参
また、夜が来た。
月明かりが差し込む、漆黒の空間。
その中で、羽柴光貴は待っていた。
約束の時間は、とうに過ぎている。
それでも彼は、待っていた。
様々な手を探って、ようやく見つけた仕事人達。
金さえ払えば、どんな汚れ仕事でもやってのける。
そんな彼らを、破格の報酬で抱き込んだ。
いくら財閥トップの息子とはいえ、出来る事には限度がある。今回動かした金は、明らかにその限度を超えている。発覚すれば、ただでは済むまい。最悪、勘当された上に一族からの追放と言う事も考えられた。
けれど、彼にとってはそれも些細な事。彼に、光貴にとって必要なのは、梨沙だけだった
彼が、幼少の頃からの幼馴染。そして、将来を誓い合った恋人。
両親親戚が金繰りに没頭する中、常に孤独だった彼の側にいてくれた、唯一無二の存在。
彼女さえ側にいてくれるのなら、地位も金もどうでもよかった。あらゆるしがらみから解き放たれたなら、彼女を連れて何処か片田舎で静かに暮らそう。そうとすら、考えていた。
けど。
けれど。
それを叶える為には、壁があった。
とてつもなく固く、厚く、高い壁。
それは、梨沙の抱える病。
彼女が高校生になった時、その災禍は何の前触れもなく現れた。
急に襲った、耐え難い全身の痛み。
光貴に出来るのは、救急車で運ばれる彼女に付き添う事だけだった。
原因は不明。当然、治療法も不明。
手の施しようもないまま、謎の病は梨沙を蝕んでいった。
普通の病院では手の施しようがない事が分かった時、光貴は自分の財閥が経営する総合病院へと彼女を転院させた。そこには名だたる名医が幾人も在席し、世界クラスの医療機器が揃っている。間違いなく、国内で最高の治療が受けられる場所だった。
けれど、そこであっても事態は好転する事はなかった。
梨沙に宿った病は、邪悪だった。本来、病に邪悪と言う形容はふさわしくないかもしれない。けれど、その有様はまさに邪悪としか表し様がなかった。
発作は死に勝る程の苦痛を伴いながら、決して最期をもたらす事はなかった。その苦しみは、命が掻き消える手前で止まり、それを日に幾度となく繰り返す。
まるでいたぶる様に。弄ぶ様に。終わりをもたらす事なく、少しずつ、本当に少しずつ、病は梨沙を苛み続けた。
そんな、ある夜。もう、幾度目かもしれない発作。強い鎮痛剤ですら抑えられない苦しみの中で、梨沙は脇に座る光貴の手をひしと握った。握りながら、霞む眼差しで彼を見つめた。見つめて、ニコリと笑った。綺麗に、とても綺麗に笑った。
その笑顔を見た瞬間、光貴の中で何かが切れた。
逃げる様に病院を飛び出した彼は、当てもないまま夜の街を彷徨った。
漠然と霞む思考の中で、彼は己の死を考えていた。どの道、梨沙が死ねば自分の生きる意味もなくなる。それならば、先に逝って彼女を待っても同じ事ではないだろうか。
心が、壊れかけていた。フラフラと歩きながら、彼は死に場所を探していた。
何処を、どう彷徨ったのかも覚えていない。
そして、どれほどの時間が経っただろう。
いつしか、彼は”そこ”に立っていた。
その時から、道は開けた。
“そこ”で手に入れた“術”を元に、彼は“あれ”を手に入れた。
その姿に、最初は罪悪感を覚えもした。けれど、その痛みも安らいで眠る梨沙の前では些細な事だった。
そう。
“あれ”が必要だった。
梨沙が生きる為には、“あれ”が必要だった。
取り戻さなければいけない。“あれ”を。絶対に。
だから、彼は待っていた。
彼らが戻るのを。彼らが、“あれ”を持ち帰るのを。
待ち始めて、既に数時間が経っていた。彼らは、まだ戻らない。だから、待つ。いつまでも。いつまでも。“あれ”がこの手に戻るまで。
