壱
ずっと、一人だった。
母は、あたしを産む時に死んだ。
胎内のあたしを抑え切れず、数百の肉片になって散った。
当然、抱かれた思い出はない。顔も、温もりも知らない。
父は、あたしを捨てた。
抱かれた覚えは、ない。愛された、記憶もない。
産まれた時から歩いてたあたしを、大金をはたいて買ったマンションの奥に閉じ込めた。
水も、電気も使える。毎月、父名義の口座にお金が振込まれる。
何処かで、管理だけはしているのだろう。
生きる術を絶たないのは、それを求めて、あたしが自暴自棄になる事を恐れていたからか。それとも、親としてのせめてもの憐憫からか。
そんな事、分かる筈もなければ、分かろうとも思わなかった。
自我を得てから、あたしを満たし続けるもの。
それは、飢え。
飢えていた。
いつでも。
いつまでも。
耐え難い飢えが、身体を満たしていた。
まるで、身体の中心にポッカリと穴が空いたような喪失感。
それを埋める事に、あたしは必死になった。
マンションの中には、何百何千と言った、御札や封印が貼り付けられていた。
あたしを、建物の中に閉じ込めるためのものだと思う。
小さかったあたしは、それらを食べた。安物が多くて、美味しくはなかった。けれど、背に腹は変えられなかった。引き剥がしては食べ、舐めとっては食べ。昼夜の区別もなく、貪り続けた。
けど、それがもったのも、ほんのしばらくの間だけ。
いつしか御札も封印も底を尽き、あたしは空腹を癒すために外に出ざるを得なくなった。
出入り口の鍵を壊して外に出たのは、新月の夜。
昏い。昏い。たった一人の、夜だった。
クラリ
目の前の景色が、軽く踊った。
「う……」
足が縺れ、景色の輪舞が激しくなる。堪えきれずに、ガクリと膝が折れる。膝頭が強かに地面に打ちつけられるけど、その痛みも気にならない。
身体の、奥深くから湧き上がる不快感。内臓が裏返る様な感覚。幾度となく、視界が回る。
「ぐ……ぅ……!!」
震える手で身を支え、なんとか立ち上がる。身体が傾き、思わず傍らの塀に手をついた。
ジュウ……
焼ける様な音が響き、硫黄の様な臭気と熱気が夜の冷然とした空気を侵す。
「………」
霞む目を向けると、手をついた壁がまるで熱せられた蝋の様に溶けてへこんでいた。赤黒く変色したその表面はぶすぶすと燻り、細い白煙を暗い夜空に向かって立ち上らせている。
その白煙を焦点の合わない視界で追いながら、ふらふらと立ち上がる。
限界だった。
このままではいけない。
このままでは、あの娘の元に帰れない。
このままでは、あの娘と一緒に居られない。
あの時は、危なかった。
本当に、危なかったのだ。
もしあの時、背に伸ばされた手を触れる前に祓えなかったら。
もし、部屋を飛び出すのがあと一秒遅かったら。
あたしは、きっと――
自分の想像に、身体を苛む不快感とは別の悪寒が背筋を走る。
早く、早く見つけなくては。
マンションを飛び出して三日。あたしは、一人でさ迷い続けていた。
昼間は、人目のない所で身を潜め。
夜は、獲物のいそうな闇を渡って歩いた。
けれど、求める獲物は見つからない。
見つからない。
見つからない。
ダメだ。
それじゃ、ダメなのだ。
この街にいないのなら、隣街へ。そこにいなければ、その隣の街へ。
見つけなければ、あの娘の所へは帰れない。
帰れない。
帰りたいのに。
嫌だ。
嫌だ。
だから。
早く。早く――
チリン
不意に、鈴の音が耳に飛び込んできた。
