弐
その頃、光貴は飛び出した先で捕まえた深夜タクシーの中にいた。
声を荒らげ、運転手に叫ぶ。
「何してんだ!!もっと飛ばせ!!飛ばしてくれ!!」
あまりに必死なその様子と、告げられた場所が病院であるという事。それに、何か只ならぬものを感じたのだろう。運転手は、言われるままにアクセルを踏む。
法律上、そして安全上、非常に問題ある行為ではあった。しかし、天が味方をしたと言うべきか。警察に咎められる事も、事故を起こす事もなく、程なくタクシーは病院へと着いた。
無茶をしてくれた運転手に、礼と共にメーターに表示される額に倍する料金を渡すと、光貴はタクシーを飛び出した。
関係者専用の出入り口をキーで開け、院内に転がり込む。エレベーターなど、待ってはいられない。非常階段を、駆け上がった。
そうやって、ようやく着いた最上階。足音を忍ばせる事もなく、廊下を駆け抜ける。やがて見えてくる、見慣れた病室の扉。たどり着くと同時に、開け放った。
明かりの落ちた病室は、淡い月の光に満たされていた。その中で、ベッドに横たわっていた梨沙が、力なく振り向いた。
それを見た光貴は、汗だくの顔で安堵の息をついた。
「梨沙……良かった……」
「……光貴……?どうしたの……?」
彼の鬼気迫る表情を、怪訝に思う様に梨沙は訊ねる。
しかし、それに答える事なく駆け寄ると、光貴は梨沙の身体に繋がれていたコードの類をむしり取った。
「……光貴……?」
「梨沙、逃げよう!!」
「……え……?」
「俺がおぶるから!!早く!!ここから、少しでも離れるんだ!!」
戸惑う梨沙に懇願する様に、光貴は言う。
「説明してる暇はないんだ!!頼むから、言う事を聞いてくれ!!」
そんな彼の様子に、何かを察したのだろう。梨沙の表情が変わった。
「……分かった……」
頷くと同時に、自分の腕につながっていた点滴の管を掴む。そして、残されていた力を振り絞る様にして、引き抜いた。
刺し傷からこぼれる血を毛布で拭うと、光貴は梨沙をベッドから抱き起こす。
「しっかり、捕まれよ!!」
梨沙を背に乗せながら、言う。頷く彼女の、羽根の様な軽さ。それに不安を覚えながら、光貴がそっと立ち上がろうとしたその時、
「何処へ行くの?」
突然、声が響いた。
「!!」
思わず振り返った、窓の外。
「ヒ……!!」
梨沙が、短く悲鳴を上げた。
窓の外で、長い黒髪が踊る。ガラスに張り付く、二つの手の平。その間から、逆さになった白い顔がこちらを覗き込んでいた。
「何処へ、行くの?」
薄い唇がパクパクと動き、もう一度同じ言葉を紡いだ。途端、
ピシリ
窓ガラスに入る、一筋の亀裂。それを見た光貴が叫ぶ。
「梨沙!!落ちるなよ!!」
パァンッ
二人が病室を飛び出すのと同時に、窓が大きな音を立てて割れ砕けた。
スルリ
砕け散った窓から、白い影が病室内に滑り込む。ユラリと立ち上がった影――つきなは、開け放たれたままの病室の扉を見て、蛇の様に目を細めた。
「無駄、なのに……」
呟く口の中で、光る牙がカチリと鳴った。
「う……うぅ……」
流れて行く夜気の中に、か細い呻きが千切れ流れていく。
それを聞いて、煌夜は背に負ったあやなに言う。
「キツイかい?もう少し、辛抱して欲しいな」
そんな彼の言葉に、あやなが苦しい息で応じる。
「お願い……ちょうだい……少しで……少しでいいから……」
彼女の爪が、掻き毟る様に煌夜の背に爪を立てる。その喘ぐ様な声に、
「駄目だよ」
煌夜はあくまで、淡々と答える。
「僕が、そんなんじゃないのは、知ってる筈だよ。見境なんて、失ったってろくな事になりゃしない」
「………」
その言葉に抗議する様に、背中でえずく音がする。
「やれやれ。一張羅なんだ。汚さないでおくれよ」
溜息をつきながら、夜色の少年はまた宙を舞った。
ハア ハア ハア……
荒い息をつきながら、光貴は走る。
「梨沙、辛いだろうけど、頑張ってくれ」
病身の身には負荷が大きいのだろう。己の背中で苦しそうに息をつく梨沙を、光貴は必死に鼓舞する。
「……光貴……あれ、何……?」
絶え絶えの息で、梨沙は光貴に問う。けれど、それに答えている余裕は光貴にもない。
「後で話す!!今は……」
「逃げよう」と言いかけた時、天井を何かが駆け抜けた。
「!!」
何事かと振り仰ぐよりも早く、光貴達の前でスタンと言う音が響いた。
「……!!」
梨沙が、引き攣るように息を呑んだ。光貴が視線を戻すと、そこには幽鬼の様に髪を揺らすつきなの姿があった。
「お前……」
背負う梨沙をかばいながら、光貴はつきなを睨みつける。そんな彼を冷めた目で見つめながら、彼女は言う。
「久しぶり……」
静かな声の向こうに見える、明確な殺意。それに背筋を凍らせながらも、光貴は声を振り絞る。
「今更……何の、用だよ……」
「何の、用?」
つきなが、小首を傾げる。
「用があるのは、貴方の方でしょう?」
「………!!」
光貴の動揺を見透かす様に、つきなは言う。
「これは、貴方が招いた事」
冷たい眼差しで光貴と梨沙を見つめながら、淡々と言の葉を紡ぐ。