――と、
ユラリ
闇が、揺らいだ。
その気配に、光貴は思わず身を乗り出す。
しかし、
「無駄よ」
聞こえてきた声に、光貴は肩を落とした。
「魅鴉……」
その声に答える様に、黒衣の少女が闇の中から現れる。
「何の用だよ……?お前の相手をしてる暇は……」
「言ったでしょ。無駄よ」
自分の言葉を遮った、魅鴉の声。いつもの浮ついた調子がない。それに、光貴は違和感を覚える。妙な胸騒ぎを感じ、問いただす。
「何の事だよ?」
「あんたの雇った連中、全員死んだわ」
「………!!」
息を呑む光貴に、魅鴉は言う。
「あんた、意外と馬鹿ね。いくら腕に覚えがあったって、ただの人間にあの娘がどうにか出来る筈ないでしょう?」
「そんな……馬鹿な……!!」
「だから、馬鹿はあんただって」
容赦のない言葉が、光貴を打つ。
「あんたがあの娘を捕まえられたのは、”あれ”で得た”術”があったから。そして、何より……」
冷めた声で、魅鴉は言う。
「あの時のあの娘に、抵抗の意思がなかったから。何故かは、知らないけどね」
足から、力が抜ける。光貴は崩れ落ちると、冷たい床を拳で叩いた。
「ちくしょう……!!ちくしょう……!!」
ガンッ
そんな光貴の目の前の床を、魅鴉の足が踏み砕いた。
「!?」
「ヘタレてる場合じゃないわよ」
見上げると、見下ろしてくる猛禽の様な目と視線が合った。
「まったく。早まった真似をしたもんだわ。おかげで、マズイ事になった」
らしくない、淡々と語る口調。その事が、光貴に妙な不安を与える。
「……どういう事、だよ……?」
「今度の事で、あの娘が“あんた達”を排除対象と認識したわ」
「……?……」
ポカンとする光貴。
言われている事の意味が理解出来ない。それとも、意識がそれを拒否したのかもしれない。けれど、魅鴉は容赦なく現実をねじ込む。
「分からない?あの娘、殺す気よ。あんたも。そして、あんたのお姫様もね」
「……お姫、様……!?」
その言葉の意味を理解した瞬間、全身から血の気が引くのを感じた。
「馬鹿言え!!あいつは梨沙の事なんて、知らない筈だ!!」
「あんた、本当にあの娘を甘く見てたのね」
溜息をつきながら、魅鴉は言う。
「あんた、何度、あの娘と顔を合わせた?」
「……え……?」
「あの娘、見た相手の思考を読めるのよ」
「な……!?」
魅鴉は、冷淡に告げる。
「知ってるわよ。全部。あんたが、何のために自分を必要としてたかも。あんたが、誰のために必死になってたかも」
「そんな……そんな……」
乾いた喉に、舌が張り付く。引きつる様な嘔吐感が襲うが、それを呑み込んで叫ぶ。
「お前!!そんな事一言も言わなかったじゃないか!!」
「仕事じゃないもの」
浴びせられる怒号を微塵も気にせず、魅鴉はサラリと言い放つ。
「勘違いしないで。魅鴉は見届け人。術を得たあんたの行く末を見届けるだけ。必要以上に干渉は出来ないし、するつもりもない」
「―――っ!!」
あくまで冷静。そして、冷淡な物言い。光貴は言葉を失う。
そんな彼に向かって、魅鴉は続ける。
「ほら。不抜けてていい訳?こうしている間にも、あの娘は動いてるわよ」
虚ろだった光貴の目が、ハッと見開く。
「もうすぐ、街が眠りにつく。あの娘は、それを待ってた筈」
魅鴉の顔が、薄く笑みを浮かべた。
「最初に狙われるのは、どっちかしらねぇ?」
ダッ
立ち上がった光貴が、弾ける様に走り出す。
自分の横を駆け抜け、外に飛び出していく光貴。その背を肩越しに見送りながら、魅鴉はボソッと呟いた。
「まぁ、これも、道筋の一つでしか、ないんでしょうけどねぇ」
そして、彼女の姿も夜闇の中へと掻き消えた。




