を……。貴女が、人を殺せるものだって言う事を……」
「……変な事を、訊くね」
そう言いながらも、つきなは答える。
「一応は、知ってたみたい。噛み付く獣を捕らえるくらいの覚悟は、あったと思う。それでも大分、甘くは見てたけど」
「……そうですか……」
瞬間、梨沙の気配が変わった。
見た目が変わった訳ではない。血の気のない肌はそのまま。時折小枝の様に揺らぐ、痩せた身体もそのまま。けれど、彼女の中で確かに何かが変わっていた。それを察したつきなの顔から、表情が消える。
「……お願いが、あります……」
梨沙が、乞う。
「何?何か、遺したい?」
つきなが、問う。
その問いに、梨沙は答えた。
「あたし達の所に、戻ってくれませんか?」
強い言葉で、そう言った。