弐
「皆……!!」
咄嗟に、リーダーの男が声を張り上げる。しかし、その声が形を成す前に、
ブシュッ
奇妙な音が響いた。
思わず向けた目の先で、仲間の一人が首から赤い飛沫を上げていた。
自分に何が起きたかを知る間もなかったのだろう。悲鳴はなかった。
絶句する皆の視線の中、倒れた男の背後で屈み込んでいたつきなが身を起こす。ギトギトとヌメつく肉片を飲み下すと、彼女は汚れた口をグイと拭った。
「ひ、ひぁあああ!!」
男の一人が、引きつった声を上げて腰からソファーの上に崩れ落ちる。
「ば、化け物がぁ!!」
もう一人の男が激昂し、取り出した警棒でつきなに殴りかかる。迫る鋼の棒を視界に捉えながら、けれど彼女は微動だにしない。
ガツッ
響き渡る、鈍い音。警棒の一撃はつきなの頭を削り、肉片とも血漿ともつかないものをキラキラと散らす。けれど――
キョロリ
ガクリと傾いだ頭が元の位置に戻った時、そこに穿たれた筈の傷は、もう跡形もなく消えていた。
「うぉあ!?」
驚きと恐怖の混じった声を上げ、男はがむしゃらに警棒を振り回す。
「死ね!!死ね!!死ね!!死ねぇえええ!!」
ガスッ ボクッ ボキッ ゴキッ メチャッ
鍛え上げられた男が、渾身の力で振り回す警棒。それが、華奢な少女の身体を打ちすえる。幾度となく響く、骨が割れ、肉がえぐれる音。
けれど、それは全てつきなの身体に痕を残す事なく消えていく。
「何なんだ!!何なんだよぉ!!お前はぁああ!!」
半狂乱の体で、男は凶器を振るう。
「死ねよ!!死んでくれよぉおおお!!」
男は泣き叫びながら警棒を投げ捨てると、懐に手を入れる。引き出された手の中には、鋭く光るナイフがひと振り。
ザスッ
つきなの胸に、無骨な刃が突き立つ。
一瞬、彼女の動きが止まる。男の顔が安堵した様に緩み、そして――
「……うるさいなぁ……」
固まった。
「ヒッ!?」
声を引きつらせながら、身を引く。しかし、それはかなわない。
ナイフを握る手に、蠢く髪の毛が幾重にも絡みついていた。
「―――っ!!」
ザグゥッ
悲鳴よりも早く、異音が響いた。
長い黒髪が意思を持った様に踊り、男の身体を細断していた。
バチャァッ
「ひぃいいいっ!!」
床に水をぶちまける様に広がる、血と肉片。腰を抜かしていた男が、散った飛沫を受けて悲鳴を上げる。
「………!!」
凄惨な光景の中、リーダーの男は呆然と立ち尽くしていた。
人々が裏と呼ぶ世界に生きる道を見出して以来、血生臭い修羅場は何度も超えてきた。人が聞けば眉を潜める様な仕事も、幾つもこなしてきた。人、特に子供の拉致など、さして珍しい仕事ではない。
異常嗜好者の玩具。金だけが有り余った病人の、部品取り。需要は、いくらでもある。今度の件も、いつも通りの事だと思っていた。依頼人にこそ多少の違和感は感じていたが、破格の報酬の前では些細な事だった。
易く高い仕事。断る理由などなかった。
しかし――
サクッ
彼の目の前で、”それ”が胸に刺さったナイフを無造作に引き抜いた。
心臓を貫いていた筈のそれは、抜いた瞬間にほんの数滴赤い滴を散らすだけ。血が噴き出すどころか、服に染みた跡すらも広がらない。
「破れちゃった……。あやなの服……」
服にあいた切れ目を見つめながら、悲しげに呟く”それ”。
異常だった。
何もかもが、異常だった。
知り尽くした筈の裏の世界。表通りの常識から逸脱した、汚泥の溜まり場。そこにおいてすら、なおどうしようもない、”異端”だった。
「……一体、お前は、何だ……?」