朦朧とした意識。なのに、身体は律儀に反応する。重い頭を無理に持ち上げると、強張った首の筋肉が軋みを上げ、熱を持った頭蓋は割れ鐘の様に喚きたてた。しかし、そこに連結する眼球は、これまた律儀にその前方にある光景を忠実に写し出す。
外灯だけが照らす、昏い道。その灯りの下。夜闇に浮かぶ、淡い光溜り。そこに佇む、一つの人影。
細く、華奢な身体。それを包む、夜色をしたレトロな外套。そして、黒蛇の様に宙を舞う、長い髪。
とても、見覚えのある姿。
長い前髪の間から覗く右目が糸の様に細まり、薄い唇が言の葉を紡ぐ。
「辛そうだね」
性別の判断がつきにくい、中性的な声。それが、呆れた様な響きを持って夜風に流れる。
チリン
鈴が鳴り、“彼”が光溜りから夜闇の中へと抜け出る。気がつくと、もう目の前に立っていた。
「だから、言っただろう?早く手をつけろって。それを望んでいたのも、君自身だろうに」
長い外套が、夜風に捲かれて舞う。途端、彼の纏う“香り”が風に乗って流れた。
「………!!」
それは、酷く虚ろな香り。
あの娘の様に甘くもなければ、蟲惑的でもない。
無機質で、透明で、空虚な匂い。
けれど、ただ一つだけ確実に言える事。
――人以外の、もの――
それだけで、十分だった。
身体の内で、歓喜を持って“あれ”が唸る。
その唸りが、咽喉を通って溢れ出す。
噛み閉まった牙がギチギチと軋み、熱の篭った頭蓋の中に喜びの悲鳴を喚き散らす。熱く、酸っぱい唾液が口内を満たす。それが歪に引き上がった口の端から溢れ出て、落ちたアスファルトの上でジュウジュウと白煙を立てた。
赤濁した視界で見下ろすと、彼は突っ立ったままこちらを見上げていた。
「やれやれ、呆れたね。獲物とそうでない物の区別もつかなくなったのかい?」
何か言ってる様だけど、知った事ではない。もう、限界だった。文字通り、裂ける程に口を開ける。そして、その歯牙の列を彼めがけて振り下ろした。
――瞬間、目の前で火花が散った。
食べた。目につくもの、手当たり次第に。食べて食べて、食べまくった。
けれど、空腹が癒される事はなかった。
食べても。食べて食べても食べても。
足りない。足りない足りない足りない。
身体に空いた空虚な穴。
埋まらない。
埋まらない。
埋まらない。
その感覚に怯える様に、貪り続けた。
昼は閉め切った部屋の奥で飢えに耐え、日が落ちると糧を求めて歩き回る。そんな毎日が、いつ果てるともなく、続いた。
「難儀な事だね」
暗い視界に、声が聞こえた。
「自我の曖昧なうちに、その有様とは。よく、暴走しなかったもんだ」
目を開くと、逆さにあたしを覗く彼の顔が映った。
「………?」
訳が分からないまま起き上がろうとすると、頭の中がグワァンと揺れた。左の頬がズキズキと痛い。口の中は、鉄錆の味と臭いに満たされていた。
「正気に戻ったかな?」
外套の中から、白い手がするりと出てくる。つきなの手も白いけれど、こいつの手はもっと白い。そして、細い。こんな細くて華奢な手に、“あの時”の自分が殴り飛ばされたなんて、いまいち実感が沸かない。
白い手が、近づいてくる。
汗で濡れた額に、ゆっくりと。撫で上げる。酷く、冷たい。滑稽なくらい。
昔、蛇を触った事がある。
冷たくて、サラサラしていた。
ちょうど、この手の様に。
「戻ったのなら、行くよ」
薄っぺらい声で、蛇が言う。
「何処……へ……?」
「君が、望むものの所へ」
与えられた答えにも、濁る思考は追いつかない。
彼が、あたしの身体を担ぎ上げる。
「さ。舌ばかり噛まないでおくれよ」
それだけ言うと、あたし達の身体は宙に待った。