序
気がついた時には、『ソコ』にいた。
酷く、不思議な場所だった。
一切の光もなければ、一切の音もない。
まるで、深海の様。
グルリ、と周囲を見渡してみる。暗いのに、視界は明瞭。そして、その中に。
『棚』。
一つ一つが馬鹿馬鹿しいくらいに大きな、黒塗りの棚の群れ。幾つも列になって、視界の果てまで延々と。中には、ギッシリと詰め込まれてた書の類。
小説。漫画。随筆。図鑑。題にも著者にも、覚えのあるものは一つも無く。
日本語、英語、中国語、フランス語、ラテンにハングル。何処のものかも知れない、奇怪な言語。
様は図書館の様にも思えるけど。
気味が悪い。けれど、他に出来る事もない。奥に進む。
「珍しいですか?」
不意に、声。唐突に切れる、書架の列。
クスクスクス。
闇の向こうから。
「書籍など、今の世では嫌でも目に入ってくるでしょうに」
向けた視線の先には、ぽつんと設置された円卓が一つ。ただ、普通の円卓とは少し違う。中心に、ちょうどドーナツの様に穴が空いていて、その中に二つの人影があった。
一人は男の子。椅子に座って、頬杖をついてこっちを見てる。多分、歳の頃は14~5歳。とても整った顔立ちが、印象に残る。
レトロなハンチング帽を被っていて、首にはとても長いマフラーを巻いている。床にまで届きそうなそれが揺れるのに合わせて、彼もニコリニコリと笑む。
そんな彼の奥。マフラーと同じ様に、宙でサラサラと揺れるものがある。
それは、髪。とても深い黒に彩られた、長い髪。その主が、この部屋のもう一人の主。
女の子。見た歳は、マフラーの男の子と同じくらい。小柄な身を、黒と白が絡み合った不思議な模様の着物が包んでいる。
長い前髪の間から覗くのは、ぞっとするほどに綺麗な顔。
眠っているのだろうか。瞳は薄く閉じられて、寝椅子に委ねた身体は身動ぎ一つしない。
「この距離では、些か話がし辛いですね。もう少し、此方に寄っていただけませんか?」
男の子がそう言って、手招きをする。
「すいませんね。客人相手に不躾なのは承知の上ですが、こっちにものっぴき成らぬ事情というヤツがありまして。まぁ、構わないでしょう。礼を逸しているのはお互い様でしょうし」
暗に、不法侵入の事を言っているらしい。そんな事を言われても、こっちはこっちで、何でここにいるのか分からないのだけれど。
クスクスクス
男の子が、笑う。
「何故”ここ”にいるのか、分かりませんか?」
まるで、こっちの頭の中を読む様な言葉。戸惑う様子を楽しむ様に、男の子は続ける。
「でも、ここにいるのは、間違いなくあなたの意思ですよ」
当然の事の様に言われても、こっちにはそんな覚えは全然ないのだけど。
「お教えします?」
困っていると、男の子がそう切り出してきた。何だか、これでもかと言うくらいの不審人物だけど、他に頼る当てもないし。まあ、獲って食われる事もないだろうから、話を聞く事にする。
「先にも言いましたが、ここにいるのは純然たるあなたの意思です」
「大事な事なので、二回言いました」と言って、男の子はまたニコリと笑う。
何か、からかわれている様な気もするけれど、怒った所で事態は好転しない。むしろ、唯一の情報源に見放される方が怖い。大人しく、聞く事にしよう。
「賢明な事で」
嬉しそうに言うと、男の子はついとこっちの背後を指差した。釣られて振り返ると、そこには変わらず延々と続く書架の群れ。
「ありませんでしたか?」
急な問い。ちょっと、訳が分からない。
「その様子だと、まだ見つけてはいない様で」
言いながら、男の子が手の平を返す。途端、その手の上に明かりが灯った。薄闇に慣れきった目。突然の光が、目に痛い。
「失礼。眩し過ぎましたか?」
そんな言葉と一緒に、強かった光がキュウと細くなる。見ると、男の子の手の上でランタンが一つ、ユラユラと燃えていた。
「手元が暗くては、不都合でしょう。これをお使いください」
何を言われているのか、とんと意味が分からないのだけど。悩んでいると、それを見越した様に男の子が言う。
「ここは、『術渡ノ宇』と言います」
『すべわたりのそら』?聞いた事がない名前。何かの施設だろうか。
「施設……と言うのは語弊がありますかね?まあ、理解しやすい形で理解していただければ結構ですよ」
曖昧な答え。理解に苦しんでいると、男の子が唐突に言った。
「“ここ”には、あなたが望む“術”があります」
思いもしない言葉に、思わず呆気にとられる。
「どうしても叶えたい、願いがあるのでしょう?」
ランタンの光の中で、男の子の目が心の底まで見通す様に昏く輝く。
「“ここ”には、あらゆる世のあらゆる“術”が保管されています。当然、あなたが望むものも」
「馬鹿な」、と思った。そんなもの、ある訳がない。だって、自分が。自分が求めているものは……。
「在りますよ。間違いなく」
男の子が笑む。笑みながら、言う。
「言ったでしょう?ここは、全ての“術”の集積所。あらゆる事を成すための、あらゆる“術”が書という形で収められています。無いものは、ありません。たとえそれが……」
薄い唇が、優しく紡いだ。
「あなたの世で、不可能とされている事でもね」
気づくと、男の子の手からランタンを受け取っていた。
「ここに眠る“術”達は、常に己の具現を求めています。あなたが望めば、応ずる“術”は自ずからあなたを導いてくれますよ」
訊く事は、それで全てだった。仄明るく燃えるランタンを手に、再び書架の群れへと向かう。
「良き出会いを……」
背後で、男の子が笑いながら囁く声が聞こえた。