「本当はね、こんな事する気はなかったんだよ。放っておいてくれれば、それでよかったの。けれど……」
つきなが、ス、と右手を上げた。その手に、何かを摘む様に持っている。それが何かを見とめた瞬間、梨沙は「ヒッ!!」と悲鳴を上げ、光貴は息を呑んだ。
白魚の様な指に摘まれたもの。それは、一個の眼球だった。乾き干からびた血糊がこびり付いたそれは、正しく人間から抉りとったもの。
「貴方は、”こんな真似”をした」
言いながら、眼球を手の平の上に転がす。
「貴方が、そういうつもりなら仕方ない」
眼球を弄びながら、わざとらしく溜息をつく。
「わたしも、それなりの事をさせてもらう」
冷たくそう言って、つきなは眼球をグシャリと握り潰した。
あたしが街を徘徊する様になって、しばし。
いつしか、街に一つの噂が流れ始めた。
夜闇を彷徨う、少女の姿をした怪異。
何の事はない。あたしの事だ。
だけど、噂は語り継がれるうちに尾鰭が付いて肥大していった。
曰く、その少女に会ってしまった者は、二度と帰れない場所へと導かれる。曰く、その姿を見た者には、近く大きな不幸が起こる。
全く、無責任でくだらない話。けれども、そんな子供だましを信じる者もいる。
怯えて黄昏とともに家に引きこもる者もいたが、好奇の思いからその姿を追い求める輩も多くいた。蔓延する噂。濃さを増していく、人の視線。
そんな中で、それでもあたしは夜を彷徨い続けた。どのみち、あたしに選択肢などない。人に存在を知られる事など、この飢えに比べれば酷く些細な事だった。
人との接触は、必然的に多くなっていった。姿を見られる事はざらにあったし、たまには声をかけられる事もあった。その度に、逃げたり適当にあしらったりした。けれど、そんな中で別の問題が頭を掲げてきていた。
”獲物”が、見つかりづらくなっていた。
あたしの”獲物”達は、闇と静寂を好む。一人二人ならともかく、複数の人間がウロウロしていると、身を隠すなり消えるなりしてしまう。まだ、狩りの術が拙かったあたしには、それが結構こたえた。
責める様に荒ぶる空腹感。
糧を得られない焦燥感。.
それらに苛まれる中、一つの興味が頭をもたげてきたのは当然の事。
その内容は、至極単純。
――人は、どんな味がするのだろう?――
いつしか、そんな思いが頭を離れなくなっていた。
人間。
本来なら、食欲の欠片もわかない存在。
けれど、そんなものにも食指を動かされるほど、あたしは追い詰められていた。まるで、飢餓状態の人間が、普段は気にもかけない雑草や木の根にすら齧り付く様に。
人間。この世に、一番満ち溢れる存在。
食べる事さえ出来るなら、それは尽きる事を知らない糧となる。この飢えを、満たし続ける事が出来るかもしれない。
そんな思いが、日々あたしの中で大きくなっていき、そして――
あたしは、食べた。
獲物は、若い男。
髪を極彩色に染めて、ジャラジャラとした装飾で身を飾った、いかにもと言った風体。
夜に一人でいたあたしを見て、下心も露わに言いよってきた。無防備に、つきまとってきた。
その時、あたしはいつにもまして飢えていた。何日も獲物が見つからず、限界が近かった。採餌を邪魔される苛立ちも、その衝動の背を押した。だから、決めるのに時間はかからなかった。愛想笑いを浮かべ、誘いにのったふりをする。すると、男は下卑た笑みを浮かべながら、あたしを人目につきそうにない場所に誘ってきた。
その先にある、自分の行き着く場所も知らずに。
事は、一瞬で終わった。
食事は、ほんの一口。
悲鳴を上げさせるなんて、間抜けな真似はしない。
相手が事態を理解する前に、髪の毛一本、血の一滴残さずに口に放り込んだ。
結論。
酷い、味だった。
否。味なんて、上等なものじゃない。砂を噛む様な異物感と、ピリピリする不快な感覚が口中を駆け巡る。あれほど食べ物を欲していた身体が、明確に拒絶するのが分かった。あたしは急いで近場の公園に転がり込むと、水飲み場でガブガブと水を飲み、口をすすいだ。何度も何度も。いつまでもいつまでも。それを、繰り返した。けれど、嫌な血脂の味は呪いの様に消える事はなかった。
以来、あたしは人を食べていない。
「まあ、そうだろうなぁ」
彼が、呆れた様に言った。
「そもそも、人間自体が君の糧としては不向きだし。加えて現代の人間は、種々雑多なもので汚染されてるからね。さぞや、不味いだろうさ」
「………」
返す言葉はない。もう、それをする事も億劫だった。
「方法が、ない訳じゃないだろうに」
彼も、その事を察しているんだろう。
無理に、答えは求めてこない。
独り言の様に、言葉は続く。
「糧が不足してきたなら、別の地に渡ればいいんだ。”昔”みたいに。どうして、それをしないのかな?」
「………」
やっぱり、答えないあたし。
けれど、今度の言葉は些か意地悪だった。
「やっぱり、嫌かい?少しでも、親との絆が残るこの地を離れるのは」
「………」
答えない。
答えられる、筈もない。
苦笑する、気配が伝わる。
「全く。難儀な事だね」
溜息混じりに、彼は言う。
その声音を、少しだけ優しく感じたのは気のせいだろうか。