命のやり取りの場で、相手に質問をするなど馬鹿げている。そんな事、当然の様に心得ていた。けれど。それでも。彼は問うた。純粋な好奇心か。恐怖による逃避か。それは彼自身にも分からない。ただ、自然とその言葉を口が紡いでいた。
“それ”が、キョロリと視線を彼に向ける。
淡く蛍緑に光る瞳孔。人間の目ではない。
もっと早く気づけば、結果は違うものだったろうか。それすらも、今は些細な事だけど。
「……どうしようかな……」
”それ”が言う。
ピチャリ
湿った音が聞こえた。
それが、広がる血溜りの中に一歩踏み出していた。
ピチャリ ピチャリ
一歩。また一歩。近づいてくる、”それ”。
「……部屋。あやなのなのに。無茶苦茶になっちゃった……」
独りごちる、声。
その目が見回すのは、真っ赤に染まった部屋の惨状。
「ねえ。どうしようか?」
困った様に、言う。
ピチャリ ピチャリ
その姿はもう、目の前。
ザワリ
水音とは、別の音が聞こえた。
”それ”の髪が、ざわめいていた。
たった今、一人の人間を細切れにした黒い髪。それが、赤い滴を散らしながら、ザワリ、ザワリと騒いでいる。
「何なんだ……お前は……?」
逃げようとは思わなかった。それがもう、叶わないと知っていたから。だからせめて、答えを得ようとする。
けれど、そのあえかな願いも叶わない。
”それ”は、ただ囁く。
「ねえ。どうすればいい?」
ザワリ
黒く長い髪が、大きく広がる。血を被った照明が、ジジと明滅する。その中で烏の濡れ羽の様に輝くそれは、死を誘う天使の翼の様に見えた。
「本当に」
天使が詠う。
「困ったなぁ」
そして、それが彼の見た最後の光景となった。
「ひぃ……ひぃいいい……」
つきなは、血に染まったソファーで腰を抜かしている男を、色の無い眼差しで見下ろした。その男も武器を携帯していたが、それを振るう気力は完全に萎えている様だった。
「よ、寄るな!!化け物!!」
泣き叫びながら手を振るが、懇願はつきなには届かない。
「ひぃっ!!」
成す術なく、泣き叫ぶ男。そんな彼に、つきなは身を屈めて視線を合わせた。
「ねぇ」
怯える男の顔を真正面から見つめながら、問う。
「貴方達は、雇われ人?」
ここに至って、もはや偽証も黙秘もありえない。男はぶんぶんと頭を縦に振る。その行為に、あえかな望みを託しながら。
「ふうん……?それじゃあ……」
蛍緑の目を細めながら、もう一問。
「貴方達を雇ったのは、だぁれ?」
「あぅ……あぁう……」
答えようとするも、震える口から出る声は、うまく言葉の型をなさない。それを察したつきなが、両手を伸ばす。冷たい手が、男の顔を挟む様に固定した。
「ひっ!!」
上ずった悲鳴を上げる男を、つきなは見つめる。
しばしの間。
やがて、つきなはその手を男の顔から離した。
ホゥ。
小さく息をつくと、つきなはうんざりした様に呟く。
「やっぱり、か……」
「?」
「ありがとう。全部、分かった」
当惑する男にそう言うと、つきなは男の頭を撫でる。男の顔が、微かに綻んだ。
「そ、それじゃあ……」
「うん」
頷きながら、薄く笑む。そして、一言。
「もう、いらない」
瞬間、赤い花が部屋いっぱいに咲いた。
「はぁ……」
顔に散った鮮血を拭いながら、つきなは独りごちる。
「このままでもいいかと、思ってたんだけどなぁ……」
その目には、かの姿がありありと焼き付いていた。
少年。
見知った顔。見慣れた姿。
「放っておく訳には、いかないか……」
薄い唇の間で、白い牙がキチリと鳴った。